第3話 お詫びの品

 食事を終えた猫が、そっと彼女から離れたのには訳がある。


「あれ?……猫? どこに――」

「ごめんくださぁい」

「!」

 店側から聞こえる、軽薄な男の声。

 猫用の皿へ食後のデザートを乗せていた泉は、黒い姿を探す思考を停止させた。

 胃が冷えたような感覚に襲われて、階段裏の物陰へ隠れる最中、掠めた姿は人懐っこそうな優男。

「お姉ちゃん?」

 採取した猫の唾液を顕微鏡で覗く学者に飽いたシイが、泉の異変に気づいて近寄る。

 その間に、黒一色の店主は面倒臭そうな、嫌味ったらしい笑みを浮かべて店へ出ていった。

 芥屋の店と居間を仕切るすりガラスは、泉が閉めなければ開けっ放しの状態がほとんどで、なればこそ、優男と店主のやり取りが明確に聞こえて来る。

「あ、店主? なーんだ、従業員の方が良かったのに」

「おや、従業員に用があるのかい? はっ、お前みたいな薄汚い人狼なんぞにあの子を会わせるのは御免だね。用もないみたいだし、さっさと帰れ?」

 心底楽しそうなワーズの有無を言わせぬ言い草。

 けれど、優男は別段気にした様子もなく。

「ま、別にアンタでいいか。本当に用があるのは芥屋の店主だし。預かり物があんだよ」

「いらない。人狼臭いものなんか受け取らない。買うんじゃないなら帰れ。ここはお前らみたいな、店の意味も分からない屑が来ていい場所じゃないんだから」

「まーまーまー、落ち着けよ。俺だって来る気なんかなかったんだぜぇ? でもよぉ、虎狼公社の狼首に是が非でもと頼まれちゃ、無下には断れんだろぉ?」

「……シウォン?」

 どこをどう変換すれば、自分を攫った人狼の名前が出てくるのか。

 さっぱり分からない泉は怯えながらも、また耳にした虎狼公社という単語に眉を寄せ、ワーズが優男から何かを受け取った音を聞いては、益々顔を顰めた。

「お姉ちゃん、皺が根づいちゃいますよ?」

 シイの呑気な声は集中する泉に届かない。

 紙が擦れる音から、渡された物は手紙だと察した。

 しばらく、優男の煩わしい口笛が鳴り――――

「ふ~ん? 分かった。まあ、受け取ってやるよ、シウォン」

「おおっ! 話早くて助かるなぁ」

「…………お前、随分楽しそうだね? これから何があるのか知ってるのかい?」

「ああ、知ってるさ。寝つく暇もない一大スペクタクル! 今まで以上にやりたい放題できるんだ。腕一本千切れたくらいで、ぎゃーぎゃー泣き喚くバカ女が相手じゃねぇ。保障の下、どう扱ったって俺に従うヤツが二人も手に入るんだ。全く、堪らないねぇ。これもあの餓鬼様様だぜ」

 我を忘れた嗜虐的な優男の声に、泉の身体が大きく跳ねた。

 聞き覚えのある声だった。

 鋭利な爪ではなく、石という極めて原始的且つ幼稚な得物をわざわざ用い、泉を嬲り殺そうとした人狼。

 自分で直接手を出すのはダメだからと、他を用いて、理由を語り、せせら笑う、その声。

 全く同じモノが今、すぐそばで、似た声を上げて悦んでいる。

 仮初だろうが泉の居場所である、芥屋の店内で――。

「……お姉ちゃん」

 鳴りそうになる歯や引きつく喉を堪えるべく翳した手を、シイが心配そうに見つめる。

(そうだ……これから外に出なきゃいけないのに)

 ようやくシイに気づいた泉は、言われた通り積み上げたサンドイッチを、崩さず器用に意地汚く頬張る男から「ランが来たら即・出発だよ」と告げられていたのを思い出す。


 念のためだと彼は言った。

 本来、シウォンは、なびかない者を攫う面倒はしないらしい。

 だというのに、泉に限ってはそれが行われ、だからこそ、自由に動けるようになった今、そのことを察知される前に行う必要がある、と。

 変な話だと泉は思った。

 自由に動けるようになったというのは、まるで幾日も動けない日があったかのような言い草。眠っている間の記憶はないが、目覚めまでの感覚は、幽鬼から受けた傷で寝込んだ時よりも、普段の起床に近かった。

 これを疑問としてそのまま聞こうとした矢先。

 太ってるの気にならないなら行く必要もないけど、という言葉で、泉は散策の決行を決めたのだ。

 それなのに――――


「一大スペクタクル……ね。まあ、楽しんでおいでよ」

 どこかからかうような声に、泉ははっとして物陰から顔を覗かせた。

 見れば、優男へ背を向けて、こちらに近寄る黒い姿。

 これを追った優男の眼が自分に気づく前に、泉は物陰へ更に身を押しつける。

 どうか見つかりませんように、と。

 ――だが、叶わない。

「わ、ワーズの人、何を」

「邪魔」

「わきゃっ!?」

 ふらふら近寄る速度がいつもより速いためか、驚くシイを言葉と一緒に足で払うワーズ。

当たるすれすれで避けたシイは、そのままなおも顕微鏡を眺めるスエの足元へ。

「っ!? わ、ワーズさん!?」

 引っくり返った声が出たのは、物陰から乱暴に引っ張り出され、両手首を押さえつけられたまま、優男の前へ進まされた時。

 恐怖から、嫌だと背後のワーズへ訴えるべく身を捩じる。

 だが、それより先に、左手がワーズとの間で挟まれ、右手は泉の頭の横で拘束を受ける。

 首を振ろうにも、右手と同じ位置で硬質な感触が頭に突きつけられている状況。

 それがワーズの銃であると認識する間もなく、空いた黒いマニキュアの白い手が、下から掬い上げるように泉の顎を掴み、会わせないと言っていた優男へ向けさせる。

 起こっていることの意味が、何ひとつ分からない蒼白の目に涙が浮かべば、優男は感心したように頷いて笑った。

「へぇ? 人間が好きとは聞いてたから、もっと優しく扱うもんだとばかり……存外、俺と似たタイプなんだな、アンタ」

 瞬間、泉の頭が屈辱に真っ赤に染まる。

 この格好に対してではない。

 この、目の前にいる優男と、背後で泉に無理を強いる店主が似ている――その言葉に対して。

 身動き一つ取れない状況が作られても、泉が苛立たしく思うのは、店主ではなく優男の方。

 ワーズさんはあなたとは違う!

 できることなら、そのワーズに固定されて開けない口で、彼を擁護したかった。

 ……言ったところで、全然説得力はないと知りつつ。

「でも、こうして持ってきたってことは……くれんの、コレ」

 そんな泉の思いなぞ知る由もなく向けられる指。

 猫がスエへそうしたように、噛みつきたい衝動に駆られても、後ろでクツクツ笑い出す左手の持ち主が許さない。

「まさか。あげないよ。あげるわけないじゃないか。泉嬢はボクのモノなんだから」

 言って、泉の右手ごと下がった銃が、手の拘束を腕と泉の身体に任せて、泉の前を横切り脇腹に触れる。

「わ、ワーズさっ――ひゃぅっ!?」

 沸騰した怒りを別の熱に変える格好から名を呼べば、冷たい銃口のあった場所の真逆に、ひんやりとした肌、耳には柔らかな感触が、触れるか触れないかの距離で訪れる。

 くすりと背後が笑えば、熱くなる一方の耳に甘い風が触れた。

「やっ」

 止めてください!

 左手の拘束の痺れも忘れて抗議しようとした泉だが、同じく忘れかけた優男の顔が強張っていることに気づく。

 じりっと優男が一歩引き、震え始めた指を下ろして首を振った。

「そんな……まさか…………その声は、あの時の餓鬼?」

「ああ、やっぱりね。泉嬢の顔見てすぐ反応しなかったのは、殺そうとした相手が誰だったか、全然、気づいてなかったってことだねぇ?」

「じゅ、従業員……まさかお前……猫の」

「おっと。御免ねぇ、泉嬢。左手、痛かったでしょう」

 泉と目を合わせたまま下がり続ける優男を無視し、いつの間にか離れていたワーズの左手が、無理な姿勢に痺れた手を救出する。

 そのまま肘掛のように腕を合わせ、下向きの泉の手の平に重なる白い手が、指を絡ませて柔らかく握り締めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る