第8話 真昼の邂逅
どう楽しく考えたって暴力的な光景なのに、何故か黄色い悲鳴が右を向いたランの背後から聞こえてくる。
状況を把握すべく、まず下を見た泉は椅子に座る蝶の刺繍を捉え、次に左を見たなら穴の空いた壁と勢いに負けて欠けた木のテーブルが映る。
もう一度、ランを見やれば、胸倉を掴まれた姿があり、その先を追っては隣のシイが、残り少ないポテトの箱を持っているのを知り――。
「うわっ!?」
問答無用で地に叩きつけられたランを追えば、叩きつけた相手のゆったりとした白い服が翻る。
ちょっと待って、話が違う。
突然の成り行きを見ているしかない泉は、黒一色の男に文句を言う。
だって彼は言ったのだ。
知られる前に行った方が良い、と。
ランと一緒なら、狼首の意を汲んだ下っ端が襲ってきても大丈夫だ、と。
彼の狼首は人狼の本性に忠実だから、日中は絶対動かないし、安全だよ、と。
確かに、誰も襲って来なかった。
ランが恐れる女たちも、泉という対象がいては寄っても来なかった。
それなのに――――
「よお……楽しそうじゃねえか、小娘。こちとら寝不足続きだってぇのに」
質の悪いチンピラ然の言いがかりをつける緑の双眸。
一応、鋭くも切れ長の眼の下に、しっかり隈をこさえているから、寝不足というのは本当だろうが。
「え……ええと、確か、日中は寝てらっしゃるはずでは?」
意味なく揉み手の愛想笑いを冷や汗混じりで行えば、ぴくりとも動かないランを捨て置き、青黒い髪を掻き揚げながらこっちに向かってくる。
シウォン・フーリ――人を攫った挙句、抱き枕にして寝腐った人狼。
逃げなければならない状況下、泉の身体は椅子にぴたりと張りついて動いてくれない。
完全に、腰が抜けていた。
蛇に睨まれた蛙の如く、交わす視線が逸れてくれない。
と、間に入る光の頭部。
視界の下部で揺れる小さな背は、それでも歩みを止めないシウォンへ叫ぶ。
「止めるのです、シウォンのおっさん!――おう?」
さすがに緊迫した中のおっさん呼ばわりは、美丈夫の眉を顰めさせ、子どもへ手を伸ばさせ――
「シウォンさん! 相手は子どもなんですから!」
止めて! と抜けた腰もどこへやら、自ら進んで白服へ手を伸ばせば、首根っこを抓まれた死人が、ぽいっと背後へ投げ捨てられた。
うきゃあああああああああ――――――…………
ポテトがぱらぱら地に落ち、次いで起こる悲鳴もどき。
「え?」
もっと、こう、陰惨な場面を想像していた泉は、どこか楽しそうに喚いて、遠く放物線を描くシイに、拍子抜けした声を追わせて手をついた。
途端香るは、昨日嗅いだ、胸を騒がす芳香。
ただ、瞬時に同じモノと判別できなかったのは、ほろ苦くどろりとした甘さを感じたせい。
どくんっと心臓が大きく跳ねた。
訳の分からない熱は泉の意思を無視して、手を添えてしまった胸板の持ち主を見上げた。
「ほお? どうした小娘? お前から俺のところへ来るとは……舐めているのか?」
苛み嘲る低い声だが、反する行いは泉の腰を抱き寄せて、頬を優しく慈しむように撫でる。
内心では、おろおろするばかりの泉。
けれど身体は勝手に彼女の右手を持ち上げて、頬を這う男の手に這わせる。
そればかりか、彼の手を包まれた紅に染む頬で擦り、あまつさえ、つられて紅く色づいた唇を手首に置いては、潤み始めた瞳を悪戯っぽく上目遣いで緑と絡ませる始末。
(誰、あなた!?)
鏡もないのに手に取るように分かる、不可解な自分の傍目へつっ込めば、変わり果てた泉の行動に瞳を揺らしていたシウォンが動いた。
きゅっと白い腕の中で抱き締められる身体。
わーきゃー、冷静な心は叫びだし、とち狂った身体は嬉しそうに彼の背中へ手を回すと、甘えるようにしがみつく。
シウォンはシウォンで、先程までの剣呑な気配はどこへやら、泉の身体を拒むことなく受け入れ、柔らかく髪を梳いていた。
お陰で身体の代わりに自由の利きまくる心が、突き刺さる黄色い悲鳴の持ち主たちの敵意を捉えて青褪めた。
ランと共にいた時より、更に凶悪な――否、だからこそ加えて染み入る針のむしろ。
話を聞く限り、ラン同様、シウォンも女たちに人気だという。
しかも、ランと違って人狼限定ではない。
文字通り喰われると分かっていてついていく者が後を絶たない、とも聞く。
事実、羨ましいだろうと生意気な視線を勝手に送る先では、人狼以外の種が一触即発の雰囲気を辺りに振りまいていた。
もし、泉がこのままシウォンと共にどこかへ消え去ったなら、行き場を失った怒りは近場へ爆発しそうだ。
きっと事実になる想像が過ぎれば、泉の意識は足掻いて喉の自由を取り戻す。
「くっ……は、離れて…………くらはいぃ」
が、言葉を取り戻したところで、身体が甘え続けては説得力がない。
離れるも何も、泉の身体がシウォンを離さないのだから。
しかし、この訴えを聞いたシウォンは、背に回した腕を退け、己へ擦り寄る泉の両頬を首が痛まない程度に持ち上げる。
「…………ちっ」
至近の、ワーズとは違う男性的な美貌に、心までもが呑まれかけたなら、そんな舌打ちが為された。
「煙のせいか……。――――やがって」
「は?」
「!」
聞き取れなかった言葉を尋ねれば、シウォンの方も自分が何を口走ったのか判別が付かない様子で、些か乱暴に泉の身体を引っぺがした。
力の入らない身体はそのままよろけてへたり込み、動揺を隠せないシウォンは八つ当たりのように、背を向けては倒れたままのランを蹴り飛ばした。
「うぐっ」
「ランさん!」
鈍く遠ざかる呻きに非難を被せたなら、ちらりと合った緑が憤怒を伝えて、身が竦む。
これを鼻白んだ背は、数度バウンドして止まったランを目指して。
「っ!」
殺されてしまう、そう思った。
嫌だ、止めて――――と。
強く。
その時、店先に、ぼとっと落ちたモノがある。
球体なのに、着地点から潰れてバウンドも転がりもせず、呻きに似た音を立てたソレ。
判別する間もなく、球体の傍らへ降りてくる黒い影。
一瞥する眼は金の獰猛さを細めて。
誰かが「猫」と恐れた。
合図とでも思ったのだろうか。
言葉が示す通り、虎サイズの猫が己に気づかぬ白服へ、頭を突き入れる。
たったそれだけの動作で、ランを通り過ぎたシウォンの身体は宙を飛んでは地を這う。
「ひっ」
漏れた声は、ようやく覚醒し、自分を救ってくれた猫に対して、ランから漏れたもの。
ゆったり近づく黒い獣を恐れて身を硬くしたランは、標的が自分ではないことを知って息をつき、けれど猫の進む先を察しては止めるかのように手を伸ばす。
恐れに震える手は、空を掻くだけで、告げようとする口から発せられるのも、空気だけ。
気づけば泉は猫を追って走っていた。
その際、認めた球体の姿に背筋が粟立ち、胃に不快が過ぎる。
球体は、辛うじて人の形を留めていた。
今朝方見た憶えのある、優男の顔を頭部と思しき箇所に抱いて。
焦点の合わないその眼は涙していた。
涙は薄皮一枚残して切り刻まれた頬を伝っていた。
声を発する喉はあった、けれど――言葉を紡ぐ下顎が砕けていた。
酷く捻られ曲がった身体には、傷という傷がつけ加えられていて、衣服は裂けたモノもあれば、焼け溶けたようなモノまであり――――
助からないと、拉げた球体は物語る。
生きているのが不思議なほどの姿で。
違う。
生かされているのだ。
誰に?
もちろん――――
怒っていると黒一色の店主が言っていた、珍しく泉に懐いていると言っていた――
「猫っ、ダメ! 止めて!」
褪せた空気が肺を絞め上げて咳を促すのを殺し、仰向けに倒れて動けない男へ、じゃれつく前足を振り下ろそうとする影に手を伸ばす。
店主の了承は猫の了承――偽りとは思わない。
だからこれはきっと、猫の怒りなんかじゃなく、泉の懇願を察した猫の独断。
そこまでしてくれる理由は分からないけれど、でも――。
どんっと緑の瞳が揺れたなら、映る世界には前足を上げたままの獣の首を抱く、少女が一人。
靄が舞うのも構わず、首に顔を押しつけて、掠れる声で懇願する。
「ありがとう、猫。助けてくれて。でも止めて。助けて。殺さないで。同情なんかじゃないの。私が嫌なの。もうこれ以上、見たくないの。……傷ついたり、死んだりは怖いんだよ」
――ソレガ私ヲ傷ツケタ者デアッテモ。
「怖いんだ」
懺悔のように囁けば、巡る情景がある。
奇人街で目覚めてから、事ある毎に増えていく、死の影。
そして、もう一つ――――
「グルゥ」
けれど最後の一つを思い返す前に、呆れた唸りが腕を揺らした。
「……猫?」
恐る恐る、伺うように顔を上げれば、前足を下ろした猫が迷惑そうに泉を見つめる。
「う……ごめ――っげほ」
謝罪を口にしたなら、吸い込んだ大気が喉をついた。
苦しみながもポケットからマスクを取り出す。すると、咳に揺れる泉を労わるように差し伸べられた手がある。
礼を言って受け取った先には、猫しかおらず。
ランは遠く、シイは投げ飛ばされたまま。
シウォンは泉と猫のやり取りに目を剥き倒れているだけ。
では、この手は?
「猫?」
マスクでくぐもる声が見たのは、黒い巨体の背から伸ばされた、黒い腕。
幼い子どもの腕と似た太さは泉の腕より長く、先の小さな手の甲を泉へ向けている。
五指ある一つに指輪のような白い靄を見つけた。
包み込むようにそっと手を差し伸べれば、宙に霧散する黒い腕。
「あ…………」
追いかけるように宙を掴んでも何もなく、代わりに猫が身体を摺り寄せた。
「そっか……猫は不安定だから、形も一定しないんだね」
いつの日か聞いた、店主の言葉を思い出す。
身体の大きさを変えるだけではないと知っても、起こるのは納得であり、不思議に思う気持ちはない。
恐れる気持ちも。
「……シウォンさん、大丈夫ですか?」
そんな言葉が自然に出てきたのは、猫が獲物の存在を忘れて、小さな身体を泉へ預けてから。
あの球体すら意識外へおいやった猫は、黒い靄の中に笑顔を浮べている。
だが、人間姿の人狼にとって、猫の存在は恐るべきモノとして根強く息づいているらしい。
問いかけに応じる気配はなく、先は猫とも泉ともつかぬ、じっと向けられる視線があるのみ。
泉はこの視線を真っ向から受け止めて会釈し、踵を返す。
きっと、もう二度と、シウォンと会うことはないだろう。
ランが「糞親父」を例に教えてくれたのだ。
凶暴さと同時に、諦め逃げることも、人狼の本性であると。
ならば、これを忠実になぞるシウォンが、自身が怯える猫を抱く泉へ、近づく謂れはない。
結論づけ、注意を背後から目の前へ移し――――
くしゃっ……という音が空気を震わせたのは、そんな時。
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