第8話 私の選ぶ場所

 警鐘?

 耳鳴り?

 いや違う、これは――――……


 ぽっかりと浮かぶ暗闇。

 泉の心は鎮まり、一切の感情を失くしていた。

 何かがそっと、触れる気配。

 冷たく、時に――熱く。

 肌を伝うのは、闇に紛れた雫の一つ。

 染み渡っては背を濡らしゆく。

 多少乱暴に扱われたとて、泉は反応を示せないのに、動きは惨いほど緩やかに進む。

 言葉一つ交わすことなく、無心に虚無が蝕んでいく。

 喪失感だけが、不鮮明な頭へ突きつけられる。

 対する思いは欠片もなく――。


 その時、泉の心を捕らえ、惑わせたものがあった。


 二つの――ノイズ。


 遠く、凪ぐ雑音。

 途端、震えだす身体。

 拘束のだるさはあったが、微かに腕だけが動く。

 しかし、自由は一本だけ。

 これでは耳を塞げない。

 気分の悪さに零れる涙は、絡めとられることなく耳まで伝う。

 止めて――

 そう願っても、声すら届きはしない。

 絶望に苛まれて、霞む視界の端、揺れる物に気づいた。

 いつから見つめ続けていたのか、じっとこちらを見る瞳。

 会わされる眼。

 とても……

 不思議そうな……

 橙の光が差し込む、その陰で。

 丁度、手を伸ばせば届きそうな位置に、黒い――……



 ふいに視界に入った黒布を左手で握りしめる。

 顔を上げれば白い顔、不鮮明なのに優しい混沌の眼差し。

 血の口でへらり、笑う。

「大丈夫かい、泉嬢」

「――っ!」

 状況を掴めない頭で姿を認めては、溢れてくる安らぎに耐え切れず、乾いた目を涙が滴り落ちる。

 裾に全てを預けるつもりで、声も上げずに泣けば、しゃがむ気配。

「泉嬢?」

 呼ばれれば思い返される、どう? と尋ねられた答え。

 怒りで霞んだ言葉。

 向ける相手は人間好きの芥屋の店主で。

 泉の意思さえあれば、拒まれるはずもなかったのに。

「ワーズさんっ、私、芥屋が良い! 誰かの所なんか行きたくない! 芥屋に……帰りたいっ……」

 幼子のように縋り、右手も共に裾を掴んでは、裂く痛みが走った。

「つっ!?」

「泉嬢?」

 あまりの痛さと痺れに耐え切れず、身を震わせていれば、ワーズがゆっくり裾から右手を出し、絶句する。

 現れた血濡れの腕には、無数の裂傷が刻まれていた。

 赤い衣のせいで今まで気づかなかったらしい。

「な……んで、こんな怪我……シウォンか?」

 ぎりっと歯噛みする音に驚き、ワーズの顔を見上げたが、他方を向いているため、どんな表情をしているのか分からない。

 と、すぐ戻ってきては、困惑を目一杯浮かべて、へらりと笑う。

「御免ね、泉嬢。ボクが馬鹿だったよ。てっきりアイツ本気かと思ったし、今までの子たちと同じく、慣れれば泉嬢、快適かもしれないって思ったけど……こんな怪我させるなんて」

「ワーズさん……」

 コートのポケットから、消毒液と綿布、包帯を取り出し、処置を始める。

 最中、「御免ね」と繰り返すワーズへ、逆にこちらが申し訳ない気分に陥ってきた。

 芥屋の仕事がキツそうだから、と勧められたのは、単に泉の気を慮ってのことだったはず。

 方向は完全に間違っていたが、一言、最初から告げておけば良かったのだ。

 奇人街の中で芥屋以外に――ワーズの下以外に、居たくはない、と。

 はっきり結論づけられたのは、青黒い人狼に迫られた時ではあったが。

「私の方こそ……すみません。また、探しに来てくれたんですよね。ワーズさん、疲れていたのに……ご飯、食べましたか?」

ぐーぎゅるぎゅるぎゅるぎゅる――――

「うあ……」

 問いに反応したのは自分の腹の虫。

 安堵と共に襲いくる空腹感から、眩暈を起こしかける。

 これを支える白い手に己の手を重ねれば、ワーズが憮然とした表情を浮かべていた。

「呆れるねぇ? 怪我以前に、君に飯も提供できないなんて」

「いえ、ご飯は用意して貰ったんですけど、食欲が湧かなくて……」

「庇わなくても良いのに。それに用意して貰ったって、当たり前でしょう? 一度招いてから攫ったくせに、用意すら出来ない方がどうかしてるよ」

 ぶちぶち文句を言う顔が苦笑の形に変わり、気づいて手を離せば処置を再開する。

 前に受けた応急処置とは違い、労わりに満ちた動作。

 併せて、どんどん鮮明となる空腹。

 現金だ――と思いながら、何に対してなのか分かりかねる。

 そうしている内に包帯が結ばれ、処置が終わった。

「立てる?」

 先に立ち上がったワーズが手を差し出す。

 暗く蒼い光にぼんやり浮かぶ、黒いマニキュアの白い手。

 恐る恐る手を重ねれば、ひんやりした温かさ、軽く握られては不思議と安心できた。

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