第六節 裏切りの裏通り
第1話 揺らぐ自尊心
幾度となく夢見る情景がある。
それはまだ、
酔いしれた血は鮮やかな月光の下、どこまでも甘く香り、埋没した気配を察した時にはすでに遅く。振り向きを待たず、ゴミ置き場へ叩きつけられた身は、屈辱を生白い肌、黄色の眼へ投じる。
察する気は元からないのだろう。
ぺたぺたと裸の足をこちらへ寄せ、唇のない歯が笑みを形作る。
ひたり、寄り添う死の芳香に、気づけば痛みも忘れて嗤っていた。
ああ、月が綺麗だ――そんな風に全てがどうでも良く思えた。
その時。
轟音に次ぐ轟音。
肉塊どころか血溜まりとなって、空中に散布される幽鬼の姿。
唐突に消えた先亡き未来に惚けていれば、物陰から現れた、一人の男。
黒いコートにシルクハット、冗談染みた白い肌と血のように赤い口。
黒いマニキュアの手で鈍い銀の銃口を頭へ向け、コツコツ時を刻むように叩きつつ近づいては、へらり、嗤う。
「無様だねぇ、シウォン・フーリ。そんなんで虎狼公社、乗っ取れるのかなぁ?」
「なぅ」
同調する声は、男の後ろから、感慨もなく金の瞳を寄越し、去っていった。絶句するのを他所に、男はそれだけ告げると興味を失くし、ふらふら影とは別方向へ去る。
確かにゴミ同然に死にかけた己は無様で、告げた男は眩い月明かりにも陰らない、綻びのない余裕。徘徊する化け物が対峙しようとも、畏怖、もしくは穢れると、決して危害を加えられぬ身。
口に広がる血の味に気づけば、男に対し複雑な感情を抱いていると知覚し、愕然。
己にとって男は取るに足らぬ格下であった。
何かしら心を移すなどあってはならない者だった。
だが、実際はどうだ?
ない交ぜの感情を移すだけならいざ知らず、対象である男はこちらへ何の関心も寄せぬ。
それまでは、全てにおいて勝っているのは己で、全てにおいて劣っているのは男で――
完膚なきまでに叩き伏された思い。
ならば、どちらが上位であるか、心身に刻み付けてやらねば気が済まない。
そうして始まるのは、男が庇護する女を奪う、戯れ。
けれど男は嗤う。
「今度やったら許さないから」と。
どう許さないというのか。
一度たりとも吐かれた台詞の効果は表さず。
そうしてまた庇護する女が現れたと聞いては、彼らの居ぬ間を狙い――
「……一体、何がしたいんですか、あなたは」
問いは走り続ける腕の中から。
煌々と揺らめき過ぎる光の洪水にあって、恐れも怯みも怒りもなく、困惑だけを浮べる少女がそこにいる。
けれど答えは、どれだけ待ってもシウォンの内に生じず。
ただ、ようやく彼女から話しかけられたことに対して、酷く騒ぐ心があるだけ。
青褪め震え、拒絶するだけの身は、とても恐ろしく不安だったから――。
正直、問いたいのはシウォンの方だった。
問いたい相手は彼女ではなく、己自身。
彼女が虫の一匹で喚くまで、妙に浮かれた気分はあったものの、平静は保たれていた。
それがしがみつかれた程度で騒ぎ出し、頭を冷やせと席を外せば、司楼と易く名を呼び合う声を聞いて苛立つ。
強要し名を呼ばせては身が震え、強要し名を呼んでは胸が軋む。
宿敵の名が出たなら我を忘れ、ランの姿を認めたなら狂乱。
初恋だのなんだの、恥ずかしげもなく、勝手に口走る始末。
しかも告げた相手は何の因果か、決着を付けにきたと意気込む若造一匹。
青褪めたまま正体を失っていたこの娘には、聞こえなかっただろう。
幸い、かもしれない。
瓦礫の下敷きとなり、何故かいる黒一色の隣で、意識を取り戻した娘を認めては、こうして掻っ攫う真っ最中だが。
「無論、猫だ……」
遅れて代わりの回答が外へ為された。
それは至極真っ当な動機であったはずなのに、口にしたなら妙な苦味が残る。
燻る想いは在るものの、店主の姿を目にして幾らか冷静になったシウォン。
実のところ、初恋と称した腕の中の娘への気持ちに、かなりの抵抗を感じていた。
何せ、恋患うような理由が彼女自身にさっぱり見出せないのだ。
――だというのに。
「じゃあ、どうしてこんな真似を? 言いましたよね、私。猫に頼むなら芥屋に帰らなくちゃいけないって」
「……帰る?」
ざわめく胸。
乗じ、赤い衣を抱えた腕が締まった。
少女が呻けば狼狽し、緩めては預けられる温もりに安堵する。
抱え直せば、吐息のような音が届き、耳が自然と伏せられてしまう。
「……芥屋は帰る場所、か?」
嘲笑混じりに問いつつも、無性に苛々する。
どうしてこの娘は自分の腕に在りながら、そういう言葉を吐けるのか。
ラン以上にワーズを敵視しているという情報は、従業員の娘を誘う話から知っているはずなのに。
シウォンがその気になれば、腹へ回した爪を立て、服を裂き、皮膚を剥ぎ、肉を削いで、血を溢れさせ、臓物を散らばすことも容易だ。
その気に、なりさえすれば――
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