第4話 驚天動地

 ”道”へ入ろうとして、緋鳥は後退ざまに投擲を放つ。

 肉と蜜の潰れる音を聞き、「ふむ」と一つ頷いては、羽織っていたジャケットを脱ぎ、背に羽を展開、砂へ足を沈め、跳躍の要領で飛び立った。

 泉へ渡したままだったこのジャケットは、思わぬところで初恋の君と逢えた悦びも束の間、上機嫌でねぐらへ帰る途中、ひょっこり顔を出した物だった。

 正確には、いつぞや相手をしてやった、鬼火の男が持っていたのだ。

 匂いからして埃っぽいモノなぞ、珍しく喰う気の起きなかった緋鳥は、縋る男を払ってジャケットを取り戻した。ジャケット自体に執着はないが、自分より地位も力も劣るモノが、己の物を持つのは癪に障る。

 何より、ジャケットの残り香の主である少女は、緋鳥も狙っていた獲物。

 中身がないため、口にする機会を失ったと思い、だからこそ、彼女を食したか売り捌いたかした男が、ジャケットを持つことを赦せなかった。

 愛しの店主や剣客気取りの人間が交わす言葉から、彼女が生きていると知った時、緋鳥は内心で狂喜した。

 これにより香りへ執着する理由もなく、羽を展開した今、ただの物と化したジャケットは邪魔でしかない。

 だが、夜は肌寒い。

 捨てる選択肢は捨て、これを腰へ巻きつけては風を掴み、冷たい夜空の中を飛ぶ緋鳥。

 思うは、奇人街を跋扈しているであろう、花と血の腐臭を発する化け物。

(これは……もったいない)

くるるるるるるるるる……

 胸内の嘆きに同調して腹が鳴る。

 先程、肉をたらふく食したばかりだが、それよりも美味なる肉の匂いを嗅いでは、別腹だと主張する身体が、涎を溢れさせてくる。

 我ながら意地汚いと思いつつ、口元を拭い、大きく旋回のち、身体を急降下させていく。

 赤い髪の少年、とやらは凪海にいなかった。

 ならば、緋鳥が行くべきは虎狼公社、奇人街の地下。

 迷うかもしれないが、少年にはワーズの匂いがついているはずだ。

 間違えなければ良い話。

 確かこの辺……と勢いづいた身体を止めもせず、瓦屋根を穿ち、降り立った場所の匂いを嗅ぐ。

「ふむ。これは綾音様の香り――っ!?」

 と、もう一つ、妙な匂いを感じたなら頭の芯が痺れ、歯が打ち鳴らされる。

 ぐるり、素早く辺りへ感覚を探らせるが、ソレらしき気配はない。

「な、何故、斯様な処に……? 在り得ぬ!」

 脳裏に過ぎるのは純粋な力。

 戯れに殺意を纏わせれば、緋鳥の心の臓なぞ止めてしまうほどの――

 しかし、すぐ様掻き消えてしまう。

 同時に消える、従業員の娘の匂い。

 悪夢の残滓に似て、急激に遠退く恐怖。

 訳も分からず今一度辺りを見渡す。

「そう……在り得ん。猫は、密閉空間には入り込めない。例え天井が破られようとも」

 安心させるための呟きは、喉の奥で震えるばかり。

 首を振り、頬を張り、緋鳥は中央に配置されたエレベーターの床を突き破った。


* * *


 目指す楼閣へ侵入し、立ちはだかる白い人狼を下したなら、耳に届く艶めいた声。

「……責任を、取れ」

 ゾッとする熱い吐息に、言い知れぬ恐怖を覚えるラン。

 尻尾を巻いて逃げたい心をぐっと堪え、部屋の明かりが透ける、精巧な造りの扉を開けたなら、思わぬも光景に金の眼を見開いた。

 長椅子の上に横たわる赤い衣を纏う人間の少女。

 ――へ覆い被さらんとする、同系統の白い衣を纏う人狼の男。

「シウォン!」

 認めた瞬間に叫んだのは、それだけで止められる自信があったからだ。

 何せ、呆れるほどの数と愉しんでいようとも、ランの姿を見かけただけで、傷つけられたプライドの分、憎悪を漲らせてきた相手だ。ぱっと見、襲う直前のような格好は、女に事欠かないシウォンがするには不可解だったが、矛先はすぐさまこちらへ向けられると見越してランは身構える。

 だが――。

「え……と、シ……ウォン?」

 予想だにしない展開に、ランは黒い鼻面を黒い爪で掻いた。

 確かに、シウォンの魔手が伸べる先に泉がいるのは、ランの予想にないことだった。

 しかし、それにも増して戸惑うのは、いつまで経っても始まらない死闘の幕開け。

 こうして”宿敵”が嫌々ながらも現れてやったというのに、押し倒した少女の右手をその頭上へ縫いつけたまま、

「泉………」

 とこちらを一瞥もせず呼ぶ姿は何だ?

 ゴクリと鳴った喉が、得体の知れない怖気に震える。

「し、シウォン? ら、ラン・ホングスが来たぞぉ……」

 口元に手を添え、本来なら呟きでさえ届いてしまう人狼の耳へ、やや大きめに声をかけてやる。

 だが、青黒い耳はピクリとも動かず、乳白色の爪が泉の顔を愛おしそうに撫でる。

 傷つけぬよう、甲を用いて。

 ゾゾゾゾゾ――と背を這う痒みを感じた。

 血に濡れた泉の右手がランの知る、シウォンという男。

 今のように思い遣りに満ち溢れた仕草とは、尤も縁遠い……はずだ。

 少なくとも、ランが彼を知ってから今まで、優しいコトは一度もなかったと聞いている。

 なのに、目の前では同族にしか分からない、朱に染む顔が眼に慈しみを持ち寄り、泉を食い入るように見つめていた。

 直視したくない光景。

 何かの罰ゲームを受けている気分に陥る。

 一瞬、逃げてしまおうかと、嫌悪する種の性質に乗りかけ、泉の表情を知っては眉間に皺が寄った。

 焦点の合わない見開かれたままの瞳。熱を失くし青褪めた頬。

「泉?」

 シウォンもそれに気づいた様子で、少女を幾度か呼びかける。

 答えを探し求め、急にこちらを見ては――牙を剥いた。

「ラン!? てめぇ、いつからそこに居やがった!」

「へ? え? いつって……」

 本調子を取り戻した相手の口調に、ランは困惑し、やがてはっと気づいた。

 シウォン・フーリは、優れた察知能力を持つ。

 特に、猫やランといった己と深く関わる相手は、他へ熱中していようとも、すぐさま対処できるほど、的確に察知できる。

 それが今回に限っては全く利かなかったというのか。


 つまるところそれは――とても信じられるものではなかった。


 まさか、あのシウォン・フーリが――残虐非道で傍若無人、侍る女は数あれど、思い遣り一辺倒なく私利私欲のままに扱い、飽いたら捨てるか喰うかの男が!

 小娘――それも飽けば腹を裂き喰らう同族ではない人間へ、真摯に意識の全てを捧げていたなど!


 誰が素直に信じるか。


 …………出来るなら、砂を吐き出してみたいところだ。

 項垂れそうになる己を叱りつつ、気を取り直して指を突きつける。

「っ、シウォン! 泉さんを放すんだ! そして俺との決着を――」

「けっ! 馬鹿も休み休み言え、若造! 何故てめぇの指図を受けねばならん?」

 怒号し、身を起こしながら少女を胸に抱く。

 ぐったりとした身体を労わるように己へ添わせ、

「そんなに放したきゃ、奪えばイイだろう――出来るモンならなぁっ!!」

 食卓を蹴り上げた。

(ああ、なんてもったいない!!)

 叫ぶ余裕はなく、襲いかかる種々の料理を食卓ごと払い飛ばし、陰に隠れた背中を追う。

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