第14話 かのえと”彼女”
――本当は、最初の邂逅で終わるはずだった。
車ごと飛び込んだ夜の海に沈む身体は、いつの間にか座席を失くし、辺りには無数の青い目。
見目麗しい女の上半身と、それより丈が長い、水をかく魚の下半身。
たゆたいに遠く、御伽噺の蒼白く麗しい存在に囲まれるのは、愛しい彼。
悪夢の情景に疑問も抱かず、青褪めた赤い髪、閉じた茶の瞳へ、必死に手を伸ばすが。
真実伸べられたのは意識のみ。
鈍痛が頭を衝く。
――無駄よ。
併せて届いたのは、甘い音色。
――無駄よ、貴女、死んでしまうわ、もうすぐ。
歌う声はどこまでも澄み、故に知らされる、死期の近さ。
水の中だというのに、熱い涙が頬を伝うのを感じる。
今更に、思う。
死にたくない、彼とまだ共に在りたいのだ、と。
後は一心に謝罪が続く。
遅いかもしれない、嫌われただろう、憎まれないはずがない……。
でもまだ、言っていないことがある。
だからまだ、死ねない、のに。
絶望に拉がれても、身体は反応を示さない。
青い世界の中、漂う彼は意識を手放しており、一層に自分の浅はかさを呪いたくなる。
今まで我が侭らしいことは一つもして来なかったのに、土壇場になって死に急ぎ、こうして生を望むのは、何よりも酷い我が侭だと思った。
けれど増して死にたくないと願ってしまう。
そんな頭の中で、声が響く。
――ねえ、貴女。”私たち”と共に、彼との一時を送りましょう?
甘く手招く囁き。
彼と共にあろうとする数が多かったからこそ、こんな結果を招いたのに、染み渡る響きはかのえを柔らかく苛んでいく。
――貴女の黒い瞳、綺麗だわ。彼との思い出に満ちていて。だから、ねぇ?
頬に伸ばされた白い手。
覗き込む、真逆の位置にある微笑。
蒼い視線が絡み付き、かのえの思考が熱せられた。
開いた目に寄せられた唇。
伝わるのは水の流れ。
溢れる涙も周りの世界に溶けゆく感覚。
同意、しかけ――
波のうねり。
竹平の姿が遠い波間に攫われていく。
一体何が。
瞠目していれば、白い彼女らが一斉に彼とは逆方向を睨みつけた。
追う形に自身の身体も流され、目にしたのは巨大な魚影。
睨みつけた時同様、規律正しく伸ばされた腕は、無残にその巨体を切り裂いていく。
と、腹部から大量に出てくる小さな魚。
唖然とする間に、それらは母体を顧みることなくどこかへ去っていった。
捉え損ね、口惜しがる姿へ視線を投じるかのえの頭に、またしても響く声。
――あら酷い。自分は恋を成就させたくせに、”私たち”の邪魔をするのね。
くるりと回転したかのえの身は、竹平が消えた水中へ向け、彼の身を案じる。
その耳を再度捉う、声は問う。
彼を取り戻したいか、と。
答えは決まっていた。
死にかけの身体から肉が削がれてゆく。
入る異物の感覚は、一瞬で同化を遂げた。
加わる、かのえであり、かのえではない”彼女”の意思。
”彼女”の報せでは、竹平を探しに行った一人が別の欲に囚われ、彼を見失ってしまったとのこと。
何故? と問えば、人魚は個々の意思は存在しても、根本は同じ意思を共有しているからだという。
昔、心ない男に惚れ、今も海底で死ねずに生かされ続ける同胞が為に、伴う女の記憶を与えたかったのだと。
――くだらない。
忌々しげに吐き捨てれば、肯定が返ってくる。
驚いたかのえにふんわり微笑んだ”彼女”は言う。
私は一番、かのえに近いのよ、と。
だから、同族の感傷など知ったことではないというかのえに、誰よりも同調を示せるのだと。
”彼女”が出来ることは、二つ。
一つは、人にはない暴力。
一つは――記憶を探り、惑わし命じる瞳。
捕らえ離さない眼は、竹平にはよく効き――けれど、弾かれてしまった。
「かのえ!」と呼ばれた。
けれど。
「……お前、本当は、誰だ?」と怪訝な顔が浮かんだ。
そうして、かのえは”私たち”を断ち、真実、”私”と”彼女”になった。
青黒い毛並みの人狼は、かのえを一瞥しただけで、竹平たちの後を追って行った。
その際、見てしまった激情には恐怖すら感じたが。
「……彼が追いかけるなら、もしもの時、役立ちそうだけど」
――シンは、助けて貰えそうにないわね。
「そうね……」
手持ち無沙汰になったかのえは、手の中でもぎ取った爪を遊ばせる。
腰掛けるのは、来るべき”敵”を待つ彼女を襲おうとした遺骸。
人間と侮った相手は、狩るに容易い。
つと、視線を他方へ向ける。
壁際の彼女を見もせず、見ても「やるねぇ」と嗤うだけの通行人たち。
彼らにとって、かのえが作り出したものは、惨劇ではなく日常と悟る。
「やっぱり……変な街…………クァン、死んでたらどうしよう」
ぽつり、呟いた言葉は、繁華な光の雑踏に紛れた。
しかし、かのえの中の”彼女”は答える。
――号令かけたのは私たちだけど…………死んでないと良いなぁ。
「……人魚なのに、そう思うの?」
かのえの視線が不思議そうに上を向いた。
そこで二階の窓越しに合うのは、恍惚を浮べた女の顔。
手を振るから振り返し、また視線を元に戻す。
正面にある店は客に春を売るらしい。
こんなところにいては、営業妨害になりそうだわ、と他人事のように思った。
――かのえ……お願いだから、答えるまで考えるの待ってよ。私、何にも話せないわ。
「あ、御免…………で、何の話してたっけ?」
――あのね…………はあ……クァンのことよ。
「……ああ」
ぽんっと手を打つかのえ。
内の”彼女”が頭を抱えた。
――いいけど。……人魚でもさ、ううん、人魚だからこそ、好意はよく分かるんだよね。クァン、かのえのこと、本当に気に入ってたから。
「……酷いこと、しちゃったね」
視線を落としたかのえは、爪をまた弄くる。
――今更じゃない。私――人魚を招いた時点で、色々裏切ってたことになるんだからさ。
「そうだね……」
呟いたかのえは、爪を片手に集め、空いた手の平を眺めた。
――治らないね。鬼火の炎は怖いよ、やっぱり。
皮膚どころか、その下にある”彼女”の肉さえ焼け爛れさせた、紅珠玉。
鬼火の中でも一等強い炎を出せる者にしか精製できないあの
が、その反面、扱う者自体に耐火性がなければならず、強靭な皮膚を持つ人狼すら、自由自在に操るのは困難を極める。
それ以前に、触れれば熱せられた鉄板のような珠玉、持ち続けるのは無謀だろう。
特に、鬼火の炎を弱点とする、人魚の肉を持つかのえならば、尚のこと。
焦っていたとはいえ、珠玉で傷つけてしまったかのえを、帰って後も心配する鬼火を思い出す。
「でも、すっごく後悔してたし……やっぱり好きだったな、クァンのこと」
治療をと伸ばされた手には、バレやしないかと冷や冷やしたものだが。
「あんな風に心配してくれる人……あんまりいなかったから」
――かのえ……
”彼女”の動揺が、かのえへダイレクトに伝わってきた。
見ている光景は知っているから、浮かぶのは微笑だけ。
そしてその微笑みは、横を向いて更に深まった。
「やっと来た。……私より、無茶してるわね」
「よっ」と遺骸から飛び降り、裾を払う。
――ま、邪魔されるのもなんだしね。
「さて」
顔を上げた黒曜の瞳が映し出すのは、近くを歩く通行人を無造作に払っては、道端へ転がしゆく五人。
「「「「「見つけた、かのえ」」」」」
――もう少し、広いところに出ましょう?
「ええ、分かってるわ。ただでさえ、不利な状況ですものね」
一瞬、狭さを利用した方法を考えるが、相手は大半の目的成就のためなら、己の命を厭わぬ人魚。
狭さで一対一を目論んでも、対峙した一人ごと貫かれては堪らない。
「じゃ、行くわよ、かのえ」
――ええ、なるべく時間を稼いでね。
踊るように身を返し、竹平たちが駆けて行った方向とは別の路を目指す。
「「「「「逃がさない!」」」」」
合唱が追いかけ、悲鳴までもが付いてくる後方。
振り返ることはせず。
「逃げてる――訳じゃ、ないんだけどね。どの道、逃げ場なんてないし」
”彼女”はくすくす笑う。
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