第23話 一撃

 前に一度、同じ場面で、同じ情景を見たことがある。

 圧倒的な力で、不快をもたらした存在たちが駆逐されていく様を。

 けれどあの時は、遊ぶような無邪気さであったのに対し、現在繰り広げられるのは、酷く面倒臭そう。


「……いい加減さぁ、止めようよ。俺、暴力ってあんまり好きじゃないんだけど」

「くっ、う、うるせぇ! んな面しといて、不気味なことぬかしてんじゃねぇ!」

 つい先ほどまで、己へ危害を加えていた男の言葉ながら、心の中で同意してしまう泉。

 痛みを堪え、のろのろ起き上がった彼女の近くに、男たちの姿はない。

 それもそのはず、彼らはあっと言う間に、路地裏を形成する壁に叩きつけられており、辛うじて無事だった一人が、これをもたらした人物を睨みつけているのみ。

 その人物――泉にとっては救世主と評しても良いくらいだが、いかんせん姿形が助かったという思いを粉砕してしまう。

「くそっ!」

 捻りのない悪態をつきながら、そんな相手へ攻撃の一手を繰り出そうとする男だったが、長く逞しい足に、自分からつっ込んだと錯覚してしまいそうなほど、自然に顔面を蹴られ、地を数度バウンドして止まった。

 ひくひく痙攣する指先から、他の男ら同様、死んでいないと分かるが、再起までにはだいぶ時間を要するだろう。

「ひっ!」

 短い悲鳴を上げたのは、三人が薙ぎ払われる様を茫然と見つめていた人狼。

 無謀に戦う意思も見せず、身を翻しては一目散に逃げてしまった。

 取り残された人物は、困惑したように黒い爪で張りつめた耳の裏辺りを掻いた。

「おいおい……仲間置いていく奴があるか? 知らないぞ。後でボコられても」

 心底呆れた物言いは、やがて息を深く吐き出すと、泉の方をくるり向く。

「君、大丈夫か?」

「ひっ……」

 情けなくも人狼と同じ声を上げて、伸べられた黒い爪から逃れようとする泉。

 痛みに引きつる身体を引きずって辿り着いたのは、行き止まりの壁。

 元より逃げる体力のない身では、先があったとて、進めはしないだろう。

 恐怖と共に、無我夢中で走っていた時には感じなかった、身体の疲労が重荷のように圧しかかる。

 そんな泉の様子を不思議そうに見つめる、猫に似た金の眼は、彼の獣より恐ろしい。

「あ、あなた、何でこ、ここに?」

 ようやく搾り出した疑問は、目の前の人物を最初に見た光景を脳裏に呼び起こさせた。


 人狼――それも、他に比べようもないくらい凶悪な相貌は、キフに抱きつかれる前に見た姿と変わらない。


 泉の怯えっぷりへ、暴力嫌いという自己主張を即座に却下したくなる血に餓えた顔は、更に困惑した様子で鼻面を掻く。

 それすら、この娘をどう嬲り殺そうか考えているように見えて、泉はこのまま気絶したくなった。

 後に待つのが死であったとしても、この人狼への恐怖は、そこら辺に転がっている男たちよりも増して強い。

 逃げ道がないのだ。

 三人に押さえつけられようとも、泉にはまだ、ささやかな打算があった。

 何かの拍子で、振り切ることのできる隙が生じるのではないかと。

 けれど、この人狼を前にしては、諦め以外何も浮かばない。

 どんな目に合わされたとて、結果、無残に殺されようとも、仕方がないと思ってしまうほどに。

 仕方がない。ぞくりと粟立つ思いは畏怖の念を泉に抱かせ、再度黒い爪が伸べられたなら、その鋭さを簡単に想像させるというのに、彼女の手を伸ばさせる。

 きっとこの爪は泉の指を、手を、触れただけでズタズタに引き裂いてしまう。

 幻惑の痛みに眉を顰めつつ、それでも手は救い――抗えぬ死を望むかのように、爪へと触れかけ……


「邪魔、ラン」

「ぐぅっ!?」


 どすっと鈍い音が響き、凶悪な面構えの人狼が脇腹を押さえて、地面をのたうちまわる。

 これを目で追っていた泉の手は、対象の爪を失って宙を彷徨うが、そっと冷ややかな感触に包み込まれた。

 姿は目にせずとも、声音と感触だけで、じんわり安堵が広がっていき――

「大丈夫、泉じょぶ!?」

「ワーズさん!」

 存在をもっと確かなモノとすべく、泉は頭から黒コートの腹へつっ込んだ。

 無様にも下敷きになった男は、縋りつく少女を宥めることもなく、激しい咳を何度も繰り返す。

 泉も泉で、そんなワーズを慮ることなくしがみついては、はたと気づく。

「ぐえっへ、い、泉嬢? な、何ていうか、その、大丈夫?」

 所々に苦しそうな咳を挟んだ問い。

 しかし、泉は顔を上げず、ただ一言。

「……御免なさい」

「んっ? な、なんで謝るのさっ? シウォンに攫われたのはっ、べ、別に泉嬢のせいじゃないでしょっ? それに、奴に連れ去られる原因作ったのっけほ、ぼ、ボクみたいなもんだし。ほら、植木鉢とか、さっ?」

 咳混じりの不快を呼び起こすような宥めだが、それでも泉は顔を上げず、

「……それは……もういいんです。ワーズさんだし」

「…………そう」

 頭上から降りた声は、不可思議な音色を含んでいたが、今の泉にとって肝心な事柄は別にある。

「じゃ、じゃあ、腹への一撃? 確かに効いたけど」

 尋ねた後に「ぐふっ」とおかしな咳が聞こえては、顔を上げかける泉だが、慌てて腹に埋めると謝罪を口にする。

「う……すみません。でも、御免なさいはそれじゃなくて」

 言いかければしゅるりと解かれる髪の拘束。

 間違いなくワーズと知れる無遠慮な仕草と解放に軽くなった頭へ、泉は緩みかけた気を持ち直して、言った。

「……ええと……コートに……は、鼻水が…………」

 耳まで真っ赤にした告白は、決して顔を上げないままに。

 対象のコートの男は、気の抜けたような息を吐いて、器用にそれを脱ぎ始める。

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