第9話 横合い、再び

 立ち上がり、まだ滲む涙を擦って拭う。

 ようやく辺りを見渡せるようになった泉は、ぎょっとしてワーズのコートへしがみついた。見知らぬ薄暗い蒼い部屋、積み上げられた瓦礫の下に、青黒い毛並みの手と乳白色の爪がある。

「し、死んじゃったんですか?」

「まさか。気絶してるだけだよ。人狼、こんなんで死んでくれるほど柔じゃないし」

「そう、ですか……」

 なんとなく、ほっとした。

 記憶に新しいシウォンの行動は怖かったが、知り合いの死を目の当たりにするのは、それ以上に恐ろしい。

「この、瓦礫は……」

 そろそろと上を辿れば、ぽっかり開いた天井の先に、針穴ほどの小さい光が見えた。

「いや、猫がねぇ……ボク突き落とすために穴開けてさ」

「猫が……突き落とす?」

 ほぼ垂直に顔を上げ、近くの困った笑いに慌てて離れた。

 些かほっとした様子から釈然としない面持ちでいると、銃で頭を掻くワーズ。

「ボクね、丈夫なんだよ。だから、泉嬢の場所知ってる猫が、行けない自分の代わりに行って来い、てさ?」

 常識の範囲外の丈夫さに眉を顰めつつ、泉は首を傾げた。

「行けない自分……あれ? でもじゃあ、どうして猫は私の場所を知って――」

 疑問を投じるためにワーズへ合わせていた視線が、奥の巨大な水槽を捉えて釘づけになる。声を失った耳に、くすくすと笑う艶やかな声が響いた。

「メイリゥニ……でしたっけ?」

 悲鳴を上げる代わりに記憶を漁り、出てきた聞きも言いもなれぬ語。

 ワーズが後ろを振り向いた。

「うわ。シウォン、人魚飼ってたのかい……しかも上がってない奴。……よくもまあ、泉嬢を好いただの言えるよねぇ」

「上がってない?」

 首を傾げれば帰ってくるへらりとした笑み。

「そ。人魚ってね、惚れっぽいんだ。通常は恋愛成就のために陸に上がるんだけど、その時、すんごいマズイ姿に変わっちゃってね」

「マズイ?」

「うん、すんごく美味しくない。幽鬼に似た外見になるんだけどさ、身はゼリーっぽくて変に生臭いし……ああ、忘れてた!」

 ぽんっとワーズが手を打つのと同時に、影が動いた。

 驚いて向けば、灰色の凶悪な面構えが、瓦礫とは違う、陥没した壁の破片を落としてよろけ、近づいて来る。

 鋭利な黒い爪に殺気立つ金の瞳。

 あまりの恐ろしさに一歩下がる。

 気づいたワーズがそちらを向いては、首を傾げた。

「あんれぇ、ラン、何やってんの、お前」

「………………………………ぉわっ! そうだ、言われて見ればランさんです! 見慣れてないから全然分からなかった」

 今朝、ランが身につけていた着物をしっかり確認してからそう言えば、よろよろ近づく顔が不満そうに眉を寄せた。

「あ、アンタら揃って鬼か? 正気に戻って良かったって、安心した俺が馬鹿みたいじゃないか……」

 状況から察するに、シウォンから助けようとしてくれていたらしい。

 ついでに、「うぷっ」と口を押さえる様子から、まだ二日酔いが続行中と知った。

「まだ治ってなかったんですか?」

「いや……治ったと思ったんですけど、シウォンが、ね」

「ん? なんで泉嬢に敬語使ってんだ、ラン。似合わないよ?」

「だってさ、猫操れる人、敬わなきゃ後々危険だろ」

「……ふ~ん? まあ、どうでも良いや。泉嬢芥屋に帰りたいって言うし。扱い酷いし。人魚は来るし」

「来る?」

 ワーズの言葉を受け、凶悪な相貌が困惑に歪む。

 更に増した恐ろしさから、もう一歩知らず下がれば、ワーズが銃を頭へ突きつけた。

「新しい従業員、いたでしょ? 彼、どうやら気に入られてねぇ。しかも泉嬢のこと”ママ”ってさ。完全、じゃないけど、少し気にかけてたみたいだから」

「お、お前、そういうことは早く――――!?」


「へ?」


 突然、泉の視界から二人が遠退いた。

 圧迫を感じて腹を見れば、青黒い腕に乳白色の爪。

 ゾクッと粟立つ思いに駆られていると、背に温もりが押しつけられた。

 悲鳴も忘れて辿った先は、緑の双眸を持つ、獣の顔。

 慌てて仰け反り、店主の名を呼ぶが、

「ワーズんぐっ」

 白いの胸へ強引に顔を押しつけられる。

 潰れた声は発する所を失い、籠もった熱が蠱惑的な香りを泉へ届けてきた。

「……ふざけるな」

 頭上、耳朶へと響く悪態には、怒りと困惑と焦り――

 そして、少しの安堵が感じられた。

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