第19話 幽玄楼
布団を下ろし、竹平へ風呂を勧めて後、
「にしても、妻、ねぇ?」
店側を背に椅子へ腰かけたワーズは、茶をズズズ……と啜り、泉にへらりと笑いかけてきた。
竹平が座っていた隣の席で、膝上で丸くなる猫を撫でていた泉は、一時、何のことか分からず小首を傾げた。が、視界の端にラン――人狼を捕らえては、みるみる顔を朱へ染めあげる。
「い、いきなりなんですか、ワーズさん。その話なら断ったじゃないですか。大体、あの人、どういう神経しているんですか? て、手を出すとは聞きましたけど、その都度あんな誘い方って……」
最後はゴニョゴニョ言葉を濁す。
思い出されるのは、情緒もへったくれもない読み手だというのに、総毛立つほど甘く柔らかな言葉の羅列。
お陰で司楼が去って後も、しばらく泉は立ち上がれず、胸も高鳴りっぱなし。
夕飯の支度ができたのは偏に、へらへら笑う男が「じゃ、今日はボクが作るね」と意気揚々に言った挙句、取り出した材料が例に漏れず、あんまりにもあんまりなモノだったせい。
生命の危機にも似た恐怖と怖気は、乙女心を凌駕し、ワーズの暴挙を見事打ち砕いた。
――――が。
丸投げしたはずの内容は、一部を告げられただけで、またも言い知れぬ熱で泉を覆う。
返事が欲しいと読まれたシウォンからの手紙。
その内容たるや――割愛すれば告白と求婚であった。
奇人街の婚姻には書類上の手続きが必要ないため、双方の同意で容易く夫婦関係となるそうな。離婚も、やっぱやーめた、で終わる辺り、泉の常識とはかけ離れた感覚だった。
軽い、と言えば、ワーズは事無げに「奇人街だしねぇ」と笑ったものだ。
説明が一言で済んでしまうのはなんだが、あっさり納得してしまうだけの説得力がある。
なるほどそれなら従業員に手を出すシウォンのこと、誘い方としてはありかも知れない。
と、考えつつも赤面するのは、求婚に対する想いが、泉の中でそれなりにあったため。
もやもやする思いを払拭すべく、茶へ口をつけたなら、ワーズが意味深に笑った。
「泉嬢……君が何を考えているのか、ボクでもさすがに分かるけど、残念ながら違うよ?」
「……何が、です?」
「君はシウォンが従業員誘う度、求婚してるって思っているようだけどさ? 初めてなんだよ、こういう誘い方。大概、人攫いみたいに連れてくし」
事実、攫われた経験のある泉が何を今更と眉を寄せれば、ワーズが肩を竦める。
「それも違う。攫うっていうのはあくまでも比喩。本当に攫われたのは君が初めて」
「……何が言いたいんですか?」
盛大な音を立てて茶を啜るワーズは、一呼吸たっぷり置いてから銃をこめかみへ向けた。
「本当に初めて尽くしなんだよ。アイツが君にしたこと、全部。嬉しくないほど長い付き合いだけどね、同族でもここまでの執着は見せなかったからさ」
くすくす愉しそうな笑い声が、ワーズの白い喉を揺らしている。
とても幸せそうで――泉にとってはとても薄ら寒かった。
嫌な予感がする。
このまま二階へ上がって寝てしまいたいが、日中、空気の悪い奇人街を歩いてきたのだ。
せめてシャワーを浴びてから床につきたかった。
けれど竹平が終わるまで風呂は使えない。
それまで自室で待とうか。
考えついた矢先、ワーズが吐息を零した。
「しかも、幽玄楼に誘うって、これはもう確実に――」
「あの、ユウゲンロウっていうのは?」
先を聞くのを恐れて、聞き覚えのある単語を尋ねる。
シウォンの手紙の中にあった、その名。含まれていた文面は、思い出そうとするだけで妙な火照りを強要するため割愛するが、場所名と思しきそこで泉と月が見たいな、というようなことが書かれていた。
ワーズは少しばかりきょとんとした顔になったが、破顔してはポケットからメモ帳とペンを取り出した。
口で外したキャップをペンの後ろへ、それからスプーンと同じ要領で握ったペン先をメモに走らせる。書きにくそうな持ち方であるにも関わらず、描かれた「幽玄楼」の文字は、クセのない字。
もっと言えば、印刷されたような味気ない字がワーズの筆跡である。
「幽玄楼はね、虎狼代々の狼首が住まう楼閣で」
「あの、ロウシュっていうのは、人狼の群れのトップのこと、で合ってますか?」
話の腰を折るとは分かっていても、気になって尋ねる。
ワーズは目を瞬かせたものの、特に気分を害した様子もなくへらっと笑う。
「おや、言ってなかったっけ。そう、狼首は人狼の群れそれぞれに必ず一匹はいる、その群れのトップのことだよ。で、そんな人狼の中でのトップ――最強を示す称号が、狡月。無様にそこで転がっている奴だね」
真実を語る目で「とても相応しいと思わない?」と聞かれても、何と言ったものか。
同意を得られずとも、やはりへらへら笑うだけのワーズは、幽玄楼に話を戻す。
「で、今の狼首であるシウォンにとって、幽玄楼はお気に入りがたくさん詰まった場所なんだ。アレの趣味の良さは泉嬢なら分かると思うけど、まあ、夢のような場所だって話」
「話? 話だけなんですか?」
「うん。同族であっても必要最低限の奴しか入れないらしい。楼閣の維持に必要なくらいの、ね。以前、無謀にも侵入した輩がいてねぇ。仕置きに目玉を抉られたんだが、悦んでたよ。あんな世界を見せられたら、他なぞ見たくないって。誇張だと思うかい、泉嬢?」
問われ、反射的に首を振って否定する。
真実だろうと泉は思う。
接した期間は短くとも、彼の人狼が見せた品々は、思い返すだけでも鼓動を逸らせたのだから。
そんな泉へワーズはふんわり笑い、銃口でシルクハットのツバを弾きつつ、幽玄楼の字を歪な円で囲う。次いでこれを下方の隅へ配置するていで、ぐるっと更に大きな円を書き、内側に虎狼の字を書いた。
円の上には一本線が引かれ、またその上には「奇」の字。
円と線が混じる、円の内側へは汚い輪郭の四角。
最後に隅の幽玄楼の周りに小さな円が四つ配置され、それぞれに番号が振られた。
しばらくじっと見ていた泉、気づいて軽く手を打つ。
「ああ、なるほど。これ、奇人街だったんですね」
指差したのは、線上の「奇」の字。
これに対してワーズが少しだけ傷ついた顔をした。
何か悪いことを言ってしまったらしいと察した泉は、慌てて線下の部分を指差した。
「あの、この大きな円は?」
「これは……虎狼公社だよ?」
萎れた声が応える。
線を指せば「地面だよ」、四角を指せば「クァンの店だよ」、幽玄楼を囲う小さな円を指せば「……一の楼、二の楼、三の楼、四の楼」と段々不貞腐れる始末。
泉がどうしたものかと頬を掻けば、ふっと哀愁漂う笑みがワーズの口角へ宿る。
「ワーズ・メイク・ワーズにゃ絵心がないからね。分かって貰おうなんて……これっぽっちも思ってないから」
じゃあ、どうして書いたんですか? とはさすがに言えなかった。
なんともフォローしにくい雰囲気。
こげ茶の目を泳がせた泉は、掠めた視界に慌てて問う。
「で、でも、この刺繍は?」
猫の先にある艶やかな蝶は、くたびれた濃紺の中でも軽やかに舞っている。
「それはお手本があったから……。デザインは手製じゃないんだ。……がっかりした? 泉嬢」
流れで「御免ね」と言いそうな気配を汲み取り、泉は首を振った。
「いえ。私、ワーズさんの服、好きですから」
「そう?」
泣きそうなほどほっとした表情が白い面に浮かぶ。
初めて見る顔に何故か慌てた泉は、メモへ視線を戻した。
「え、ええと、それじゃあ……待ってください。じゃあ、虎狼公社ってこの真下に?」
青褪めた顔で下をさせば、一転していつもの笑みを取り戻したワーズが頷く。
「うん。虎狼公社は人狼の洞穴――いわゆる、縄張りの名でね。形式は確かに会社っぽいけど、あくまで”っぽい”ってだけ。言ってなかったっけ? 人狼の本拠地は奇人街の地下なんだよ。虎狼はその中でも大きくて、見ての通り、クァンの店も系列として入ってて」
四角い線の中央をペンでコツコツ叩くワーズ。
ぎょっとした泉が思い出すのは、クァンの店を出た際、振り返れば家と家の間にぽっかり開いた、地下へと続く長い階段を目にしたこと。ランの重みですっかり忘れていたが、看板のない店の位置は、四角が描かれたところと見て間違いない。
「縄張りって……。地上のねぐらは?」
「あれは別荘みたいなもの、かな? 生意気だよねぇ、人狼のくせに」
緋鳥から説明された場所を浮べては、ワーズが説明を継ぎ、続ける。
「そんで、一の楼……と続く楼は拠点だね。役割はそれぞれにあるって話。興味ないから説明は飛ばすけど」
カツッとペンが音を止めた。
泉が顔を上げたなら、細められた混沌と出くわす。
値踏みするような思惑が宿り、泉は居心地悪く眉を顰めた。
「泉嬢。これがね、シウォンの治める虎狼公社なんだよ。しかもアイツはあの通り、顔もまあまあで、やること為すこと、そこそこ評判が良い――喰らう面を差し引いても」
含みのある言い方。
本題に入る前のような。
知らず身じろげば猫が膝から退き、腰を上げようとすればワーズが先を続ける。
「さっきも言った通り、幽玄楼はシウォンのお気に入りでね。今まで誰一人として招かれた者はいないんだ。いっつも侍らせてる女だって寄せつけない。最低限必要な者しか通さない。それくらい、シウォンにとって、特別で大切でお気に入りの場所……」
低く囁き、茶を啜っては、へらりと笑った。
「ね? 本気っぽいでしょ? たぶん行っても殺されやしないし、ヘタしたらかなり良い生活できるだろうね。……どう?」
尋ねられた意図を理解できず、けれど高まる予感に嫌な顔をする。
すると、ワーズは殊更へらへら笑い。
「この際だから寿退社しても、ボクは全然構わないけど?」
さらりと言う。
泉の意思で断ったのにも関わらず、これを無視して。
「……それって、リストラですか? 私が役に立たない上に、トラブルを招くから……」
段々と苛立ちが募ってくる。
同時に、虚しい思いが襲ってくる。
悠長に茶を啜るワーズは、そんな泉の様子も気にせず続けた。
「リストラではないよ? トラブルったって、人間が招いたものならワーズ・メイク・ワーズは大歓迎だし。たださ、泉嬢、やっぱり従業員辛そうでしょ? クァンは不味いけど、幽玄楼なら――」
「いやー、ボロい造りの割には良い湯加減だったぜ」
タイミングが良いのか悪いのか、降りて来た竹平を認め、泉は勢い良く席を立った。
話は終わりだとワーズを睨む。
「私……次、入りますね!」
「? うん、どうぞ」
気圧されたようにワーズが頷けば、さっと壁へ身を寄せた竹平も省みることなく、階段を駆け上って行く泉。
一階が見えなくなる直前。
「うわ、猫!?」
という声に見下ろせば、猫がワーズの顔面に尻尾をべしんっと打ちつけたところ。
奇妙にも、すっとした胸に戸惑いつつ、泉は着替えを取りに部屋へ向かう。
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