第4話 視線の先
指の間から伝わる低い温度の心地良さに、痺れを忘れてぼんやりしたなら、黒いマニキュアの生えた手が、泉の顔を過ぎり――。
甲から伝わる、ふわりと触れる感触。
「なっ!」
直後、覚醒し固まった泉を余所に、恐れを隠さず示す男へ、泉の左手ごと手を差し伸べるワーズ。
にやりと笑う口が、聴覚だけで感じ取れた。
「シウォンがね。珍しいことに謝罪したんだ。手紙で、だけど。でさ、受領するんだったらイイ物やるって。それってつまり、芥屋相手に取引したってことで、ボクは受け取った。一応ね、ボクは芥屋の店主だから、ボクの了承は芥屋の猫の了承でもあるんだ……だからボクは――猫は今回、シウォンを咎めない」
淡々と述べる冷たさは、切り刻む鋭さを孕んで、優男に後退と顔の青みを強要する。
泉は優男と同じ不穏を感じながらも、不安定な吐息が耳から伝わる度、逸る鼓動に眩暈を感じては身を黒コートに沈ませるのみ。
最後まで言わせてはいけない、止めなければいけないと思っているはずなのに、喉を通る声は寄せた身体の分、店主へ奪われたかのように発せられない。
語りにくすくす嗤いを込めて、背後の店主は優男へ告げた。
「でも、皺寄せはやっぱり、どこかで伸ばさないとね? その相手はほら、シウォンがくれたよ?」
「!」
最後は泉の耳へ、口づけするように囁き、それを合図として優男は一目散に街へ逃げ――
「猫はねぇ、泉嬢? 綺麗好きだから、芥屋が汚れるのはあんまし好きじゃないんだ」
「ほら」と低く響く声は、重ねた左手を優雅に踊らせるが如く、横へ攫った。
――――――――――!!
併せ、黄色く褪せた奇人街の陽に晒された優男の身体が、横合いから放たれた獣により、声も上げず攫われていく。
「猫…………」
決して泉を見ない、嬉々とした虎サイズの姿にぽつりと呟けば、両手の拘束が解かれて離れる温もり。
振り返る――――ことを許さず、再度、黒衣の腕が泉を絡め取る。
「ダメだよ。だってアレはボクのモノに手を出したんだ。そりゃあ猫だって怒るさ。アイツは気まぐれだけど、普段は温厚そのもの。滅多なことじゃ怒らないってのに。バカだねぇ。ボクのモノってことは、猫のモノでもあるのに。手を出すなんて……もしくはシウォンの言う通り、”勇敢”?」
クツクツ嗤う振動に合わせて、泉の視界も揺れた。
と同時に白い手が泉の目を覆う。
身動きできない闇の中、歪な声音だけが優しく耳朶を捉える。
「だから泉嬢、ダメだよ? 君だけの問題じゃないんだから。同情はとても人間的な感傷だけど、度が過ぎると危険を呼ぶ。特に奇人街ではなおさら……ね?」
「……ワーズさん」
両手で外した手はあっさりと離れ、真上を向いた泉の顔はただ驚きを示す。
「怒って――いたんですか? 私が傷つけられて……」
代わりでなければ探さないような私を傷つけられて?
「…………」
けれどワーズは笑ったまま答えない。
もしかすると、何か言いかけたのかもしれないが――
「よ、おはよう……って、え、何してんの?」
狼狽する情けない声を合図に、ワーズは泉を突き飛ばすように放して後。
「遅い、ラン」
「へ? ぃだっ!?」
来たばかりのランの顔へ、一段上の高さから足を乗っけた。
* * *
目の前でぴたっと止まった子どもは、淡い光のような短い髪をぺこりと礼の形で下げた。
「では、改めまして、シイ・ティピンです。今日は一日、宜しくお願いします!」
最後は額に揃えた指先を添えて敬礼。
呆気にとられる泉が慌ててその礼を追っかけた。
「あ、こちらこそよろしくお願いします。綾音泉です」
とはいえ、できるのは深々と頭を下げることくらい。
最中、泉は自分が子どものフルネームを知らなかったことに気づき、
「じゃ、行きましょうか……えと、泉のお姉ちゃん?」
「う、うん」
「お姉ちゃん」の前に名前を呼ばれては、周りから泉と聞いていたはずの子どもが、泉自身の紹介があるまで、彼女の名前を言わないよう気をつけていたのを知った。
そんな泉の視線を察したシイは、てへへと申し訳なさそうに笑って言う。
「シイがシイのことをシイって呼ぶの、実は名前で呼んで欲しいからなのですよ。だから泉のお姉ちゃんがシイを……シイちゃん、と呼んでくれるのはとても嬉しいのです。でも、中には自分の名前を嫌う人もいてですね? なのでシイは教えてくれるまで、その人の名前を呼ばないことにしているのです。例外はシウォンのおっさんですね」
「シウォンさん?」
「はい。最初におっさんとだけ言ったら、拳骨が飛んできたのです」
「それは…………」
当然だろうと彼の人狼に攫われた泉でも思う。
逆に拳骨だけで済まされたことの方が不思議だった。
相手は、自分に正直な人狼だというのに。
続けて言うべきことも見つからず、曖昧に笑んでいたなら、居間から届く声がある。
「シイ、無駄な話は止めろ。それと、もう一度言っておくけど、調子に乗るんじゃないよ? 本当はお前に任せるの、すんごい嫌なんだ。お前のせいで泉嬢が危険に曝されたんだから。けど、史歩嬢じゃ泉嬢ばっさりだし、クァンなんて論外だから、仕方なく――」
「ワーズさん……」
窘めるように呼べば、ソファ前の食卓の椅子に陣取りシイへ銃口を向けるワーズは、口を尖らせてソファと泉を見比べる。
「あーあ。本当ならボクが行きたいんだけど……彼、まだ目覚めてくれないしねぇ」
最後はうっとりソファへ視線を投じ、早く起きないかなぁ、とプレゼントを待つ子どものように混沌の目を輝かせた。
つられて視線をソファに投じれば、未だ目覚めない少年。
――泉と天秤に掛けられては、ワーズから優先された人間。
理解できない――したくもない、黒い不穏が胸に生じるのを嫌い、ため息混じりに外へ目を向けたなら、おどおどビクビク、店の外を伺う情けない着物姿がある。
「……ランさん、今日は一日、よろしくお願いします」
「あ、ああ。もちろんだけど……だ、大丈夫、だよなぁ?」
「…………」
注目されるのは望ましくないが、上の空でこちらを認めない目は、酷く泉を惨めな思いにさせる。
と、萎れる気持ちを元気づけるかのように、明るい髪の下、愛くるしい顔の中で、きらきら輝く夜色の目が泉の手を引いた。
「ささっ、行きましょう、泉のお姉ちゃん! たとえ性悪店主がいなくても、たとえランのお兄さんが頼りなくても、シイが必ず泉のお姉ちゃんを守りますから!」
「頼りないって……酷い」
小さな胸を張って叩くシイの言葉に、外を伺うばかりだったランが項垂れた。
それでもおずおず上げられた金の眼は、申し訳なさそうに泉を見る。
「まあ、シイの言う通りかもしれないけど。俺も出来る限り君を守るから、安心して……その、励んでよ」
「……ありがとうございます」
何に励むかなど、わざわざ聞き返して墓穴を掘る真似はしない。
狙われて危険かもしれない身を、それでも散策に導く理由は一つしかないのだ。
濁されたとはいえ、間接的な物言いを笑えたのは、ランの眼が泉をちゃんと映してくれたからだろう。
だから――――
「んじゃ、泉嬢、いってらっしゃい」
のほほんと背に掛けられた言葉に対して泉は言う。
「行ってきます」と。
その混沌の先にあるのが「人間」と知って、「私」はいらないだろうと背を向けたまま。
泉の”応え”を受けて満足そうに笑む、彼女だけを見つめる瞳も知らずに。
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