第5話 お年頃
日中の奇人街の空気は、すこぶる悪い。
夜の煌びやかな色彩に変わって街を染める、褪せた黄色い大気。
色からして煙たそうなそれは、果たして一呼吸する度に肺を冒し、咳と不快感をもたらしてくる、害そのもの。
このため、ただでさえ夜行性が多い奇人街の住人は、動きの制限される昼を嫌っており、現在、泉たちが歩く路には数えられるほどの人影しかない。。
原因は、自生する草木のない、踏み固められた地面――ではなく、褪せた世界を燦々と照らす太陽にあるという。
これを気休めでもなんでもなく、本当に解消してしまうのが、外へ出る前に泉がつけた白いマスク。
ただし、マスク自体におかしな機能はない。
ヘンテコな発明品を作り上げては悦に入るスエではなく、正真正銘、ワーズが作ったひたすら平凡なマスクが、高性能のガスマスク以上の清々しい空気をもたらすのは、マスクの中に影ができるから、だそうな。
”陽の光に依る大気汚染は、光によってできる影で防がれる”
妙な話だが、日中、すりガラスを開けっ放しにしても、芥屋の空気は変わらない。
実感している泉に疑う余地もないだろう。
なにせここは奇人街、自分の常識で深く考えたって無駄に疲れるだけだ。
これはこういうものと納得するだけの話である。
また、確かに路ではまばらな人影だが、折り重なる瓦屋根と漆喰の壁で構成された軒下には、買い物をする住人の姿が幾つも見える。
やはり、陽が届かないことが重要なのだ理解すれば、泉は横を歩くシイと、二人の後ろをついてくるランへ問う。
「ええと、シイちゃんにランさん。息、大丈夫なんですか?」
「はい?……ああ、シイは問題ありませんよ? そんじょそこらの温室育ちとは違って、シイは野性で生きてる女ですからね!」
V、と突き出された指と誇らしげな笑顔。
家がないと聞いていたため野性の意味を理解するのは難くない。
それと同時に、まだ性差のない身体つきが、自分と同じ性別だと知った泉は、驚く反面でやっぱりと納得した。
正直、これだけ愛らしい顔立ちなのに、性別が男だと聞かされた日には、詐欺だと声を大にして言いたいところだった。
対するランは、げっそりとした面持ちで応える。
「俺は……問題ないよ。……じゃなきゃ逃げらんないし」
「……そう、ですか」
「モテモテですもんねぇ、ランのお兄ちゃん」
「……止めてくれ」
言ってシイが視線を投じたのは、影の中の女たち。
人間に似た姿ながら、ランを見つめる目が殺気立つようにギラついており、それだけで正体は人狼と知れた。
前に魅力がないと言われたからでは決してないが、人間である泉から見て、人間姿のランはそこまで注目を集められる容姿ではなかった。
やる気のなさを前面に押し出すくたびれた灰色の短髪に、逃げ道探しに余念のない卑屈な金の眼。顔だけ見て「いい人」と評されそうな優しい相貌だが、ゆえに冴えない。
そんな首から上に反して、引き締まった長身の身体には、血色の良い肌やバランスの取れた四肢が不随している。
パーツだけ見たなら不釣合いなはずの顔と身体は、くたびれた薄青の着物がなくとも、顔に喰われる形で非常に良い状態を保っていた。
すなわち、どっからどう見ても冴えない、というある意味非常に稀有な状態を。
はたと思い返しては、シイへ問う泉。
「ねえ、シイちゃん? どうしてシウォンさんはその……おっさん、なのに、ランさんはお兄ちゃんなの?」
おっさん呼ばわりに微かな抵抗を感じるのは、そのおっさんに迫られた挙句、危うい色気に当てられてしまったせいだろう。
加えて、そんなシウォンより、疲労の滲むランの方が若干老けて見えるせいもある。
だがシイは、何を当たり前なことを聞くのだろう、と不思議がる様子で首を傾げた。
「え……とぉ? 泉のお姉ちゃん、もしかして知らないのですか? 奇人街の齢の取り方」
「齢?……一年経ったら、ではないの?」
「う?……うー? あの、では、奇人街の時間の感覚については?」
「ええと、確か、慣れてない人は時間の流れを上手く感じ取れないって」
「はい、それですそれ。それを踏まえてですね、実は奇人街の時間って停滞しているのですよ。一日のサイクル程度なら身体は追いつけるのですが、長くなると実感が乏しくなってしまうのです。スエのおいちゃんが言うには、奇人街で齢を取るには精神的な自覚が必要という話でして――」
「ちょっと待って。よく分からないんだけど?」
とことんインチキ臭い白衣の学者の名が聞こえては、たとえ常時彼を見下す袴姿の美人さんが、その実力だけは認めていようとも、泉が理解するには程遠い。
「早い話が、俺とシウォンは同い年なんだけど、生きてる時間にだいぶ幅があるんだよ」
「……はあ…………不老不死とかそんな感じですか?」
助け舟と出された舟は泉の片腕だけを救いかけ、首を振っては乗船を拒否した。
「いや。不老じゃないし、不死でもない。ただ、齢を取るのに条件が必要なんだ。たとえばシウォンの場合だと、自主的に逃げたら一つ齢を取る、って」
「自主的に? でもそれじゃあ赤ちゃんの時は――もしかして細胞分裂とかですか?」
それで現在の姿なのかと問えば、冴えない顔を情けなく歪めて呆れるラン。
「君……俺らを何だと……。言っとくけどね、奇人街の住人のほとんどは、人間と同じ生殖で成り立ってるんだから。変な想像しないように」
「はあ、すみません」
「……まあいいけどさ。俺も説明足りなかったし。で、さっきの話に付け加えると、生まれてからある段階までは、君の常識通り、一年単位で一つ齢を取るんだ。ほら、子どもの時間と大人の時間って、流れる早さの感じ方が違うだろう?」
「スエのおいちゃんは、成長速度の度合いと言っていましたね。変化が目まぐるしい子どもというのは、一日一日が違う自分のように感じ取れますが、成長が緩やかになるに従って、日々の感じ方が単調になるそうです。なので、子どもは停滞する奇人街でも勝手に成長できますが、大人は条件を満たさなくてはなりません」
「ついでにもう一つ加えると、ある程度年齢を重ねた者は、自然と奇人街から去っていくんだ。厭きたって理由でね。この街の停滞はこの街特有のものだから、出れば子どもの頃みたいにちゃんと齢も取れるし。だからほら、基本的に老人っていないだろう?」
「……なるほど?」
いまいち理解できない部分は多いが、周辺ぐるりと見渡せばランの言う通り、齢を感じさせる皺を刻んだ姿は見えず――――
「あれ? でも、それじゃあラオさんは?」
浮かんだ老木の姿に首を傾げたなら、シイとランは「ラオって古木の?」とそれぞれ聞き、泉が肯定すると声を揃えて言った。
「「木だから」」
「…………はあ、そうですか」
それ以外に理由はない、とすっぱり切り捨てられた老体を思えば物悲しい。
「あの、この散策って目的地ありますか?」
「ないですよ? 奇人街は半端な増築じゃなければ路変わっちゃいますし、目印になるような店もありませんからね。もし、泉のお姉ちゃんが目的地――たとえば芥屋の場所を知りたいなら…………そうですね、屋根に登るしかないでしょうね」
「そう――じゃなくて、それならラオさんのところに行きたいのだけれど」
「ラオの爺さまのとこですか?……何故に?」
泉の提案に対し、今まで後ろ向きだろうが進めていた歩をぴたりと止めるシイ。
いぶかしむ眉根に皺を刻んだまま、
「泉のお姉ちゃん、ワーズの人が嫌いなのですか?」
「………………は?」
「むむむぅ? 泉のお姉ちゃんはいつもの人間さん方と違って、あの奇妙奇天烈なワーズの人を好いている節があるとシイは睨んでいたのですが……男女の仲を測るにはまだまだ修行が足りませんねぇ」
しみじみ、頬へ手を当てては、もの憂げなため息を吐き出す子ども。
好いている、は放っておくとしても、別段、ワーズを嫌った覚えはない。
――酷く、苦い思いはあっても。
今もソファの人間の目覚めを熱心に待っているだろう姿を簡単に描ける泉は、ぽんっと肩を叩かれて振り向いた。
「シイの台詞があまりにも足りないから付け加えるとね、ワーズはラオが嫌いなんだよ。そりゃもう、そこら辺の住人より酷いくらい、ものすごい嫌いよう」
ランから伝わるワーズの嫌悪感。
けれどその相手に二度も助けられた泉としては、逃げるように俯くしかない。
「で、でも、ラオさんと最初に合った時、ワーズさん、そこにいたんですよ? それに私、何度も助けて貰ってるからお礼言わなきゃって……けど、ワーズさんが嫌ってたら、ダメなのかしら? 芥屋に戻ってはいけないのかしら……」
まして、人間がもう一人芥屋にいる今、自分は居ても良いのだろうか?
いくらワーズが人間好きとはいえ、迷惑になるのでは?
個ではなく、一でしかない自分は――――
本当ハ、一デスラナイ私ガ居テハ――――
「そんなこと、ないんじゃない? アイツはラオが嫌いなだけなんだし」
否定にはっとして見たなら、ぎょっとしたランが顔を青くする。
「おいおい、大丈夫か? すごく顔色悪いよ?」
「え……?」
「わっ、本当です、泉のお姉ちゃん! お腹でも空きましたか?」
「へ? いや、そういうわけじゃ――」
言いかけた泉だが、その言葉を裏切るように腹の音が鳴り、恥ずかしがる暇もなく、更に盛大な音がランから聞こえては、昼食にしようという彼の案が優先された。
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