第14話 交わす視線

 ひらりひらり、蝶が飛ぶ。

 どこかで見たような、紺色の蝶が。

 白地の空まではためかせて。

 上下左右と乱れ飛ぶ。

 ぎゃーぎゃー、とけたたましくも痛ましい声を上げ――

 蝶は、白地の空に押し潰されて、床の上で事切れた。


「……な」

 ぼとっと背中の重しを落とした。

 途端に上がる呻きと嘆きを放り、泉の目はただただ、開け放たれたすりガラスの向こう側へ釘づけになる。

 目の前にいるのは、赤い髪の二人。

 覆い被さろうとする赤と、これを拒絶しようとする赤と。

「止めろ、キフ・ナーレン! 人間が嫌がってるだろう!?」

「止めてくれるな、店主! ああっ、スイート・ハニー! 君のような心ときめかせる人をおじさんは待っていたんだ!」

 共にいる黒いシルクハットは、下にいる赤の助力をしているらしく、上の鼻息の荒い赤の首根っこを引っ張っていた。

 ――が。

「あ、おかえり、泉嬢」

 泉に気づくなり、へらりと赤い口が白い手を離し、赤い髪のじゃれ合いを進行させた。

「よしっ、今だ!」

「ぎゃあっ!」

 世にも悲惨な声が下から発せられれば、黒一色が再び、上の赤を引っ張る。

 しかし、それよりも前に下の赤い髪へ寄せられる、獰猛なぶよぶよの唇。

 間に合わないと悟った泉が視線も外せず口元を押さえたなら、俊敏な影が視界の端から線を一つ作って躍り出た。

 迫る赤の青い目を狙い、小さな影が体当たり。

「ぎゃあっ!?」

 襲った相手と同じ声を上げて怯んだところで、続け様、猫の尻尾がその頬を張った。

 残像の靄が宙へ溶ければ、残されたのは顔を押さえて悶絶するキフ・ナーレン。

「うわ、ギリギリだったねぇ?――――あれ?」

 これを横目にワーズはほっと息をつくが、下にいた少年が気絶しているのを知り、銃で頭を掻いた。

「うーん……ギリギリアウト、だったのかな?」

 それは少年のみぞ知ること。

「ワーズさん……どういう状況ですか、これ?」

 繰り広げられた展開についていけない泉は、少年とキフ、布団のなくなったソファを追って困惑する。

 似たような表情を浮かべた黒一色の男は、それでも赤い口でへらりと笑い、

「んー……彼、目覚めてね。混乱してたけど、取り合えず布団邪魔だったから二階に戻したんだ。そしたら運悪く、そこの変態中年がやってきちゃってねぇ。ボクが降りて来たら丁度押し倒されちゃっててさ、彼。頑張って止めてたんだけど……ね?」

「…………」

 それはいい。

 いや、目覚めたばかりの少年にとっては、全く良くはないだろうが。

「ところで泉嬢? 疲れたでしょう? 早くお入り?」

 言いながら、再度意識を失った少年を抱き上げたワーズは、その身をソファへ横たえる。

 乱れた服も直し、へらっと笑った混沌を和ませる。

 しかし、泉は居間へ上がることなく、じっと少年を見つめるのみ。

 これを不思議に思ったのだろう、ふらふら近づいてきたワーズが、普段よりも更に一段低い位置にある泉の頬へ手を当ててきた。

「どったの、泉嬢? 具合悪いのかい?」

「ワーズさん……」

 気を引くような動きをする指がクセ毛に絡んでも、泉の意識はソファの少年へ一心に注がれており――

 おもむろに、指が一本、彼を指し示す。

「な、なんですか、あの格好」

 言葉になった声は、僅かに上ずり掠れていた。

「格好?」

 絡めた髪を梳きつつ頬から手を離し、ワーズは少年を振り返るが、すぐ泉へ視線を戻す。

「うん? とても良く似合ってると思うんだけど」

「…………」

 確かに、それに対して泉も異論はない。

 だが、問題はそこではなく、

「……泉嬢、人狼臭いよ。……いや、ラン臭い。で? そこの人狼は、なに気安く泉嬢に縋りつこうとしてるんだ、おい?」

「キャンッ!?」

 鋭い蹴りが泉の横を通り抜け、甲高い泣き声が響く。

 恨み言をぶちぶち呟く声から、彼女の死角でランがワーズに蹴り倒されたと察しても、泉が振り向くことはない。

「全く……この子はボクのモノだって言っているだろうが。泉嬢、お入り?」

 そっと伸びた手が、今度は泉の腕を掴む。

 導かれるままに靴を脱いでは、黒いコートへ招かれた。

「お帰り。楽しかったかい? それとも嫌な目にあった? 遠慮しないで言うんだよ。責任は全部、ランとシイに取らせるからね」

 髪を撫でながら、楽しそうに言うワーズ。

 反論するのは、中年と少年の衝撃的な光景から、ようやく回復したシイ。

「うえっ、ランのお兄さんだけでなくてですか!?」

「酷いっ! あんまりだ、シイ! 俺だけ罰を受けさせようだなんて!」

「わわっ! 止めてくださいランのお兄さん! シイにはスエのおいちゃんという大切な食料ひとがいるのですから! 縋りつかないでください、鬱陶しいです!」

「こ、こっちだって縋りつきたい訳じゃない! でも、気持ち悪くて一人で動けないから、肩貸して貰えないかと思って。ううう……泉さぁん、肩をまた貸してくださいぃ。一生大切にしますからぁ」

「……ラン、お前…………酔っ払ってんの? しかもその腕じゃ、陽に当たって、か? 一番質の悪い酔い方しやがって……仕方ない。シイ、ソレ、こっちまで運べ」

 ワーズは珍しくも心底呆れた口調で命令すると、泉を胸に抱いたまま一歩下がる。

「何故シイが……」

 文句を言いつつ、「泉さん」を連呼するランを居間へ上げたシイは、すぐ右手、すりガラスと食器棚の間を示した顎に従い、自身の倍以上ある身体をそこまで引きずっていく。

「やれやれ。泉嬢も災難だったねぇ。アイツの酒癖の悪さは酷いんだ。しかも明日にゃけろっと忘れてしまう。……これは二日酔い決定かな? あーあ、部屋が人狼臭くなっちゃうよ。泉嬢も早速被害受けてるしさ。こうなったら後でボクが全部――――」

「いえっ、結構です!」

 皆まで言うなと身体を引っぺがす泉だったが。

「遠慮しなくても洗ってあげるのに」

「遠慮じゃありません!」

 結局言われてしまい、顔を真っ赤に染めながら、びしっとソファへ指を突きつける。

「そ、それよりも、あの人のあの格好はなんなんですか!? どうして、私の制服に似せる必要があるんですか!?」

「でも、似合ってるよね」

「ぐっ。……た、確かに似合ってはいますが……そういう問題?」

 文句を口の中へ押し込みつつ泉が見つめるのは、ソファで眠る少年――その格好。

 上は紺と白のセーラー服、下はプリーツスカート。

 上背や肩幅は当然ながら泉よりあるものの、言われなければ彼が男だとすぐに気づける者はいないのではないか。

 叫び続けていた声からして、変声期を過ぎたにしてはアルトの音域を保ったまま。

 尤も、悲鳴と普段の声音が同じとは限らないが。

 それでもキフが迫ったのだから、少年の性別は間違いなく男なのだろう。

「それに泉嬢、違うよ?」

「へ?」

「あの制服、ボクが作ったわけじゃなくて、君のだよ」

「ああ。…………はぁ!? ま、待ってください。私の!? だって、私のは私の部屋に仕舞ってて――っ」

 ここでようやく、帰って来て初めてワーズの混沌と目を合わせた泉。

 急に言葉を失っては涙がぼたぼたと溢れてきた。

「い、泉嬢?」

 狼狽するワーズの声を上に遠ざけ、ずるずる座り込んでは「酷い」と繰り返す。

「ランかシイ……まさか、ボクが何かした? 制服着せたの駄目だった? 同じ人間だから良いと思ったんだけど」

 即座に「当たり前です!」と返せない喉は、泉自身も理解できない感情に遮られ、ただひたすらに「酷い」と舌を動かすばかり。

 ランを端に寄せたシイが来ても、おろおろする存在が増えるだけで、泉の涙は止まらず。

 その陰で、少年へ近づこうとするキフを、今度は虎サイズの前足で、リズミカルに叩く猫がいるのも知らず。


 どうして私、泣いてるんだろう。

 どうしてこんな、人がいる場所でみっともなく。

 どうして涙を止められず、「酷い」と罵って。

 誰を――――?

 巡る考えの中、はっと気づいて顔を上げ、歪んだ輪郭の白い面をしばし見つめる。

「泉嬢?」

 ぴたり、涙が止まったのを受けて、ワーズが少しばかり安堵を浮かべ、泉の頬へ手を伸ばし――――かけ。

 また、ぼたぼた流れ出す涙に、また、うろたえる。

 どうして? どうして? どうして?

 問う代わりに、絶えず「酷い」と上げる声。


 どうして、あなたが?

 与えられるのはいつだって私なのに、あなたへ与えられるものなんて、一つもないのに。


 交わした視線、歪んだ混沌、先に見えた不安。

 感じ取った全てを持って、問う。


 どうしてあなたが、私と視線を交わして安堵するのか――分からない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る