第9話 人魚
鬼火の登場で退いた人魚たちが次に向かったのは、上にいると知らされた、愛しい少年の元、ではなく――。
滴る血は幾度となく流されたもの。
金髪の幼女はこれへうっとり微笑みかけると、爪にこびり付いた血を舐めた。
「ふふふ……彼女が言っていたのは、こういうことなのかしらね?」
同意を求めるように周囲へ目を向けても誰もおらず、しかし、幼女は構わず頷く。
「ええ、最高に晴れ晴れとした気分。長年の荷が下りた感じだわ。私の方はもう終えたけれど……そう、皆も終わったのね。良かった」
積み重ねたモノに腰掛け、きゃらきゃらひび割れた声で笑っては、届かぬ足をバタつかせる。
ぬかるんだ地が、薄暗い室内の中、てらてら黒く波打つ。
幼女が――彼女の皮膚と骨を与えられた人魚が今いるのは、虎狼公社の、とある店のロビー。人魚は知らぬ場所だが、この輪郭の持ち主にとっては、おぞましいモノが凝縮された、忌むべき店だった。
本来、愛した男を追う習性を持つ人魚が、その男を一時的にでも放り、この場へ訪れた切っかけは、老女が首を掻き切られ絶命した時の、泡として浮かんだ記憶の喜び。
人魚を自ら受け入れたかのえほどではないが、死にかけの身体を使用したせいで、幼女の意思が残っていたらしい。
陰惨な記憶は、人魚には新鮮な響きしかもたらさず、それでも怯える幼女に対し、微かな怒りが込み上げてきた。
不可思議な感覚任せに、忌まわしい記憶の欠片たちを屠る。
思った以上に華やぐ意思に感化され、人魚は満足そうに微笑んだ。
虚空へ話しかけるように、その実、同じ怒りのまま離れ、終えては笑う同胞へ、
「さて、そろそろ行きましょうか? 彼とあの子、まだ逃げてるし。私たちも合流しなくちゃね?」
反動をつけて、モノから降り立つ。
ぴちゃ……
小さな波が起こっても関せず、ただ少し、朱に染まった幼女の足を残念がる。
ふと、気配を感じて振り向けば、扉から新たに不快な記憶の姿が現れた。
「なんだこりゃ……どうして皆死んでる!?」
今まで人魚が腰掛けていたモノを見、こちらに気づいてはずかずか近寄ってくる男。
そして、問答無用で振りかざされる拳。
響いたのは「玩具」と彼女を呼ぶ声。
呆れるほど勝手な言葉に、人魚はなんの感慨もなく、その喉を掻っ切った。
床のカサが増し、モノが一つ増える。
自然に零れたため息は、閉じた口元に笑みを生み出し、もう一度見た扉向こう。
覗くのは青褪めた顔。
痣を幾つも作った小さな裸体が、震える唇で輪郭の名を呼んだ。
かける言葉などなく、けれど店を出る間際、彼女は背後へおざなりに手を振る。
* * *
走って走って走って走って――――
徐々に酸欠を訴える頭痛と、急激な運動についてゆけない腹痛と、空腹からくる体力の減少が、泉たちを襲う。
反面。
「「「「「待ってぇ」」」」」
腕を伸ばす、道化然の人魚の生白い身体には、疲労の色が全く見当たらない。
と思えば、一体がこけた。
宙に浮き、地面へ激突――した瞬間。
「げ」
嫌な音をたて、ニオイを一層濃厚にして飛び散る肉塊のゼリーは、他の人魚にも影響を及ぼし、連鎖反応で数が激減していく。
けれど喜ぶことはできない。
何せ、すぐさま新しい人魚が補充されるのだ。
このため、勝手に自滅する一団の、五感を刺激する不快感だけが募ってゆく。
いっそ、幽鬼相手で逃げる方がが万倍、楽だったかもしれない。
それはそれで危険な妄想を一緒に走り出させる泉。
彼女は知らないことだが、この妄想、実は奇人街の住人の大半が思うことだった。
幽鬼を一撃で倒せるという狩人も例外ではない。
強固な身体で力押しする幽鬼に対し、人魚の本当の攻撃はその脆さにある。
個体を倒すのに必要な力は、幼子の拳でも充分事足りる。
しかし、傷口からずるっと皮が剥け肉が現れる様、砕け散った肉塊から発せられるニオイ、踏みつけた際の嫌な響き、耳障りな音、間違って口にした後の壮絶な味は、精神的苦痛を強いるのだ。
なればこそ、惚れられた相手が狩人であった場合でも、易々と捕らえられてしまう。
しかも被害は当事者だけに留まらない。
砕け散った人魚の身体は放っておくと、どんどん生臭さが増していく。その上、陽に当たれば程なく水分を蒸発させ、赤い砂状となって空中を漂い、奇人街の悪辣な空気を更に悪化させるおまけ付き。
もし、人魚が去ったからと安心して店でも開けようものなら、商品の全てに人魚のニオイが付着してしまうだろう。
微に入り細に渡って……。
奇人街の中で人魚ほど、存在自体が嫌がらせに等しい生き物はいなかった。
そんな人魚の、本領でもある嫌がらせを受けながら、逃げ続ける泉たち。
限界はすぐそこまで来ていた。
これを解消すべく、芥屋へ向かう案も走る二人の間で交わされたが、肝心の自分たちがどこにいるのかさえ分からぬ状況。
打開策もなく、幾度も大きな通りを全速力で走り抜け――
「べっ!」
こけた。
今度は人魚ではなく、もつれた足に自分の裾を引っ掛けてしまった泉が。
「泉!?」
しかもずっと回避し続けていた鼻を打ってしまったため、滲み出てくる涙が彼女の視界を歪ませる。
顔を上げた先では、振り返る竹平の、斑な水色の衣だけが映る。
と、ざわり、嫌な予感に襲われ、うつ伏せの身体を転がした。
瞬間、今まで泉のいた場所を穿つ、数枚の瓦。
割れることなく突き刺さったソレは、打たれ弱い人魚が放ったとは思えないほど深い。
「っ!?」
狙われているとは聞いていたが、こんな風に命を狙われるとは聞いていない。
袖で涙を拭い、赤くなった鼻を擦りながら、尻餅を付いた格好で後ずされば、見計らったように地面へ降り注ぐ瓦の雨。
破片が頬を掠めては、薄く血が滲む。
「「「「「あら? ずいぶん、すばしっこいのね?」」」」」
「な、何しやがる!」
感心した重奏から泉を庇うよう、へっぴり腰の竹平が間に立った。
すると今まで彼を求めた動きはどこへやら、勢ぞろいした白い顔が、立ち止まっては同じ方向へ傾いだ。
「「「「「邪魔しないで、シン。その子、邪魔なの。変に貴方が想いを注いでしまったから。それに――かのえの案なのよ、これ」」」」」
「かのえ……?」
人魚たちの告白に竹平が一歩退く。
これを非難するように泉が叫んだ。
「嘘よ! だって彼女は――」
「「「「「嘘じゃないわ。かのえ、シンに近づく女は全部敵だって、要らないって。私たち、本当はかのえと貴女の両方が欲しかったのに。だって想いがたくさんあれば、それだけ楽しく過ごせるでしょう? でも、かのえは違ったみたい。シン、心当たり、あるでしょう? あの子、目的のためなら手段は選ばないって」」」」」
「…………!」
俯く竹平。
背を向けられているため表情は分からないが、震えから考えていることは察せた。
思い出しているのだろう。奇人街で目覚める前、心中を謀ったという彼女のことを。
しかし、泉は思う。
初めて会った時の敵愾心剥き出しの瞳と、彼を託した優しい瞳。浮かぶのは、再びシウォンに添うためとはいえ、一時は殺そうとした相手を助ける二人の人狼女。
普通の人間の感覚ならば、在り得ない心変わりと思っても無理からぬところだが。
ここは奇人街で、そして彼女は人魚を宿している。
「違うわ」
静かに断言すれば、竹平が僅かに反応する。
彼越しの白い一団は、傾げていた首を逆に傾けた。
「「「「「違う? 貴女に分かるの、彼女のことが? 彼女との繋がりさえない貴女が?――――本当は名前すらない、貴女が?」」」」」
「っ」
息を呑む。
合わせた瞳から、何かを読み取ったのだろうか。
苛まれた心が軋みを上げる。
けれど。
「……泉」
振り返り名を呼ぶ竹平の顔が、途方に暮れ、揺れているから。
動揺をひた隠し、泉は身を起こして噛みついた。
「だから、何? 繋がりを断たれたくせに、まだ彼女を語る資格があるとでも? 私は頼まれたのよ。お願い、って。貴方たちの繋がりを断った彼女から!」
ついでに近くにあった瓦を左手で掴み、思いっきり投げつけた。
連鎖反応を起こし、崩れゆく道化の一部。
「彼女のことなんか知るわけないじゃない! それでも頼まれたんだもの!」
啖呵を切った勢いで立ち上がる。
「行きましょう、竹平さん!」
未だ動揺する茶色い瞳の腕を掴んで引いた。
「話を聞く相手が違います! かのえさんを蔑ろにしないでください!」
「っ……分かってる!」
払われる腕。
よろけながらも、己を取り戻した竹平にほっとし、駆け出しては――。
「「「「「逃げられる……とでも?」」」」」
静かな重奏に阻まれる。
「!」
「囲まれたっ!?」
ぐるり、見渡せば白い道化の群れ。
正面の相手しか見ていなかったため、気づくのが遅れた。
怯みつつも構える二人へ、にやにや笑う人魚たちはうっとりと囁く。
「「「「「ふふふ……イイわ、貴女。かのえと繋がっていた時に得た情報じゃ、彼と出逢ってまだ一日しか経っていないのに……彼と想いが通じてるなんて。……そうね。かのえとの繋がり、なくなっちゃったし。やっぱり当初の予定通り、かのえと貴女、二人とも手に入れるわ。そっちの方が、色んな角度の彼を見られるもの」」」」」
「くっ」
じわり、逃げられないと知っては、弄るように近づく、幽鬼に似た道化の顔。
その度、深まる臭気は鼻と口を押さえても意味を為さず。
「「「「「シン……貴方、すごく人気なのよ? こうして陸にいる私たちでさえ、貴方に恋した半分だけなの。残りは凪海で待っているの。貴方に会ったのは海に暮らす一握り。でも、繋がりがあるから。伝わった分だけ、貴方は皆に行き渡ったわ。大丈夫、怖いことなんてないのよ。怖いと思う心は封じてしまうから。愉しいコトだけ浮べて――――」」」」」
舞台女優の優雅さで近づく、醜悪な女の線を持つ腕が、竹平へ伸べられ、
「「「「「一緒に、イきましょう?」」」」」
しゃがれた響きが耳を劈き――
世界が白に埋め尽くされる。
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