第七節 腐臭の都

第1話 前門後門

チン………


 間の抜けた軽い音が到着を報せる。

 同時に格子の扉が開き、泉は恐る恐るエレベーターから出る。

 が。

むぎゅっ

「ふぎゃっ!?」

 赤い裾を踏んづけられ、咄嗟に出した両手を地面に打ち付ける。

 顔面から行かなかっただけマシだが、構えていた分、削がれた精神が立ち直るまで、多少なりとも時間は掛かってしまうというもの。

「あ……悪ぃ」

 元凶の竹平は申し訳なさそうに言いつつ、先を行き、泉へ手を差し出してきた。

 これを恨めしく取った泉、立ち上がり、埃を払う。

「にしても……さっき着て思ったんだが、その服、デザイン性重視で、機動性は全く考慮されてないんだな」

「……まあ、私の服じゃありませんし。ある程度は慣れましたけど。……裾、破いちゃいましょうか」

「おいおい。……なあ、やっぱ踏んづけて怒ってんのか?」

「……踏まれて楽しい人間じゃありませんから」

 ため息を零しつつ、ぐるり、辺りを見渡した。

 エレベーターを背にすれば、四角い部屋の輪郭が、前方、扉を挟んだ二つの窓から注ぐ明かりで判別できる。

 虎狼公社と地上の街を繋ぐためだけに存在するような部屋には、生活感が一切なく、先程直に触れた地面も土の感触。

 天井にも、照明らしいものは見当たらない。

 左右の壁に窓はなく、後方にはエレベーターを中央に据えた左右に扉が二つ。

 内部屋へ続くような扉たちからは、あえて目を逸らす。

「竹平さん、それじゃあ――ぁ?」

 ――幽鬼がいるから朝まで待ちましょう。

 クイの忠告を思い出し、そう言いかけたが、向けた先に少年の姿がない。

 半端に開いた口のまま探せば、見つけた位置にぎょっとする。

「た、竹平さん! 開けちゃダメ!!」

 何の躊躇いもなく、外への扉を開けようとする竹平に、制止を訴えながら手を伸ばして駆け寄り、

「きゃっ」

 慌てたせいか、今度は自分で裾を踏んづけた。

「え?――おわっ!?」

 勢いづいたままつんのめる泉に、気づいた竹平は掴んでいた扉のノブを放した。ついでに一歩身が退かれ、泉はそのまま、反動で開いてしまった扉の向こうへ。


ぺた。


 よろけ出た身体は、外へ一歩踏み出したところで、ひんやりざらざらした感触を両手に受けて止まった。

 泉は咄嗟についてしまった生白い壁を恐る恐る見上げ、

「く、くいふん……」

「な、なんだ、コイツ」

 壁の正体が人間を好物とする幽鬼の胸板と知っては、背後で慄く竹平の声も遠くに聞こえた。竹平のせいとはいえ、目覚めてから日も浅く、こんな化け物がいることも知らない彼を恨むつもりはない。

 が、死を覚悟するしかない状況。

 黄色い一つ目とこげ茶の眼。

 しばし、呼吸を忘れて交わし合い――


はあ……。


 肉の削がれた剥き出しの歯から、不意に零れるため息。

「へ?――――ひ」

 困惑したのも束の間、そろり、触手のような指に右腕を撫でられたなら身が竦む。

 嫌でも思い出すのは、幽鬼に切り裂かれた腕と足の痛み。

 頬までぺたぺた触られ、総毛立つ泉。

 涙が目に溜まり、視界が歪む。

 けれど、幽鬼が行ったのはそこまで。

 泉の肩を扉へ押し戻しては、口をひん曲げて、またため息。

 のろのろと、時折物欲しそうな顔で泉を振り返りながら、項垂れ去っていく。

「え……ええ?」

 状況が理解できず、幽鬼から解放されて後も、泉が見るのは異様な光景だった。

 一匹見つけたら万はいると思え、という幽鬼、その全てが泉を――大好物の人間を一瞥するだけで何処かへ去っていく様。

 交わす視線の数だけ心臓が嫌な跳ね方をするのに、生白い身体は前を横切るだけ。

 茫然と立ち尽くす泉だったが、やがて気づく、その臭気。

 幽鬼特有の血と花の濃密なニオイとは異なる、酷く生臭いソレ。

 避けられない一撃を放つ割に、鈍重な幽鬼が全て去れば、嘔気を呼ぶニオイが一層深みを増す。一向に慣れる気配のない、不快なソレ。泉は袖口を当てて呼吸を和らげようとし――軽い衝撃に扉内へと押し倒された。

「なー」

「ええと、猫?」

 幽鬼の姿を認めたためか、それとも漂う臭気のせいか、竹平が扉を閉める。

「なんか凄い顔してるな、ソイツ」

 彼の言う通り、泉の胸の上で膝を折った猫は、いつもであれば愛らしくも澄ました顔を、中央へくしゃくしゃに寄せていた。

 見たことのない様子に、起き上がった泉は抱えた猫へ首を傾げる。

 とりあえず、地下での礼を口にしようとすれば、前足でぽすっと塞いでくる。

(喋るなってことかしら?)

 思えば、猫が小さく喉を鳴らした。

 心を読んだようなタイミングに驚きながら前足を除けたなら、左の足裏に影の体毛に紛れて白い肌が見えた。変わった肌の色に惹きつけられていると、渋面の猫が金の瞳を竹平へ投げる。

 はっと気づいて彼へ向かい、指を一本口に当てたなら、違わず意を酌んだ竹平が両手で自分の口を塞いだ。

 一体何があるというのか。

 判別はできないまでも、竹平と共に窓下の壁へ身を寄せる。

 ――くしゅんっ!

「へ? ま、猫――んむっ」

 泉の口を前足で押さえつつ、自身は数度に渡ってくしゃみをする猫。

 仕舞いにはぶるりと一つ震え、手の平サイズまで収縮。

 ぎょっとする泉と竹平を尻目に、猫は泉の袖に隠れてしまった。

(もしかして、この臭いのせい?)

 鼻を衝くどころか、頭を鈍器で殴りつけるに近い凶悪な生臭さは、時間が経つほどにますます強烈になってくる。扉を閉めても漂う臭気に、果たしてこの臭いの源はどこなのだろうか、そう竹平と視線を交わした時。


 二つの窓それぞれに、ぺたりと張りつく、生白い顔。


「「!?」」

 驚愕から、同時に相手の口を自分の手で塞ぐ泉と竹平。

 咄嗟に出たのが包帯を巻いた右手だったため、痺れる痛みに襲われるが、呻きはごくりと呑み込む。

 凝視する窓の顔は、幽鬼によく似ているが……。

 幽鬼が一つ目なのに対し、その顔には二つの眼球。

 にんまり笑む唇は分厚い朱の彩り。

 幽鬼と同じ病的な白さも相まって、質の悪い道化師にも似た顔の下には、女の優美な曲線を描く身体。

 あるいはひょうきんとも呼べる姿だが、窓に張りついたまま、血走った黄色い目玉をギョロギョロ動かし、室内を探る様は何とも不気味である。それが左右上下の位置を無視して増えるなら、なおのこと。

 幸いにも、光源を持たない部屋では、どの目とも視線が合うことはなく、しばらくすると胡散臭い笑顔は窓から離れていった。

 とはいえ、短い間であっても注視した分、気味の悪さは中々頭から消えてくれない。

(幽鬼……ではないみたいだけど……あの様子だと、幽鬼も苦手な相手なの? もしくは……新種?)

 塞ぐ手が離れたのを受け、泉も己の手を離す。

 訝しげな竹平の問う視線に、知らないと首を振った。

 初めて見る存在に戸惑い、袖内で震える猫へ答えを求めれば、扉が開かれる音。

 驚いて背後を見ても、泉と竹平が背にしている扉は閉ざされたまま。

 ならばとエレベーターへ視線を投じれば、別口で失くした声に喉が鳴り、こげ茶の瞳が開かれ揺れる。

 内部屋へ続くと思われた扉の一つ。

 ”道”と思しき赤と黒の空間を、ぽっかり暗がりに浮かび上がらせたそこには、白服を斑に染めた人狼が一人、立っていた。

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