第18話 災い転じて

「ほお?」

 今しがた見た物が信じられない泉は、感心する声を受けて緋鳥を睨みつけた。

 その背に庇われた形の竹平が、緊張に喉を鳴らす音を聞く。

 真っ向から泉の睨みを受けた目深帽の少女は、大きな口を笑みに模り、覗く牙の合間から涎をしたたらせていた。

 顎まで伝うソレを拭うように擦る。

「綾音様……御身は美味なれば、他の人間と一線を画す――そう思っておりましたが……いやはや、我が投擲退けられるとは、益々興味深い」

「緋鳥さん……どうして」

 一つ、小柄な少女が進めば、一つ、二人が下がる。

 これを楽しむように緋鳥は立ち止まると、可愛らしく小首を傾げた。

 長い爪で、帽子に隠れたこめかみ部分を掻きつつ、

「どうして、とお尋ねされますか。綾音様は合成獣について、あまり物を知らぬご様子。腹を割って語り合う雰囲気ではございませぬゆえ、簡潔にて失礼いたします」

 優雅な会釈に似せて、胸に手を宛て、自身を示す緋鳥。

「詰まる所、全ては我が種の本分がために。この身に宿りし種は全て――食の対象となるのです。人間も、例外なく……」

 過ぎる姿は黒一色。

 合成獣より内に無き種として求められ、内に宿りし種と認められぬ――

 自称する言は決まって、”一応”、人間。

 掠める疑問。

 しかし、深く考えていられる時間はない。

「…………だから、竹平さんを?」

「然様」

「なっ!? ま、待てよ、じゃあ泉だって」

 背後で様子を伺っていた竹平が、泉の前へ出て行こうとする。

 これを背中全部で押さえ込めば、緋鳥が凄惨に嗤った。

「愚かな……脆弱な人間風情が、従業員様たる綾音様と己を同位に置くなぞ」

「待ってください、竹平さんは従業員で――て、姿が人狼なのに、どうして人間って!?」

 驚きながらも近づく足取りから、竹平ごと一歩下がる泉。

 最中、ちらりと見た竹平の姿は、今も変わらぬ人狼女のままだが。

「人狼? ふ……くくく、綾音様、私めの職をお忘れなきよう。どの様な香を纏おうとも、そ奴が人間であることを、明時相手、察せられぬと思う方が可笑しい。いや失礼。従業員様たる方に、なんという無礼な口の聞き方。ご容赦下さいませ」

 非礼を詫びながら含まれる、嘲り。

 ぞわり、泉の背筋を悪寒が這う。

 生じる恐怖は、緋鳥へ対するものか、それとも――

 だが、背にした存在の震えを思い起せば、恐怖は払われ、変わりに息が呑み込まれた。

 緋鳥へ意識を投じたまま、彼女の背後にある洒落た造りの格子状のエレベーターを見た。

 距離を計る。

「しかし、綾音様……虚言は感心致しませぬぞ? そこな者、従業員と申されましたが、肝心の店主様が香、我が嗅覚には届かず。届くは綾音様、シウォン殿、変人・スエ、それと人狼男と女の匂いのみ」

「……そういや、あの女、ニオイ燃やしたって」

 ぼそりと聞こえた竹平の囁き。

 あの女と称される相手を知らない泉は、渇いた口を動かす。

 チャンスを見計らいながら。

「凄い、ですね。本当に鼻が良い」

「お褒めに預かり、恐悦至極。ささ、ご理解いただけたところで、そこな者、御渡し下さいませ。シウォン殿から、またもお逃げに為られたのでございましょう? 足手纏いは私めにお任せを」

「シウォンって、あの狼……じゃねぇ、人狼って奴か?……また?」

 緊張しているのかしていないのか、よく分からない問いが背後からやってくる。

「……そ、その話は後で」

 この場をやり過ごすまでは、緊迫した空気を保っておきたいと、泉は視線を竹平へずらし――瞠目した。

 噂をすればなんとやら。

「おや、お迎えですかな?」

 死角で緋鳥が愉しそうに嗤う。

 竹平越しに見える、白い衣の青黒い人狼が近づく様。

「泉……」

 艶めく低音に呼ばれて身が竦む。

 けれど考えようによってはチャンスだ。

「ぉわっ!?」

「走って!」

 竹平の手を思いっきり引っ張り、走り出す。

 ――前へ。

 待ち構える緋鳥は少しばかり怯んだ様子だが、転じて凄みのある笑みを浮かべた。

「泉!」

 警笛のような低音が背中を叩こうとも、構わず緋鳥の、その向こうを目指す。

 迎える緋鳥は腕を引いて待つ姿勢。

 擦れ違う、直前。

 予想通り泉を逃し、竹平へと繰り出される、鋭い爪。

 それが届く前に踏みしめた足へ全体重を乗せた泉は、自分を支点に円を描き、併せて勢いよく竹平の手を引いた。

 これにより緋鳥の一撃は空を掻く――はずだったが。

「正直驚く。だが、所詮は人間」

 にたりと緋鳥が笑めば、届かないはずだった爪が伸び、先端が竹平の胸を刺す。

「っ!」

「竹平さん!!」

 遠心力によりすぐさま抜けたものの、水色の衣ごと切り裂かれた傷は深く――


 爆発。


 否、湧き起こったのは膨大な量の煙。

「な、何だ、コレは!?」

「くっ!?」

 突然の煙の中、緋鳥とシウォンから発せられる驚きを聞いた泉は、この機を逃すまいと、煙を抜け出てはエレベーターまで走る。状況から煙がスエの発明品由来であると理解し、裂かれても変わらぬ竹平の手の力を知る足に、迷いはない。

「泉!」

「うきゅっ!?」

 煙の中でそんな声が聞こえたなら、竹平をエレベーターに押し込む最中、振り返った視界で展開される光景があった。

 抱き締められて青褪める緋鳥と、抱き締めたその手を取り、頬へ寄せては固まったシウォン。

 彼らの時間が正常に動き出すまでの間を利用し、泉は閉めたエレベーター内のレバーを目一杯上げた。

 上昇。

 と同時に、降ってくる瓦礫。

 追えば、固まった二人は察知し、別方向に離れて避ける。

「猫……もしかしてタイミング、見計らっていたの?」

 降ってきた辺りを見やれば、肯定するように瓦礫が落とされた。

 これを追ったなら、羽を展開し、近づいていた緋鳥が押し潰される様。

 ぎょっとすると、混乱冷めやらぬ竹平が端で頭を振った。

「な、何だったんだ、あの煙……お陰で助かったけど」

「……よく、分かりませんけど」

 言って竹平を見た泉。

 胸元が裂けた水色の衣以外、傷らしい傷のないその姿は、エレベーターに押し込んだ時から、元の人間の少年に戻っていた。

 これを踏まえ、仮定する。

「……あの姿自体が、風船みたいなもの、だったんじゃないですか? 傷つけられて充満していた煙が噴出した感じでしたから」

「だから元に戻れたってことか……ん? 待てよ?」

 何かに気づき、茶色い視線がじーっとこちらへ向けられた。

 逃げるようにそそくさと、泉は遠ざかる虎狼公社を指差す。

「ご、権田原さん、ほら、夜景ですよ。とんでもないところでしたけど、こうして遠くで見るだけなら、とっても綺麗――」

「竹平はどうした、竹平は。お前……ああなるって知らないで突っ込んだのか? 俺の……胸が本物だったら」

 豊満なバストを自分の物とするのは、失った今でもかなり抵抗があるらしい。

 女体の感覚を消し去るように、緩くなった服の形をそそくさと直す竹平へ、目を逸らしたままの泉は愛想笑い。

「ええと…………け、結果おーらい?」

「……前言撤回だ。お前も充分、妙な連中の一員だ」

「えっ!?」

「えっ、じゃねぇ!」

「ま、待ってください、そんな……」

 いきり立つ竹平に、言い訳をアレコレ考える泉。

 同郷の言葉にショックを受け、やっぱりココには慣れたくないと本気で思った。

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