第3話 不慣れな手当て
白目を向いた男は、着替えた泉が階下に戻ると消えていた。
帰ったのかしら、そう思いつつ、ふと眼に入った精肉箱に息を呑む。
まさか……と青褪めた泉だったが、赤い口から店前に捨ててきたと聞き、それはそれで酷い話ではあるが、胸を撫で下ろした。
次いで羞恥を抑え、見たかと要点だけを絞りに絞って、水を滴らせたままの男へ問えば、
「……………………………………………………何を?」
分かっていないのか、しらばっくれてなのか、分からぬ沈黙の後、同じくどっち付かずの返答が為され――――
泉は色々諦めた。
ワーズと竹平が着替えのため、二階へ上がったのを見届けて後。
全く酷い目にあったわい、そうぼやいた白衣が、未だぐったりしているランを認めると、そろそろ怪しい動きで近づいていく。
手にはメスを持ち寄り、荒い呼吸で襲いかからんとしては、泉が止めるより早く、ランの足裏が三白眼の顔を直撃した。
いくら人間姿とはいえ、相手は人狼。
まだ酒が残っているらしい赤ら顔がまどろむ横で、ぼたぼた鼻血を流すスエ。
シイがいたらどうなっていただろう、とつい考えてしまう。
けれど次の瞬間にははっとしてそんな己を諌め、続いてランへ視線を向ければ、包帯が緩まっていることに気づいた。
スエにはティッシュを渡し、点々と跡引く血を拭き取ってから、ランの横へ膝を下ろす。
朝になって本性が消えると同時に、右手も人の姿へ変化したらしい。
収縮する便利機能なぞ備わっていない、奇人街製でも普通の包帯は、クァンが施したガーゼを抑えきれず、床へ散乱させていた。
ぶちぶち文句を言い血を拭う学者の二の舞は御免だが、垣間見える傷痕は未だぬらぬらと紅を宿している。
朝食の準備を優先する訳にもいかず、救急箱を棚上から取り出した泉は、殴られませんようにと祈りながら、包帯を巻き取り、役目を終えたガーゼを剥がす。
完全にかさぶたとなった状態へは何もせず、酷い箇所にだけ消毒液を染み込ませた布を押し当てた。
「あぅっ……い、泉さん? 何を……」
「あ、すみません」
起してからやった方が良かったと、起きてしまったランに肩を掴まれてから思った泉。
だが、その顔の青白さに慌てて手を額へ当てる。
「だ、大丈夫ですか? すっごく顔色悪いですよ?」
「うぐぅ……だ、駄目ですが、大丈夫です。陽に当たった後はいつもこんなですから。……ここ芥屋?」
「はい、そうです」
「……あぁ、駄目だ。全然思い出せない。昨日、シイを見たところまでは憶えてるんですけど」
「…………そこまでしか、記憶、ないんですか?」
「うう……すみません。俺、酒弱くて」
「あ、いえ、その説明なら聞きましたから。その、ランさんから」
「……そ、そうなんだ――――って、泉さんっ!?」
少しだけ朱が差してきた頬を認めた泉は、ランの髪を掻きあげて己の額を寄せた。
伝わる体温は低いため、もしかしたら人狼の昼の姿の正常値は、人間とそう変わらないのかもしれない、と慌てふためくランを余所に思う。
次いで、別の考えが過ぎる。
(…………私の記憶がないのは、まさかお酒の呑み過ぎ、なんてことは……)
アルコールに親しんだ記憶はないが、そういう状況に追い込まれていたなら、あるいは――
内からの否定はなされない。
残念ながら泉がそうならない補償はなかった――ゆえに。
「あの、泉さん?」
恐る恐る声がかけられ、意識を戻したなら、至近に金の揺れる双眸。
昨日のランの行動を知っている泉としては、特に考えもなく行えたことだが、よくよく思い起こせば、今のランにはその記憶がないのだ。いきなりこんなことをされては、それはそれは困るだろう。
いきなり離れるのもなんだが、いつまでもこうしている訳にはいかない。
一度軽く目を瞑って、額の熱を探り、それが自分と変わらない熱を保ち出したと知っては離れた。
「あ、あははははは……熱は大丈夫みたいですね」
誤魔化し笑う泉と、
「は、はあ……あ、ありがとうございます」
何故か礼を述べるラン。
双方ともぎこちない。
一通り引きつり笑いをした泉は、仕切り直しと真面目腐った顔で手当てを再開し、ランは困り顔を赤くして口元を覆う。
途中でランの苦痛が聞こえても、謝罪と共に顔を上げた目が合えば、どちらともなく視線を逸らすを繰り返す。
最後の最後、包帯巻きに泉が四苦八苦したなら、ようやく調子を取り戻したランが巻くのを手伝い――
完成した左手は、クァンほどではないにせよ、それなりに見られるものとなって、泉とランは顔を見合わせて笑った。
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