第2話 密約
黒一色の男と鬼火の一触即発の雰囲気は持ち越され、今は竹平たちに追いつくのが先決と走り出す、直前。
「かのえ、ほらよ」
失った肉をバランス良く全身に巡らせたかのえへ、クァンが何かを投げつけた。
受け取れば、てっきり他の肉塊共々燃やされたと思っていた自分の手。
「どうして」
「アタシゃ、人魚の尻拭いは御免だからね」
不貞腐れたように口を尖らせ、ぷいっとそっぽを向くクァン。
振り返らず先を行く白髪へ、困惑だけ浮べれば、悪戯っぽい声が内に響いた。
――ふふふ……意地っ張りね、クァン。本当、お気に入りなんだろうね、かのえのこと。
「裏切ったのに?」
――その辺は奇人街だもの。だけどきっと……私は歓迎されてないわ。
少しだけ寂しそうな音が、かのえの胸を締め付ける。
そこにはもう、心情を表す脈動はないのに、記憶から呼び起こされる感傷は、錯覚の痛みをもたらした。
笑みが浮かぶ。
「ううん。きっとクァン、貴方のことも好きよ。ただ、今まで憎んできたから、素直になれないだけで」
――かのえ……ありがとう。
「ううん……あ、そうだ。誰か、ソーイングセットとか持ってない?」
自分の手を持ちながら走るかのえが尋ねたなら、
「はっ、人魚からお針子にでも転職する気かい?」
小馬鹿にした様なクァンの声が続き、
「ほれ、芥屋の。アンタ、どうせ持ってるんでしょ? 出しな」
「やだね。冗談じゃない。身体が人魚の奴に、貸せるモンなんてないよ」
ふらふら先頭を走る男は、後ろへ頭を傾げては、こめかみに銃口を向け、真っ赤な口で笑う。
黒いシルクハットの下、闇色の髪からどろりと覗く、細まった混沌。
身が竦む思いをしたなら、庇うように鬼火の姿が重なった。
「アンタ、人間の意識があるって言ってたじゃないのさ」
「意識だけ、ね。話す分には構わないけど、触れるのも、触れられるのも、間接的にだってイヤなんだよ、ワーズ・メイク・ワーズは」
「……クソガキ」
「鬼ババア」
「んだと、この野郎!!」
突如、燃え上がるクァンの身体。
寄れば溶ける熱にペースを抑えたなら、横合いから差し出される、鋭い爪。
いかつい手の平の上には、可愛らしいキャラクタが描かれた、缶ケースが乗っていた。
見上げると、凶悪な相貌の人狼が、笑んでいるつもりなのだろう、鼻面に皺を寄せ歯を剥き出している。
どう見ても、さあ今からお前を喰ってやる、と言わんばかりの顔つきである。
人魚と同化してからというもの、鈍る一方の感覚が、恐怖を思い出して若干引いた。
すると人狼は頬を掻きかき。
「えっと……ソーイングセットなんだけど……いらなかった?」
理解に至るまで数秒――のち。
「あ、貴方の?」
「うん、俺の」
「…………あ、ありがとう」
どうしてこんな強面が、こんな物を持っているのか、疑問は尽きないが、ここは素直に頂戴しておこう。
走りながら器用に缶を開け、
「う」
なんとなく、呻く。
素っ気ない針や針通し、可愛い花を付けた待ち針は良いとして。
何だろう、黒と白の糸が上下に巻きつけられた、このファンシーな物体は……。
しかも、綺麗に使っている形跡まであった日には。
見るとも為しに人狼を見る。
「あ、糸足りないかな? 補充ならこっちの袖に――」
「……ねえ、貴方。いつも持ち歩いているの、コレ」
本当は聞きたかないが、この際だから聞いておこう。
付き合っている彼女か何かが、悪戯心で彼に装備させたのかもしれない。
いや、絶対そっちだ。
(じゃないと……嫌――)
「うん。着物がほつれると、それ理由にして纏わりつかれるからさ。こう見えても俺、裁縫結構得意なんだ」
ほけほけ、声だけ朗らかに笑う、そら恐ろしい顔。
(……ギャップが…………ついていけない)
――負けないで、かのえ!
内の”彼女”に応援され、気を取り直す。
(そうよ、こんなところで負けちゃ駄目…………シンを――竹平君を助けなくちゃ)
会って。
出来たら話して。
言いたかったこと全部――――そして。
ぷす。
「だあああああっ!!」
糸付きの針を通した途端、隣から上がる悲鳴。
目を丸くして見たなら、並走する人狼が両頬に手を当て、この世の終わりを嘲笑う顔をしている。
いや違う、恐らくはショックを受けているのだろう。
「あ、そっか」
気付いたかのえ、縫いつけようとしていた右手首に視線を落とす。
「えっと、御免。縫うの布じゃないんだよね」
事後報告。
「そんなぁ」と情けない声を上げて項垂れる人狼には悪いが……。
まあ、やってしまったものは仕方がない。
せっかくクァンが燃やさずにくれたのだから、使わなければ損だし。
骨を断たれたといっても、 ”彼女”の立ち回りのお陰で、関節から綺麗に落とされた程度。皮膚を縫い合わせて、肉で筋繊維を補えば、戦いには向かなくとも、物を持つくらいは出来る。
何より、竹平と会うのだから、ホラーテイストの外見は少しでも形良くしておかねば。
ちくちく縫いつけ、針を抜き、糸を引っ張りつつ口に咥え、
「……返ふ?」
「……針入れに入れてくれ。消毒すればニオイは消えるだろうし」
「ん。……ごへんなふぁいふぇ?」
「……いいよ、別に」
差し出された手に、ぽんっとソーイングセットを返す。
申し訳なく思いつつ、片手で糸を硬く結び、
「よしっ!」
「じゃないだろ!」
「わわっ!?」
前方、クァンから布が投げられた。
どうやらジャケットの袖部分を引き千切ったらしい。
意味を図りかねて見やれば、振り返らない鬼火の耳が少しだけ赤く映る。
「手ぇ縫い付けたところで隠さなきゃ、あのガキ、引くだろうが」
「クァン……ありがとう」
そういえば彼女は竹平と会ったのだ。
客商売の長いクァンのこと、竹平の性格は易く察せたというところか。
苦笑しつつ、縫い目に巻きつけて。
ふと。
思い立ち。
「…………ねえ、クァン」
「……なんだい」
神妙な呼びかけに返される声は――静か。
――クァン、察しが良いのね。
”彼女”も静かにそう言って。
かのえは頷き。
目を閉じる。
浮かぶ姿がある。
とても、とても、大切な人。
会いたいと、もう一度、話がしたいと、思う。
叶うかは、分からないけれど。
それでも。
目を、開き。
「お願いが、あるの。もし……もしも――」
しかし、かのえの言葉は続かない。
クァンが先を継ぐゆえに。
「もしも、じゃあ、ない。……絶対、だろ?」
「…………うん。ありがとう」
心からの礼を告げ。
静かなやり取りが終わりを告げたなら、先に映るはエレベーターのレール――
と。
真っ二つに割れた瓦礫の間で、地面に身体をめり込ませた、小柄な人の形。
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