第2話 水も滴る
だるい。
朝の気配に身を起こせば、尋常ならざる重さを訴える身体。
そのまま布団に突っ伏す。
まるで睡眠不足の時に、遊びはしゃいだ翌日のような気だるさ。
早く起きて朝飯の仕度をせねば、ワーズの手料理を食す羽目になってしまうのに。
布団が恋しい。
枕に頬ずりする要領で布団へ顔を押しつけた泉は、とろとろ落ちる目蓋に逆らえず、一瞬、意識を失い――――
イーヒャアヒャアヒャアヒャアヒャア――――……
突如響き渡る、耳をつんざく奇怪な音。
「な、何!?」
嫌な跳ね上がりをした心臓に引きずられ、無理矢理飛び起きる。
急な動作についていけない頭は目眩を起こすが、これに苦痛を感じている暇はないと、大急ぎで壁に背を預け、音のした方向である扉を凝視する。
しばらく何の変哲もない、だからこそ不気味な扉を睨んでいた泉。
けれど、構えた甲斐のない静寂が続いたなら、空耳か何かだったと納得させる。
かなり嫌な空耳だが。
お陰でだるさは変わらずとも、すっかり覚めてしまった目。
伸びを一つして顔でも洗おうかと立ち上がり、億劫な動作で扉の前へ。
ノブに手をかけた、瞬間。
轟音。
びくっと身が竦む。
開けたものか迷い、結局開けずに聞き耳を立てていれば「きょひっ」だの「ぎゃひぃ」だの喚く声が、転げ落ちるように階段を下りていく。
(……スエ、さん?)
思い起こしたなら、先程の奇怪な音も彼の胡散臭い男が、過去発したモノに相違なく、
「っざけんな!」
扉越しに聞いたことのない男の、鮮明な甲高い声が続いた。
怒りを露にする足音が穿つのは、喚き声が下った階段。
混乱と恐れとで躊躇う泉だが、放っては後で災いになる気がして無謀にも扉を開けた。
とはいえ、そこはすでに騒ぎが起こった後。
誰もいない廊下にひとまず息をついた泉だが、真に緊張すべきはこれからだと気を引き締め、階段に近づいていく。
息を殺して警戒しつつ階段を覗けば、チンピラと評するに相応しい男の背が見えた。
手には鈍い光を放つナイフ。
違えようもない殺意は対角線上にいる竹平の後ろ、壁に身を寄せる白衣の学者・スエへ向けられていた。
「毎度毎度、クソうるせぇ奇声発しやがって! ようやくツキが回ってきたってのに! これで借金がチャラになるかもしれねぇ大勝負を、よくも台無しにしてくれたな!?」
「知るかいネ! どうせ調子に乗って巻き上げられるのがオチヨ!」
「待て待て待て! 何だお前ら? ってか、オッサン! 俺を盾にするな!――い、泉!助けろ!」
奇人街の呼び方を律儀に守る竹平の叫びに、泉の心臓が飛び跳ねた。
静かに悟られぬよう下りてきたところへ、男に近い位置で呼ばれてはこちらが危うい。
第一、何故自分に助けることが出来ると思う?
顔を青くする泉の恐れを余所に、男は竹平の姿も声も最初から入っていない様子で、一歩踏み出した。
「くぁあ!! そ、そういう態度取るかてめぇ、この! もう我慢ならねぇ、ここでお前を殺して永久にその汚ねぇ声を封じてやる!」
きーきー喚く背に、重い身体を押して飛び起きる羽目になった泉はちょっぴり同情しかけたが、ナイフを構える男の不穏な動きに慌てた。
(ワーズさんは!?)
咄嗟に二階を見上げる。
ここは人間好きの店主がいる芥屋。
この男が人間でないかぎり、黒一色の男はすぐさま駆けつけてくれるのに。
来る気配がないことをいぶかしんでいれば、短い悲鳴。
遅かった、そう思ったのも束の間、見れば男が虎サイズの猫に押し倒されていた。
「グルゥ……」
「ひっ、猫!?」
脅すように喉を鳴らすのを受け、身を捩じって猫から逃れた男がこちらへ駆けてくる。
「退け!」
言われなくともナイフを持った輩と対峙する気は更々ない。
泉は壁に身体を貼りつけて回避すると、男が階段を上がる様を見送り――何故かこちらへ倒れ込む背を認めたなら、もう一度横へ避けた。
「ぎゃっ――――ぐぇ……」
泉を緩衝材にし損ねた身体が壁に激突。響く鈍い音の危うさに首を竦める泉だが、白目を向いてしまった男が生きているらしいことを知れば、ほっと息が漏れる。
一体何があったのか。
階段を見上げたなら、ワーズが片足を仕舞うところ。
どうやら逃げに勢いづいた男を、出会い頭で蹴りつけたらしい。
相変わらず、人間以外に対しては容赦がない。
「おはよう、泉嬢」
「お、おはようございます」
呑気にいつも通り、ふらふらした足取りで下りて来るワーズだが、挨拶を返した泉の顔は完全に引きつっていた。
慣れて久しい右手の銃とは別の凶器が左手に握られていたのだ。
「……ワーズさん、その包丁は?」
ふらふら一段下りる度、鋭利な刺身包丁も危うく揺れ、つい一歩下がる泉。
けれどワーズは気にしてくれる様子もなく、一階については倒れる男をわざと踏んだ。
「ぇ」
同時に音が上がり、泉の目がぎょっと見開かれた。
しかしそれはワーズの行動に対してではなく、除けた足跡がくっきりと男の背についていたため。
滴る水滴から、ワーズが全身ずぶ濡れであることに気づいた。
「ワーズさん!? どうしたんですか、これ!」
包丁の存在を忘れて黒コートを掴めば、ワーズの方が慌てる。
「泉嬢、危ないって。包丁持ってんだよ、ボク」
ほらほら見て見て、と挙げられる両手。
今更の注意喚起を受けても、答えになってないと首を振れば、降参したように笑う。
「ちょっと潜ってただけだよ」
「潜って……て、どこにです? しかも服のままって」
説明になっていない説明をするワーズへ、眉を顰めた泉は挑むような視線を向ける。
「んーとね…………………………」
しばらくの間、ワーズは混沌を泳がせていたが、一所にぴたりと留めるなり、銃口をこめかみへ向けて傾いだ。
泉を見つめてはいるようだが、濡れた闇間の混沌は方向が不鮮明で、視線を交わしているのかさえ、よく分からない。
へらへら笑う顔もいつも通り。
ややあって、逆方向へ傾いだワーズは言う。
「…………………………とりあえず泉嬢、着替えてきたら?」
「へ?――うわぁっ!?」
言われて寝間着が水を吸い、若干透けてしまっているのを認めた泉。
背を向けているため、スエや竹平からは完全に見えない位置だが。
思い出すのは「相手が望まない限りコトには及べない」というランの言葉。
それはつまり、言い換えればつまり――――
及べないというだけで、そういうコトを考える可能性は、コレでも男と評したシイの言葉通り、あるという話で――……
光の速さでそんな考えにぶち当たった泉は、顔を真っ赤に染めるなり、素早く階段を駆け上がった。
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