第9話 代償

 あの時、ランが泉へ述べた魅力の基準は、彼に迫る同族の女であった。

 それもシウォンから見出された、狼首を想いながらも狡月を手中に納めんとする、狡賢くも妖艶な――

 嫌悪と判定は必ずしも一致しない。

 いくらランが人狼の女を嫌おうとも、容姿が纏う艶美を否定することはできないのだ。

 従って、これを見慣れた金の眼に映る者は、大抵の場合、魅力に欠けてしまう。

 けれど。


 魅力という付加価値がどんな結末を招くか、彼女は知っているのだろうか?


 ――――……

 猫を止めた泉を見つめる耳に、濁音混じりの掠れた声が届く。

 感覚を伸ばした聴覚は、声の発生源と方向を伝える。

 方向は、不特定の誰かへ。

 発生源は――視線を外したランの眉を顰めさせた。

 後方、背にした店の軒下に転がっているコレは……。

 拉げた身体を球体にされた、人間。

 否、同族――人狼だろう。

 ある話を思い出す。

 それはランが生まれるだいぶ前、芥屋から盗みを働いた、やはり同族の男の話。

 彼は、その時はまだ狼首ではなかったシウォンの、直属の上司だったという。

 慢心があったのかもしれない。

 芥屋から盗み出して無事でいられる、または、少しくらいくすねたところでバレはしまいという慢心が。

 だが、男は猫に殺された。

 最期は、ランの目の前にある球体より更に小さな肉の塊となったと聞く。

 途中でふれた気のままに舌を噛み切ろうとしたが、許されなかったとも。

 それを踏まえてか、球体の下顎はすでに、舌を傷つけられる状態になかった。

 ――――……

 再度呼びかける声は、のろのろと近づくランへ訴えかけていた。

 弄られるのは嫌だと。

 きっと焦点の合わない目は、ランが誰かも分かっていないに違いない。

 陽の遮りと猫ではない気配によって、気づいたに過ぎない。

 誰も見ないその眼が、ランへ視線を這わせる。

 振り返れば、踵を返す彼女の姿が映る。

 腕に抱かれた猫は、球体を完全に忘れた様子でまどろんでいた。

 打算が働く。

 彼女がいる限り、ランの身は保障されると断定する。

 阻む思いはない。

 諦め逃げる半端者は嫌いだが、潔いのは嫌いじゃない。

 狼首の座を投げ出して命乞いをした男は今もって嫌悪するが、当初の計画通り血染めの座を手に入れた、同じ人狼の彼は尊敬に値するように。

 真実、ランが嫌うのは己が身の種ではなく、己が身の血。

 種の弱さを具現化した、卑屈な男の血筋。

 それを辿る者に手は差し伸べないが、貫く者へは敬意を払おう。

 本性を殺す陽の光は傾きを見せど、まだ高く。

 危険を承知で、ランは目を閉じた。

 象るは右腕だけ。

 同族の女が何やら悲鳴を上げるが、知ったことではない。

 目を、開ける。

 先には球体の抱える頭部。

「何をやったかは知らないけど、楽にしてやるよ」

 覚えのない姿へそう言ったものの、聞こえたかどうか。

 瞬間、笑って見えたから、聴覚はあったのかもしれない。

 たとえ、両耳が削がれていても。

 鈍い音の感触が、ランの腕に響く。


* * *


「ラン……さん?」

 猫を抱えたまま、泉は駆け寄った。

 先には球体とランの姿が。

 はっきり状況を捉えれば、足が止まった。

「何を……その、腕は…………?」

 泉の呟きに対し、ランは球体へ手を突っ込んだまま、脂汗の浮いた青白い顔を笑みに歪めた。

 ふらつくようなランの動作で彼の腕が抜けたなら、球体の形がゆっくりと変わる。

 まるで羽化しゆく虫の如く。

 頭部を潰された、血塗れの身体へ。

 潰されたといっても、残っているのは飛沫のような肉と多量の血液のみ。

 ひくひくと生きていた名残を惜しむ痙攣は、程なくして止み、青褪めた顔でこれを見つめていた泉は気づく。

「…………ニオイが……消えていく」

 嘔気を誘う、鉄錆混じりの悪臭が、黄色く褪せた宙に溶ける。

「そりゃあ、まあ、身体が完全に死んでしまいましたからね」

「え?」

 ランの不自然な敬語に見やれば、ふらついた身体が倒れようとしているところ。

 慌てた泉は、腕の中の猫を投げ捨てて、ランの左腕の下へ身体を滑り込ませた。

 ちらりと走らせた視線は、綺麗に着地した猫ではなく、まだ倒れたままの美丈夫へ。

 彼の話では、嗅覚に関して、三大欲求がどうのこうの言っていたはずだが……。

 血を好むシイにまで食せぬ物の匂いが分かるということは、嘘をつかれたのだろうか。

 丁度視界を掠めた子どもの姿に目を向ければ、肩の重みが提案する。

「とりあえず、移動しませんか? シイは――あれ? なんでアイツ、あんな遠くから」

「シウォンさんに、投げられてしまって」

「ああ。じゃ、丁度いいな」

 体重を全て預ける一歩手前の身体は重いが、声の調子は明るく軽い。

 不自然さは着物越しに伝わる熱にも宿っている。

 かといって、人狼の熱が人間のそれと同じかどうか、泉は知らない。

 だからその身体が、投げ出された方向とは別の路から走り寄るシイへ向かうのを感じても、逆らう真似はしなかった。

 何より、この球体から一刻も早く、離れたかった。

 泉の命を脅かし、それが原因で、猫が怒り、為された結果から。

 当然の報いという嘲りも、可哀想という同情も、泉にはない。

 あるのはただ、怖いという胸のざわめきだけ。

 それが球体の状態に対してなのか、猫に対してなのか、球体自体に対してなのか……判別はつかねども。

 引きずる身体に引きずられながら、泉は独り言のように問う。

「……あの……遺体は…………」

「放っておいて平気ですよ。明時が処分してくれます」

「処分……芥屋に? それとも……ランさんに?」

 言った泉の眼が、ランの右腕を注視した。

 陽はまだ高く、ラン自身、人間の姿だというのに。

 球体の頭部を潰した血染めの腕は、着物から覗くその形状は、紛れようもない、人狼姿のランにあったモノ。

 黒い爪から滴り落ちる血が生々しく泉の鼻をつく。

 吐息の笑いが漏れ、泉の眼がランの青褪めた顔を映した。

「いいえ。……処分先は別でしょう。俺のとこに来ても突き返しますからね。たぶん、山行きじゃないかな」

「山?」

 尋ねたが、説明は明るい声に遮られた。

「泉のお姉ちゃん、ランのお兄ちゃん、ただいまです! って、うおっ、猫!?」

 合流したシイが泉の後に続く猫を見て、大袈裟なほど飛び退いた。

 次いで後方へと夜色を投じ、あっけらかんとした表情で言う。

「あり? 気は済んだのですか?」

「…………にー」

 構うなと伝わる応えと共に猫の尻尾が左右に揺れる。

 見るからに不機嫌そうな様子を受けて、シイの顔がランへ向けられた。

「おお? ランのお兄ちゃん、具合悪そうですね? 死にますか?」

「藪から棒に酷い言いようだな。大丈夫さ、このくらい。泉さんの散策には付き合える」

「……いえ、今日はもう止めにしましょう」

「駄目だ」

 シイに負けないくらい、明るいランの声へそう告げたなら、即座に却下された。

 驚いた泉が顔を上げれば、先ほどより一層悪い顔色が首を振る。

「なに、ラオのところまではもう少し。帰るならそれからでも良いでしょう?」

「でも」

「駄目です。俺、途中で投げ出すのは嫌なんです。それなら最初からやりません。ですから――」

「でも、相手が寝ていたら意味ありませんよね? ラオの爺さま爆睡中でしたよ?」

「え?」

「っ、ランさん!?」

 被せられたシイの言葉は、ランの症状を悪化させたらしく、ふらついた彼の頭は向かい合わせた泉の肩に乗り――――

「!」

 支えようと咄嗟に伸ばした泉の左手は、ぬるりとした生温かい何かに触れる。

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