第2話 要らぬ補足
ぴくり、動く爪。
反応を得て、その気があればいつでも殺れると確信した。
しかし、束の間の事。
「……あの、くすぐったいんですけど」
不穏を察せぬ少女が、乳白色の爪へ怖々両手を置いたなら、カッと全身を熱が駆け巡る。怒りではない、戸惑うほど心地良い熱が。
同時に現れるのは、その気には一生なれないんじゃないか、という弱気。
内心を隠すべく喉で唸り、爪の無駄な動きを抑える。
それでも離れない手にドギマギしたなら、忘れていた問いの答えがやってきた。
「芥屋は……帰る場所、です。居ちゃいけない、って言われるまでは」
瞬時に冷める熱。
だが、濁された語尾から少女の気後れを感じては、口が勝手に言ってしまう。
「……あの人間好きが、居ちゃいけねぇなんざ、言う訳ないだろうが」
「……シウォンさん」
「っ!」
したくもないフォローで、感謝するように名を呼ばれ、走る視界がぐらりと揺れた。
傾ぐことはなかったが、鼓動がより一層速まって、上手く息が出来ない。
原因は、間違いなくこの少女。
出来ることなら放り捨てたかったが――出来ない。
出来るわけがないのだ。
触れた箇所から巡る熱が、今まで感じたことのない心地良さをもたらしてくれるから。
……情けない。
自覚している分、余計に。
「……あれ? でも、シウォンさん言ってましたよね。私に……帰る場所はないって。それってつまり、今のは懐柔ってことですか?」
「…………ヤケに饒舌じゃねぇか」
話を逸らすよう言いつつ、浮べるのはかなりいい加減な記憶。
それもそのはず、あの時の語りを表すなら、熱病に侵されたうわ言が正しい。
けれど、おぼろげな記憶の中、「帰る場所はない」と言った憶えはあった。
あったが……しかしあれは――。
「違いますよ。ただ、喋ってないと不安なだけです」
思い馳せるシウォンなぞ知らぬ少女は、先の問いに口を尖らせた。
「……にしては、余裕があるように見えるな?」
からかう口調で応じたシウォンは、馳せた思いを消し去り、
「それは……さっきは…………自信、ありませんでしたから。ワーズさんはあなたのところ行けば? って言うし、あなたはあなたで、私に居て良い場所なんかないみたいに言うし」
「っ…………」
危うく、消し去った思いを口走りかけては噤む。
「でも今は、芥屋に帰れるから。ワーズさんが、手を取ってもいいって、伸ばしてくれたから」
安堵したように紡がれる言葉。
思い詰めさせるような言を吐いた己では、到底為しえない雰囲気。
苛立ちより勝る悔しさが滲む。
――と。
「それに……シウォンさんも言ってくれたじゃないですか。居ちゃいけないって言う訳ないって。――たとえ下心があったとしても」
「ぐ……」
呻きの意は二つ。
一つは見つめる白い目に対しての怯み。
一つは柔らかく名を呼ばれたがゆえに逸る鼓動から。
「冗談じゃ……ないぞ」
初恋と口にした時、勝手に出てきた言葉とはいえ、とてもしっくり来るモノだったが。
はい、そうですか――と簡単に納得できる訳がない。
冷静になれ。
走りながら己へ言い聞かせるシウォン。
大体がこの娘、彼の好みから悉く外れている。
まず結い上げた髪。
彼が好きなのは人狼時の女のように、短くも滑らかな指通りだった。
こんな風に飾れる長さはいらないし、クセのある毛は纏めるのも一苦労。
……だが、ふわふわした感触は優しく柔らかく、結っても零れ落ちる一束は今も抱える腕をさやさや撫でていて。
それに顔。
可愛いと言えないこともないだろうが、あらゆる系統の美女を侍らせてきた彼にとっては、物足りない。足りない色香を補うよう、どんな化粧を施したところで、この娘では艶さえ出せないだろう。
……けれど、くるくる変わる表情は見ていて飽くこともなく、赤らんだり青褪めたりと忙しい顔色はこちらが目を回すほど豊かな色彩で。
そして極めつけは身体。
まだ未熟な肉づきは、同じ年頃の史歩と違って誘えるほど締まっておらず、少しでも手荒に扱えば簡単に壊れてしまう脆さがある。
基本、シウォンは相手のことなぞ考えず、思うがままを貫くのだから、こんな娘なぞ一度で潰すのがオチ。
……しかし、今現在腹へ回した腕は娘の負担にならぬことを最優先としており、爪とてある程度食い込ませた方が運びやすいというのに、立てることすら出来ずにいる。
(――って、おい可笑しいぞ、俺! 否定してぇのに、何故フォローを入れる!?)
思考は至って冷静なのに、まるで否定を否定したがるような茶々が入れられ、シウォンの頭は更に熱せられ、
「…………あの」
突然声をかけられ、思わず引っくり返った返事が出た。
「なんだっ!?――――ああ、いや、何だ?」
こちらを見、びっくりした顔を認めては、すぐさまトーンを戻して、対処に困る熱を顔へ散らす。
「…………か?」
「ああ?」
俯かれ小さな声が聞こえたなら、驚かせてしまったかと少しばかり後悔し、後悔したことに困惑し、
「ですから、その……重くないですか?」
「…………」
いきなり何を、何のことだと考え――。
「軽いな……細いくらいだ」
「っ! そ、そうですか……あ、ありがとうございます……」
この状態で礼を言われると思ってなかったが、だからこそ眉を寄せた。
浮かんだ顔は、店主と宿敵。
(奴等……この娘に何を言ったんだ?)
流れからして体重の話と気づき、女にとっては幾つになってもデリケートな問題と理解するシウォンに、彼らが為した会話は見当も付かなかった。
シウォンとしては真実を告げたつもりだが、本来世辞と捉えそうな言葉を素直に頷くあたり、ずいぶんな扱いを受けていたことは想像に難くない。
根拠の判明しない想いは今もって否定するが、なんともなしに沸く労いの気持ちから、泉の頭を撫でてやりたくなった。
――あまりにらしくないそんな己に、冷静な頭では更なる憂鬱を抱えつつ。
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