第10話 ”道”

 奇怪な空間でその扉を開けた時、泉の体力は底をついた。


 辛うじて意識を保つランを背負う形となった泉が、シイに手を引かれて開けた近くの扉は、芥屋の物置そっくりの空間。

 シイの説明によれば、”道”と呼ばれるここは、広大な奇人街を扉と扉で結んで自由に行き来するための、いわば近道らしい。

 成り立ちは誰も知らないが、外へ通じる扉の他に、店の非常口として使われていることもあるという。店の了承があれば、そこへ直行することも可能だが、芥屋の物置は姿こそ似れど偏屈な造りらしく、ワーズがいなければ芥屋へは繋がらないそうな。

 確かに、歩いてみればすぐに分かったその違い。

 物置は無尽蔵の広さを見せたが、”道”には制限があるようだ。

 証拠に、ランを背に――そして何故かしがみつく猫を腕に”道”を歩いていた泉は、前方へ突き出す頭を見えない壁にぶつけていた。

 その後も幾度か、空間に紛れた壁へ、ランの頭を打ちつけては慌てを繰り返し――


 辿り着いたのは、某鬼火が経営するパブで、ランと猫の下敷きになった泉を救い上げてくれたのは、死人に呼ばれた経営者。

 経緯を話せば彼女は長い白髪を横に振り乱した。

「そんで、アタシの店に来るわけね、アンタ。顔見せ自体久しぶりの上に、ようやく来たと思ったら、ただの通り抜け?」

「いや、その……すみません」

「なーう」

「…………しかも猫連れって……ありえないわよ。どうなってんの、責任者」

 空色の眼と額の小さな角が泉を指して非難する。

 この場合、責任者とは自分のことだろうか。

 そんな大それた責任は知らない、と言いたいところだが、厄介を持ち込んだのは事実。 泉には宥める愛想笑いしかできない。

 愚痴る傍ら、クァンは返り血ではなかったランの血塗れた右腕へ、そつなく治療を施していた。それに気づいた泉は、手際の良さにしばし見入る。

 奇人街はその性質上、どの程度の怪我であっても自分で処置するのが普通だという。

 一応、病院や診療所もあるにはあるのだが、病持ちやよほどの実力者でもない限り、食材店やいかがわしい店に売られてしまう可能性が高いためだ。

 弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂、つけ込める隙にはとことんつけ込むのが奇人街――

 これを事なげに泉へ教えてくれた子どもは、泉同様、ランの治療を食い入るように見つめているのだが。

「おい、こら、シイ」

 ぐぐぐっと子どもの身体がテーブルから身を乗り出せば、容赦のない拳が光の頭部に沈められた。

「うぐっ……な、何をするのですか、クァンのお――――姉さん」

「ちょい待ち、このガキ。お前今なんで詰まった? ああ!?」

 包帯を巻く手は休めず、クァンの身体が怒声に合わせて炎を纏い、シイの顔を赤々と照らす。

「……まあ、いいがね。何をするってぇのは、わざわざ説明しなきゃ駄目かい? お情けで忠告だけしといてやる。――涎」

「おおっと!」

 じゅるっと音を立てて顎を拭い、円テーブルを囲う造りのソファへ戻るシイ。

「シイちゃん……」

 どうやらランの流す血に食欲が湧いていた様子。

 泉は向かいに座る子どもの性質を思い出して呆れてしまった。

 と、肩から胸にかけてまでへばりついたままの猫とは違う、支える体重が揺れたのを受けて、仕舞いだと包帯を叩くクァンを見た。

 すると上がる、抗議の声。

「……ぃたい。るぁんぼう過ぎるよ、キャン」

「誰だい、キャンて。アタシゃクァンだよ。芥屋のにいびられた時のどっかの人狼の弱っちい嘆きと一緒にしないでおくれ」

「ああううううう…………ひろの傷、抉って楽ひむなんて……少ぉしは、彼女を見習ったらろうら?」

「わわっ、ランさんっ!?」

 ぐらりと傾いだ身体を支えるため、両手を伸ばすが支えきれず、何故かソファへ押し倒される形となった泉。

 彼女へ張りついたままの猫を認めぬ赤ら顔のランは、ふやけた笑みを浮かべて、首元に頬ずりしつつ、泉の背に左手を差し入れる。これにより、包帯巻きの右手はテーブル下を垂れた状態ながら、抱きつかれたのだと泉は理解した。

 が、泉に魅力がないと言い切った男の行為は、拒絶より混乱を招く。

「ら、ランさん、大丈夫ですか?」

 起き上がらせるため、こちらも腕を回してみたところ、楽しそうにランの喉が鳴った。

「ふふふ……ほりゃほりゃキャン。見習いたまえよぉ。イイ子でしょお、この子。俺が抱きついても心配しれくれるだけだよ? 彼女らみらいに煩くない! さいっきょー!!」

「だからキャンはお止め。それから、最強じゃなくて、最高だろうがっ!」

「ぐえっ」

 勢い良く、ランの首が身体を引き連れて後ろへ下がる。

 クァンに襟首を掴まれた身体は、文句を言いながらも泉へばたばた手を伸ばし、これを助けを求めるモノと受け止めた泉はクァンを止め――

 がばっと両手を広げたなら避けるが、逃げ切れなかった腹がランの顔を受け止めた。

「ううううう……泉しゃん」

「は、はい?」

 変だ変だと先程から思うだけの泉が返事をしたなら、腹の上の金色が、きりっとした真剣な光を宿す。

「結婚してくらはい」

「………………はい?」

「はいっ!」

 骨が砕けそうな音が響いた。

「なーう」

 ばーか、というような猫の声と共に、クァンに殴られたランが白目を剥いて倒れる。

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