第10話 佳人
朝の凪海を前にして、炎を纏う鬼火が一人。
芥屋ご近所さんのパブ経営者、クァン・シウだ。
艶やかな唇をひと舐め、空色の瞳を鮮やかに輝かせるクァンは、穏やかな海面を忙しなく撫でていく。
「さあ来い、グズ共。今日も燃やしてやるわ……」
野暮ったいジャケットの下では、薄いドレスに包まれた豊かな肢体がちらつくものの、ヒールの低い白靴で、砂が舞うのも厭わずリズムを刻み続ける様は、纏う炎がなくとも近寄りがたい気迫を放つ。
今日は酷く夢見が悪かったクァン。
うさばらしに一因である魚を燃やしに来たのだが、待てど暮らせど出てくる様子はない。
だが、来ないはずはないのだ。
今までだって、夢見の悪い日には必ず、目的の魚は姿を見せたのだから。
いっそ海ごと燃やせたら――
そんな魅力的な発想に、ついついクァンの唇が剣呑に綻ぶ。
(来い、来い、来い、来い!)
ゆっくり腰を落とし、指を波のように動かして獲物を手招く。
すると、その耳に音色が届いた。
(来た!!!)
勢い任せにぐるりと鬼の形相を向ければ、今まで誰もいなかったはずの砂浜に、見知らぬ少女が海へ向かい、初めて聞く歌を口ずさむ姿がある。
(見たところ、人間のようだが……)
一瞬魚が化けたのではないか、と疑うが、それにしては様子がおかしい。
クァンの知る憎き魚は、目的を決めたら脇目も振らず一直線に進むのが常。こんな風に立ち止まり、歌を奏でる優雅さはない。
しばし考え、少女が見つめる海を振り返った。
近くでは波が泡立ち、遠くでは地よりも平らな海面が広がるばかり。
どこにも、探し求める魚の姿はない。
苦々しい溜息を一つ吐き、少女に近寄る。
危険な炎は消し、額の小さな角を見せ付けるように、足元まで伸びた長い白髪を掻きあげ、いつもの気だるい調子で尋ねた。
「ねえ、アンタ、どうしたんだい?」
「……連れとはぐれてしまったの」
歌を止めてはぼんやりと、海から目を逸らさず応える少女。
茫然自失。そう表すのが妥当か。
近づいたことで分かった、少女の手に巻かれた包帯が痛々しい。
こんな状態でこのまま置いていけば、間違いなく良からぬ輩にかどわかされてしまうだろう。長い黒髪と黒い瞳を持つ少女の容姿は、想像に拍車をかけるほど美しい。
儚げな少女に保護欲をかきたてられる一方で、クァンは、ふむ、と胸内で試算。
「ね、ここにいたって連れは見つからないだろうからさ、うちに来て探さないかい? アンタの歌、使えると思うわよ?」
(あの子には劣るとしても、ね)
浮かんだ褐色の髪の少女に現を抜かせば、目の前の少女がのろのろとこちらを向く。
同族とは違う容姿に怯える余裕もないのか、変化の乏しい声音で、
「見つかるかしら?」
「ああ、見つかるさ」
(根拠は全くないがね)
それは決して口に出さず、クァンは少女に微笑みかけると、手を差し伸べる。
* * *
芥屋店側でガラス戸を背に、縛るのを止めた褐色の髪を避けつつ、お手本のようなクセのない書体と睨めっこするのは、鳳凰の刺繍が施された白い衣服の泉。
眉間に皺を寄せ、しばし考え込んでは、
「さっぱり分からないわ」
熱くなった頭を冷やすように、深々とため息をついた。
泉が手にしているのは、ワーズに書いて貰った、芥屋の主だった食材の料金表。規則正しく三列に分けられた内容は、左が品名、中央が分類、右には値段が書いてある――とワーズから説明を受けていた。
とはいえ、値段は泉の知る数字であるものの、その他に用いられているのは、奇人街で一般的に使われている、漢字が変形したような文字。一応、文字の意味するところは大差ないようだが、なまじ似ている分、読み取るのに時間が掛かってしまう。この紙一枚だけでも、覚えるには根気と慣れが必要だった。
(……よし、もう一回)
再び料金表へ意識を集中させる泉。
いつもの芥屋であれば、こんなにも努力を見せる人間には、店主からの助言――という名の横槍が惜しみなく入るところなのだが、店にいるのは泉だけ。ワーズの黒い姿は、彼女が背にする磨りガラスの向こうにある。
それもこれも、昨日、凪海で保護した少年を介抱しているためだ。
未だ目を覚まさない少年だが、幸いにしてコレという外傷はなかった。だというのに、一夜明けても何故目覚めないのかと言えば、ワーズ曰く、身体がこの世界に馴染んでいないから、らしい。
理解しかねる話だが、その後の少年の待遇を見てしまった泉としては、正直、すぐに目覚めなくて良かったという感想しかない。行きと違い、凪海からすんなりと芥屋二階に通じた物置の扉。これを訝しむ間も与えられず、冷えているからと少年に対してワーズが次々講じた策は、己の身に起きなくて良かったと思うものばかり。
今もって磨りガラス向こうのソファの上に、何枚もの布団でぐるぐる巻きにされ、うなされている少年に、泉は心の中でそっと手を合わせていたものだ。
――もちろん、自分が芥屋で目覚める前のことについては、しっかり目を逸らしつつ。
そんな心情も手伝って、余計なことは考えまいと必死に文字を追っていれば、前触れもなく、料金表が引っ張り上げられた。
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