第18話 記憶の行方
彼を明確に表す言葉があるなら、手負いの小動物が妥当であろうか。
セーラー服姿よりマシとはいえ、ワーズより背丈も肩幅も足りない身体では、黒い服は生地が余るばかり。
顔が良く、肌もきめ細かい上のそんな格好は、妙な色気を見る者に感じさせる。
黙っていたなら、女の泉でも別の意味でときめきそうな姿だが、哀しいかな、服が変わっていたことに気づいた第一声は「なんじゃこりゃあ!?」であった。どこかで聞いたような台詞の後、ワーズが着替えさせたと知っては、怒鳴って喚く。
それが終われば、今度は袖や裾を引っ張って、「くそっ!」と悪態をつき項垂れていた。
どうやら丈が足りないことを気にしているらしい。
それでも泉より背は高いため、食卓を挟んだ向かいに座られると威圧感があった。
「……なんだよ」
ついでに、無言で差し出された空のカレー皿は五杯目で、泉は困惑も露わにこれを受け取る。
「いえ……。あれだけ不審がっていたのに、よく食べられるなと思って」
「いいだろ、別に。腹が減ったまんまじゃ動けねぇし。どんなに華やいで見えようが、体力勝負の仕事してんだ。喰える時に喰えるもんがあるなら、喰っとくのが常識だろう?」
「そんなもんですか」
「おう、そんなもんだ。あと、妙な幻想抱くんじゃねぇぞ? 世の中でどんなに騒がれようが、所詮俺らも人間だからな。営業と素の使い分けがあって当然」
「つまり、こっちが素、ですか?」
「…………遠慮ないな、お前」
新たに迎えた六杯目のカレーを、早速口に含んではそんなことを言う。
食事を作っていようが、それはもぎ取った家事であって、位置的には彼と大差ない泉。
思う資格はないけれど。
(……遠慮、する気がないのか、この人)
ちらっとこの文句を言うに値する隣を見れば、溶岩のようなカレールーが白い筒状の登頂から垂れている飯を、嬉しそうに頬張っている。
ただでさえ食べづらそうな形状は、ワーズ自身が作ったモノで、さすがは製作者とでも言うべきか、大皿の縁までみっちり白飯を敷きつめていても零すことがない。
難があるなら、スプーンを持つ左手が握り拳で、まだ指の力が弱い幼子を髣髴とさせる点であろうか。
口の周りが汚れない分、道具の使い方はどうあれ、食べ方は幼子より器用だが。
現在、食卓を囲っているのは、ワーズと猫と竹平、泉の四人だけ。
ワーズ以上に意地汚く食べ散らかすスエは、再び自室兼研究室に籠もったようで、元々食事に参加できないシイと、するつもりのないキフは、カレーが出来上がったとほぼ同時に、芥屋を出ていった。
直前に、白い紙片がキフからワーズへ渡されたのを見た泉は、何とも言えない気持ちになったものである。
「……そういえば緋鳥さん、あの後どうだったのかしら?」
最後の一口を終えて浮べたのは、へこたれることなく三人の男へ飛びかった中年を、並々ならぬ想いで追いかけていった少女の姿。
これを聞きとがめたワーズが、スプーンをがしがし噛みながら首を傾げた。
「あの後って?」
「え……と、逃げていた時会ったんです。ジャケット借りてしまって。でも勘違いで襲われたから投げつけてしまって」
「……な、なんなんだ、その物騒な話は? 逃げるとか襲われるとか」
カレーライス一筋と思っていた竹平の顔が皿から上がる。
奇人街の説明はワーズから、大雑把に受けていたが、にわかには信じられないのだろう。
泉にはよく分かる。
床に転がされたままのランの姿が、作り物にしては生々しい人狼のモノであるため、頭ごなしに否定できないのは、幸か不幸か。
ただ、最初に芥屋から逃げてしまった泉は、店の説明を受けて顔色は悪くなろうとも留まる姿に感心し――同時にそんな過去の自分に少しばかり失望した。
「うん、まあ、奇人街だしねぇ。シン殿も充分気をつけてね。一人歩きなんかしちゃ駄目だよ?」
「いや待て、俺はこんなところに長居するつもりねぇよ。そうだ。ワーズ、だったか? お前、帰り道知っているなら教えろよ」
言い方は命令に近いが、茶色の眼が懇願に近い揺れを示す。
本当はすぐにでも帰りたいのだろう。
竹平のそんな気持ちは、やはり泉にはよく分かった。
「あの、実はですね。帰るには一ヶ月以上必要――」
「はあ!? マジかよ!?」
被せる悲鳴に寄る眉は、竹平に対してではなく、ワーズへ向けて。
口にして、泉は妙だと気づいた。
正確な日数はすでに計れなくなって久しいが、少なく見積もっても、ワーズが泉へ言った一ヶ月は経っているはず。
しかし、一ヶ月と告げた赤い口は、変わらぬへらりとした笑みで、けろりと言う。
「心配しなくても、シン殿はもっと早く帰れるよ」
「へ?」
「本当か?」
「まあ、それには条件が必要だけど」
「な、なんだその条件ってのは?」
身を乗り出す竹平。
これを遮ったのは、ワーズの袖を青い顔で引く泉。
「ん? どったの泉――――」
「待ってください。私は一ヶ月もかかるのに、どうして権田原さんは早く帰れるんですか?」
竹平が「シンだ!」と訂正を叫ぶが構っていられない。
「それにもう、一ヶ月は経っていますよね? なのに私」
「泉嬢、ボク、言ったよね? たぶん、早くても、って。……君はさ、奇人街に来る直前の記憶、まだ戻ってないんでしょう?」
「……記憶が、必要?」
「……元いた場所を求めるのなら、ね。シン殿はどう?」
本名を嫌うはずの竹平は、ワーズに問われて思わず「権田原だ!」と言って詰まる。
動揺から袖を離した泉は、完食した皿を流し台へ置くことなく、ぼんやり二人のやり取りを見ていた。
付き合っていた女に無理心中謀られた――。
竹平が苦々しく独白し始めた、そんな声が遠い。
マスコミ連中がうるさいから、少し距離を取るだけと説明したにも関わらず、恋人は睡眠薬を彼に飲ませ、車ごと海につっ込んだそうだ。
一通りの出来事を聞きワーズが告げたのは、その彼女も奇人街に辿り着いているはずで、彼女を捜さないと帰れない旨。
マジかよ、と項垂れるのを端に泉は己の記憶を辿る。
ここに来る前の記憶。
それがあれば帰れる。
彼らの会話から導き出された答えは、泉の胸に重いものを押しつけた。
記憶がないのだ、泉には。
どれだけ思い起こそうとしても、目覚める前の、眠る前の記憶がすっぽり抜けている。
早くても――……
あれは、一ヶ月もあれば思い出せるかもしれない、という意味だったのか?
襲う落胆――――に伴う安堵を感じて泉は戸惑う。
仮であっても、居場所を見つけた。
それでも、安逸にそこへ納まるのは良しとしないはず、だったのに。
傷害や殺戮を当然とする街に対して、恐怖と嫌悪は今もって泉の中にある。
と同時に、仕方ないという考えが根づいていることも泉は知っていた。
これが順応……。
今まで歩んできた自分の考えを覆す、塗り潰す、殺す、失くす――――
ぞっとした。
端から自分を否定される感覚。
否定するのは誰でもない、自分自身。
頭がくらくらする。
酷い不安に襲われて――
鮮明に聞こえた言葉がある。
「まあそんなわけだから、シン殿は泉嬢と一緒の部屋で良いよね?」
「……………………………………………………は?」
「俺は別に構わないが―――」
「ヤです!!!」
図りかねる意味を理解し、身体全部で拒否を宣言する。
動揺にかこつけた話の展開で、不安が一気に消し飛んだ。
今なら顔面で湯が沸かせそうだ。
すっぱりきっぱり断れば、気まずそうな顔になった竹平は、頬を掻きながら言う。
「うん、いや、まあ…………普通はそうだよな。なあ、ワー……ズ? アンタの部屋はどうなんだよ」
「うーん……死んじゃうよ?」
苦笑混じりに言われれば、絶句しか返せない。
そんな二人の様子をさほど気にかけず、泉の方を向いて首を傾げるワーズ。
「泉嬢、駄目かなぁ? ここはほら、同じ人間のよしみで、さ?」
「無理です!」
「…………なら、ワーズとアンタが一緒の部屋で、俺がワーズの部屋ってのは――」
「なんでそうなるんですか!?」
とんでもない提案へ、更に顔を赤くして怒鳴り散らせば、ワーズも困惑して告げる。
「シン殿がそこまでして死にたいなんて、思いもしなかった」
「……アンタが危険なんじゃなくて、部屋が危険なのかよ」
呆れ返った声に、そんな部屋の隣で過ごしていた泉が青くなる。
同時に、竹平がワーズとキフを同類と見なしていたことに気づいた。
男色云々はさておいても、人間ではないキフ。
ゆえに、ワーズが知ればかなりショックを受けそうだ。
「それなら俺はここでいいや。ずっと寝かされていたっていうし。もうすぐソコ、閉めるんだろ? ……そこの狼男も目覚める気配ないし」
言ってソファへ移動した竹平が顎で示したのは、店と居間を仕切るガラス戸と、項垂れたままのラン。
狼男という表現に、言われてみればと今更ながら思う泉の横で、笑んだワーズが頷いた。
「シン殿がそれで良いなら。洗い物が終わったら布団持ってくるね」
いつの間にか空にしていた自分の皿と共に、全員分の食器を回収していくワーズ。
何にせよ、男と同室などという状況から脱せたことに、泉はほっと一息ついた。
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