第10話 愛し子

 ワーズ以下、全員が走り去った部屋。

 残されたシウォンは横を向くなり、唾を吐き出した。

 暗がりでは判別できない、血生臭いソレ。

「くそっ…………ヤツめ……くだらん遊びを……」

 銃口に抉られた傷が治っていくのを感じながら、歯を軋ませて呻いた。

「ガウ」

 肯定する嘆息混じりに、彼を押さえたまま、臭気に顔を歪め続ける猫が鳴く。

 そんな金の眼へ、鮮やかな緑を投じるシウォン。

「お前もお前だ、猫。俺を押さえるより泉を助けに行ったらどうだ? 人魚相手だろうが、気に入った相手だろう? みすみす奴らに与えるつもりか?」

「…………グシュ」

 拗ねたように猫が鼻を啜る。

 まるで仕様がないと言っている風体に、シウォンが胡乱な目を向けた。

「…………てめぇ……アレルギーだかなんだか知らねぇが、好き嫌い言ってる場合か!? とっとと退け!」

「グルゥ…………」

 それはできないと頭が振られ、舌打ちしては抗議に持ち上げた頭を叩きつける。

 猫に対しての恐怖は、こうしたやり取りを交わしてもなお、色濃くあるシウォン。

 だが、他の住人とは感じ方が違った。

 彼らは殺されることばかりに怯えるが、シウォンの場合、殺されようが殺されまいが、猫は恐れるべき相手なのだ。

 そして常に――敬うべき存在。

 ……気位の高いシウォンが、素直に猫へ従うことはないが。

「……ああっ、調子が狂う! 泉、あの小娘が目覚めてからずっとだ!! アイツが寝ていた時は、こんなことはなかったというのに……」

 実はシウォン、泉が芥屋で目覚めるよりも前に芥屋を訪れていた。芥屋のソファで眠っている娘を見た、という情報の元、下調べ、もしくはそのまま連れて行く算段で。

 けれど、肝心の彼女は眠ったまま。容姿も好みから完全に外れていたため、その時はあっさり引き下がったのだが。

 もちろん、猫とワーズがその場を離れていた時に、である。

「グゥ?」

 そんなシウォンのぼやきを聞き、猫が問うように首を傾げる。

 とはいえ、デカい独り言を言ったに過ぎないシウォン。

 答えるつもりもない――が。


べろんっ


 喋りを促すように顔面が舐められた。

「ぶべっ、や、止めろ、舐めるな!」

 本気で嫌がれば、ゴロゴロ喉を鳴らした猫が、甘える仕草で顰めた顔をシウォンの首元へ摺り寄せてくる。

 体毛の影が舞い、視界が黒い靄に包まれる。

「くっ…………分かった……分かった! 話す、話してやるから、懐くなっ!」

べろんっ

「舐めるのもナシだ!」

「ウウウウウ……ガウッ!」

 押さえつけられた四肢の下、身を捩れば不満そうな声が猫から漏れた。

「……だからお前に会うのは嫌なんだ」

 青褪めつつ、シウォンが横でぼやく。

 昨日の昼間は、泉が猫を止めてくれたから良かったようなモノの……。

 あのまま行けば確実に、しばらく猫の遊びに付き合わされていただろう。


 シウォンと猫。


 その関係を表すに一番適当な例えは、親子、だった。

 しかも猫が親でシウォンが子。

 出会ってよりこの方、猫の中では未だに変わらない、シウォンにとっては不本意な認識。

 加えるなら、ドン引きするほどの溺愛っぷり。

 これを象徴する話がある。

 まだ狼首ではなかった頃、いきなり猫に首根っこを引っつかまれたシウォンは、連れ込まれた広場で、上司だった男と対面させられた。

 この男は、当時から色艶では男女両方に引けを取らなかったシウォンに対し、上役なのをイイ事に、アレコレ不審な誘いをしていた内の一人。すでに男を抑え込めるだけの力は備わっていたが、まだ狼首を崇拝していた当時の彼が、手にかけて良いほど低能だったわけではない相手。適当なことを言っては逃げに徹することしかできないシウォンにとって、男の存在はストレス以外の何ものでもなかった…………が。

 だからといって、嬲り殺す様を十日間、学べと言わんばかりに、見せつけるのはいかがなものか。

 ただでさえ、猫に会えば半殺し状態になるまで、構い倒されてきたシウォン。

 自分と同じ種族の者が、幾ら憎く思っていた相手とはいえ、抵抗も許されぬまま小さくなっていく姿は――。

 いつしか自分と重なって、ますます猫が恐ろしくなる始末。

 男の死体を見た虎狼公社では、男は普段から芥屋を快く思っておらず、爪一枚をちょろまかしたせいでああなった、やっぱり猫は恐ろしい、という噂がまことしやかに流れた。

 一方で、その日を境に、シウォンへ誘いをかける上司はいなくなったので、たぶんきっと、誰かが気づいたに違いない。

 時折、猫に首根っこを咥えられ、お持ち帰りされては、芥屋の高級食材を土産に、ズタボロになって帰って来るシウォンを見て。子どもにちょっかい出されて、親がキレた――という、成人男性に取っては恥のような真実に。

 察したと思しき連中は、虎狼公社を乗っ取った時に一掃したものの、猫の残忍さを示す逸話は偽りの噂で広まっており、シウォンもこれに乗っかっては、群れの若い衆へ、猫への注意を促していた。


 真実、なんて、自分の矜持を保つためなら、幾らでも捻じ曲げられるのだ。


 少しだけ遠い目をして、過去へ意識を飛ばしていたなら、催促するように猫の頭が胸を打った。

「ぅぐっ」

 背にかけて響く衝撃。

 恐ろしいのは、これすら猫にとってはじゃれついているに過ぎない事実。

 咳を数度繰り返しても、猫は臭気に顰めたままの顔つきで、どうしたんだろうと首を捻るばかり。

 殴りたい、と常々シウォンは思う。

 思うだけで、四肢が自由なら、一目散に逃げ出しているところだ。

 過去一度だけ、本気で猫を殴った拳は、遊びたいのだと勘違いされ、酷い結果を己にもたらしている。

 せめてワーズがいたなら、殴るだけで事足りるのだが。

 猫を喰らいたいという珍奇な輩の前では、さすがの猫もじゃれついたりしない。

 また催促の頭突きを喰らう前に、口を開きかけたシウォン。

 しかし。

「グル…………なぁうう」

 ぴくんっと耳を動かした猫は、収縮すると同時に後ろ向きのままシウォンの上から飛び退り、地面に伏しては前足で器用に鼻を押さえた。

 突然の解放に身を起こしたシウォンは、放せと言っても放さなかった猫の様子に勘づく。

 猫と繋がりを持つという、彼女を浮かべて。

「っ! 泉に何かあったのか!?」

「みー」

 返答は短く。

 すぐさま後を追おうとするシウォンだったが、一度だけ猫を振り返った。

「……ワーズに、任せなくていいんだな?」

 幾ら親子と認識しようが、芥屋の店主の決断は、そのまま猫の決断になる。

 なればこそ、銃を付きつけたワーズの言動は、猫の意思に近く――

 また逆も然り。

「み゛ゃ!」

 いいから早く行け!

 そう伝わる鳴き声を受け、シウォンは思いっきり地を蹴る。

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