第3話 帰る場所
愕然とする泉の眼前、瞬き一度で、シウォンの姿が青黒い艶やかな毛並み、乳白色の爪を持つ、人狼本来のモノへ変化する。
合わせて掴まれる手や肩に、刃物の感覚がもたらされた。
「んん?」
声を失い青褪める泉に気づいた人狼は、人間姿より増して鮮やかな緑の双眸を笑みに歪め、良いことを思いついたと頷く。
「助けたい、か? 友人とやらを」
「あ、当たり前です……!」
絞り掠れた声で、それでも頷けば、鋭い牙が並ぶ口元に右手を持っていかれる。
振り払えば血塗れは必至。
架空の痛みから動けずにいる目の前で、シウォンは右手を己の頬へ当て擦りつける。
「泉……ならば、俺に従え。俺に屈しろ。そして猫に命じろ、シウォン・フーリとその群れに手を出すな、と」
「…………」
優しく苛む低い響きは、本題を告げ、泉の喉を知らず知らず鳴らした。
シウォンからは、一度たりとも聞かなかったその名、望み。
ゆえに、言葉は泉へ重く圧しかかる。
「お前、だろう? 猫に群れの諍いを止めさせたのは。芥屋の従業員が猫を操るなんざ、半信半疑だったが……仕方ねぇよなぁ? てめぇの目で見ちまったもんは覆せねぇ」
恐れを声音へ含ませながら笑うシウォン。
重なる、「明日が愉しみ」と笑う声。
争う音を嫌だと告げたあの日、動いた背もたれの感触が甦る。
猫の止め方を察しては、泉の顔が青褪めていく。
「……だからランさん」
彼の人狼は言っていた。
猫が無茶をしたから、本来訪れるはずのない時間にシウォンは店主を訪ねた、と。
猫は奇人街の誰もが恐れる存在。
間接的であっても、関われば眠りを妨げるほどの。
これを相手に訴えがあるなら、皺寄せは芥屋の店主が負うことになる。
思い出す、緋鳥の職。
明時の、意。
芥屋の取り分――あれは、猫が殺戮の限りを尽した、人狼の死体の話だったのだ。
何気なく発した自分の言葉が、どれほどの破壊力を持ってしまったのか。
遅ればせながら知った事実にゾッとする泉。
だが、その話を振った男は別件に憤る。
「ラン……? ランだと!? 何故ここで奴の名が出てくる!」
悲痛とも取れる怒声に状況を思い出せば、口を塞ぐように捕られた右手が押しつけられた。交わされる双眸が怒りから歪んだ笑みに変わる。
くるり、鮮やかな緑が巡り、一つ頷いた後にクツクツ揺れる。
「……責任を取れ。俺の名を呼べ、泉」
今までとは違う、途方もない響きを孕む重低音。
絡みつき愛おしむ囁き。
右手が再度シウォンの頬へ添えられた。
おかしい、と泉は思う。
ランを敵視する話は聞いた。
だから憤りも分かる。
けれど、責任とは?
猫のことだろうか? 猫がシウォンの群れに手を出したから。
だとして、この求めは何だ?
目の前の人狼が望むのは、泉から呼ぶ、彼の名。
しかし、それに何の意味がある?
浮かぶ疑問に答えは与えられず、泉の喉を通ったのは、不快。
「変よ。おかしいわ。あなたは猫に命じろと言う。なら、もう充分じゃない? 私の友人の身の安全と引きかえに、私が猫に頼めばそれで良いはずよ。あなたの願いは叶う。別に私を妻なんて位置づけにしなくたって良いし、私があなたの名を呼ぶ必要もない」
勝手に出てくる言葉は、本心から。
逸らさない瞳の中で、緑の双眸が色を失くしても、出てきた不快は止まらない。
「帰してください。頼むにしても猫がここに入れないなら、芥屋に帰る必要が……」
口にしてから泉は内心で驚く。
「帰る?……芥屋へ?」
困惑を増長するように、せせら笑う割れた声がシウォンから漏れた。
芥屋に、帰る――――……
当然のようについて出た言葉だが、泉が帰るべきは元いた場所ではなかったのか。
仮初の居場所とはいえ、芥屋へは”戻る”のが妥当のはず。
へらり、笑う姿が過ぎる。
目の端に映る、手を付けられていない料理と食欲の湧かない空腹が、現状を遠ざけ意識を他方へ向けさせる。
(ワーズさん……起きたかしら? ご飯、作ってるのかしら?)
エグい物を好んで捌き、ふらふら調理する背に惚けた。
そういえば、黒一色の男は泉へ言ったのだ。
どう? と。
ボクとしては全然構わない、と。
「笑わせるな!」
怒鳴られ、目を見張り、焦点を合わせた先に、店主が勧めた白い衣の人狼がいた。
酷く穢れたモノを見る目つきは、寸分違わず泉の目を射抜く。
「お前に何の権利がある!? 俺を馬鹿にするのも大概にしろよ? こうしてお前の身がここにある事実を認めろ。逃げられやしねぇ……芥屋? 違うだろう……?」
「っ!」
頬に当てられた右手が口づけられ、強引に引き抜けば爪に裂かれて血と痛みが走る。
気にせず自分の身へ寄せても、すぐ絡め、囚われる腕。
滴る血にシウォンの喉が鳴った。
「煙に巻かれた己を忘れたか? 俺の望むお前の姿を……忘れたというなら思い知れ。お前が帰るべき場所などない」
「!」
息が、詰まる。
揺れ始めたこげ茶の瞳を知ってか、舌が手首の血を舐め取る。
いたぶるように、柔らかく。
「ククク……お前のせいだ。……お前のせいで俺は、長らく安息を得られずにいる」
ドクン……
大きく脈打つ心臓。
高まる不快。そして――――
ぬるり、指先に絡みつく――生暖かな息、冷たい舌。
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