第4話 遅い諦め

 緩く上下する視界。

 横へ流れる景色はキラキラと、目まぐるしく色を変えるネオン街。

 車道のない路は、真昼の奇人街と同じ黄土。

 天井があるはずの頭上は暗く、星を忘れた繁華街の夜空にしか見えず。

 正直、泉は困惑していた。

「……あの、休憩しませんか?」

「はあ? 抱えられているだけのクセしやがって、疲れたのか? 全く……これだから人間は…………」

 先程から人にないスピードでかなりの距離を走る人狼は、泉の言葉に対し、面倒臭そうに応じつつ、ネオンにも負けない鮮やかな緑を辺りへ巡らせた。

 不意に暗がりの一角へ身を滑らせては、いとも容易く泉の身体を地面へ下ろす。

 久々に地に着いた足は意に反してよろけ、倒れると思った矢先、乳白色の爪が伸びる、青黒い手に支えられる。

「あ、ありがとうございます」

「…………お前……そこで礼を言うのは筋違いじゃねぇか?」

「いや、それはそうなんですけど……」

 尤もな指摘を受けて、語尾が尻すぼみになれば。

ぐふぅぅー……

 逞しい音が、赤い衣の腹を鳴らした。

「……ちっ。待ってろ。今、その辺の奴から何か――」

「い、いえっ! だ、大丈夫ですから!」

 泉の身体を壁の陰へ預け、どこかへ行こうとする白い袖を思いっきり掴む。

 その辺から何か調達、ならばちょっぴり期待してしまうところだが、”奴から”と聞けば止めたくなるもの。そんな泉の気持ちを察したのか、ため息をついたシウォンは向かいの壁へ背を預け、何やらゴソゴソと動きつつ、

「腹が減ってんならてめぇを優先しやがれ。ここは虎狼公社だ。罪悪感なんてもんは捨てろ」

「いや、でも、その……それじゃあ、自分でやるのが前提ですよね。シウォンさんがやる必要もないでしょう」

「…………必要ない、か」

 取り出されたのは煙管。

 シウォンが火皿に何かを詰めれば、しばらくして煙が上がる。

 次いで、瞬きの間で現れる、人間姿。

 人狼時、声の調子ぐらいでしか判別できなかった表情は、苦渋を浮かべていた。

「言ったはずだ。妻に望む、と。ならば必要も……関係もあるだろうが」

「……私も言いました。遠回しですが、イヤだ、って」

 煙を警戒しつつ言ったなら、そっぽを向いた口から、ため息交じりで出て行く紫煙。煙管を構えたままの手が額を抑え、頭を掻く。

「……知っている。分かっているさ。最初からな。元より、人狼と人間じゃあな……」

「え……えと?」

 何だか妙に引っかかる語り口だった。

 眉を顰める泉。

「あの、私別に、あなたが人狼だからイヤって言ったわけじゃ」

「……なるほど。なら、齢か? 見た目にも、実際生きて来た時間も違うしな」

 ……変だ。

 不可思議な苛立ちが泉の内に生じ始める。

 ワーズと再会し、また離されてからというもの、纏わりつく違和感と沸く困惑があった。

 原因は、シウォンの変化。

 その前まではやたらと絡んできたが、現在の接し方は非常に淡白。

 何処かで見切りをつけようとしている気配すら感じられて……。

 妻になる気は元よりないが、釈然としない。

 どちらかと言えば、強引に事を進めようとしていた姿の方が、彼には相応しいのに。

 身勝手は重々承知で、そんなこと言って絡みが復活されたらもっと困るのは自分。

 だというのに、気弱なシウォンを見ていると、どうにも落ち着かない。

 お人好しの感傷ではない。

 ただ、変化の要因に、自分が関わっていると思うのが嫌なだけ。

 それだけの――はず。

 だから泉は言う。

 慰めるためではなく、否定するために。

 シウォンが逃げるように語る、泉が拒む理由を。

「違います。年の差なんて考えるだけ無駄でしょう? 生きてきた時間なんて、今があれば充分ですし」

「……なるほど。ならば……好きな奴でもいるのか? ワーズ・メイク・ワーズ――芥屋の店主や、ラン・ホングス――狡月を冠するヤツやら」

「好き……?」

 この場合、意味するところは恋愛感情か。

 どうなんだろう、と考える。

 記憶を手繰っても、元いた場所に恋人がいた憶えはない。

 ランに対しての答えは否。彼は友人と称するに相応しい。

 では、ワーズは?

 …………よく、分からない。

 嫌いでは、ない。断言できる。

(だけど……)

「それも……違います」

 言葉にして、納得する。

 違うのだ。

 店主に対しての思いは、好きで終わるほど、単純ではない。

 もっと、不安定で、不確実で。

 代わりの言葉を告ぐ。

「私がイヤだって言ったのは――」

「俺が嫌い、か……なるほどな。詰まるところは、やはりそこか……」

 最後まで喋らせず、自分の結論に答えを導いたシウォン。

 自嘲気味に嗤っては、煙を他方へ吐き出した。

「……いや、分かった。納得した。充分だ。……小娘、喜べ。今更だが、俺はお前を諦める。…………引いては猫も、だ」

「…………本当に、今更ですね」

「ああ、今更だ」

 白い目で見たなら、本気で呆れ果てた顔つきが他方を向いたまま肩を竦める。

 一歩、街並へ出れば、騒々しい光と声が行き交うのに、離れた路地裏で燻る煙は寂れた沈黙を幾度も続けた。

ふぅ……

 深く吸い込んで、吐き出された最後の煙。

 見るともなしに見ては、シウォンが服を払って煙を落とす。

 見えない煙の行き先が払われたと分かるのは、程なく、人狼姿が現れたから。

 差し出された手。

 戸惑いを返したなら、大袈裟なため息をつき、頭をがしがし掻くシウォン。

 と思えば、逆の手が抵抗も許さず腰に回され、胸へ押しつけられた。

 残る煙さで巡る熱を感じ、咳を一つしたなら、頭上から声。

 酷く、疲れた、掠れた声音が、言った。

「なら、帰るか――芥屋へ」

「……ワーズさんがいたのに?」

「…………少しくらい、許せ。これで諦めてやるんだ、この俺が……」

 人狼姿ではどういう表情をしているのか分からない。

 けれど。

 故意に逸らす素振りの視線が歪んでいるから、まだ苦い思いを抱いていると察した。

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