第9話 流れ着いた王子様
ザパッ……
遠い沖のはずなのに近く聞こえた、海を裂く音。併せて、巨大な魚が船の真上まで飛び跳ねる。指を下ろすことも忘れて凝視していれば、宙の魚はカパリと口を開き、船を丸呑みにしながら海面に消えていった。
薄っすらと聞こえた悲鳴に、泉は目の前で起こった出来事が信じられず、ワーズに無言の訴えを起こす。
「あーあ。食べられちゃったね。ここの魚は美味だけど、大抵巨大なんだよ。だから気をつけないと自分がご飯になるんだ」
あっけないね、と笑うワーズに、泉は視線をもう一度、鎮まった沖へ戻した。
奇人街に来てから、血溜りの死が身近になってしまったとはいえ、慣れるものではない。
例えそれが、夢と見紛うような一瞬の出来事であっても。
加え、
「…………あ、あの、ワーズさん?」
「ん?」
「前に、従業員は店番の他に、食料調達もするって言ってましたよね。じゃあ、いつかはあんなのも取りに出かけなきゃいけないんですか?」
店番は何度かやっているものの、紙幣価値が未だ覚束ない身では、職も何もあったものではない。もう一つの仕事だという、食料調達くらいは頑張ろうか、などと少しは殊勝な心がけをしていたのだが。
確実に調達される側になるのでは?
浮かんだ己の末路に青褪めたなら、ワーズが右手に持つ銃でこめかみを掻く。
「そうだねぇ……芥屋には結構勝手に物が入ってくるから、そうそうないんだけど。ほら、なんだか突然無性にアレが食べたい! って時、あるでしょ? そういう時に芥屋になかったら取りに行く、かな」
「つまり、ないとは言い切れない……」
「全くないってことはないけど、でも大丈夫。ここの調達は臨時従業員使うから」
「臨時……?」
眉を寄せる泉に対し、ワーズは初めて見る、酷薄な笑みを浮かべた。
「そう、奇人街の住人を二、三人、うまい具合にちょろまかしてね。多い時なら十人くらい、かな? これなら従業員は安全でしょう?」
同意を求められても返答などできはしまい。
クツクツ嗤う様から逃げるように波打ち際まで近づき、ワーズから距離を置く。何を思い出しているのか、身体まで折る姿に背筋が寒くなった。
と、靴底に波の感触。
まさかあの巨大な魚がこんな浅瀬にまで来るはずもないが、何事もないと言い切れないのが、泉にとっての奇人街。今し方の惨劇に恐れをなして、海水から一歩退く。
と、その直前、波が足元の砂を攫い、僅かだが体勢が不安定になった。立て直すため、もう一歩後退する泉。
その足に、しゅるり、何かが巻きついた。
「――――!?」
何、と確かめる暇もなく、巻きつかれた足が強い力で海へと引っ張られた。
砂に投げ出される身体、耳朶を打つ激しい水音。
「泉嬢!?」
異変に気づいたワーズが駆け寄り、すぐさま引き上げられるが、足にはまだ何かが巻きついたまま。ワーズにしがみつきながら足元へ目を向ければ、紙のように薄っぺらい手が見えた。それだけでも気味の悪いものなのだが、おののく瞳は、その源であるソレを捉える。
歪む水面の中で、にたりと笑う顔。
美麗ではあるが、故におぞましい女の姿。
ぱんっ
乾いた銃声が鳴り響く。
逸らせぬ泉の視界の中でソレは笑みを濃くするが、足から手を離すと海へ消えていった。
けたけた笑う鮮明な声が、海水にくぐもることなく、泉の耳に届く。
その、ぞっとする冷たさ。
張りつく服の不快さなど忘れ、恐怖から必死に身を寄せれば、抱き取るワーズが忌々しげに吐き捨てた。
「
「メイリゥニ……」
震えて呟けば、説明より案じがもたらされる。
「泉嬢、戻ろうか。いくらなんでもこのままじゃ、風邪引いちゃうよ」
コートに包まれ、ぽっかり開いたままの空間へ戻ろうと促される。
ショックから喋る気力もない泉は、肩を抱く腕に頷くと、震える足で歩き始めた。
だが、視界の端に映るモノを認識したなら、更なる動揺からワーズの胸元をぐっと握りしめた。
突然の行動に面食らった様子のワーズだが、泉の視線の先を追うなり、頷いた。
先程まではいなかった、波打ち際に倒れる人影。
「……泉嬢、一人で歩けそう?」
問われ、支えられていることに思い至った泉。両足で砂を踏みしめると小さく頷いてみせた。これを受けたワーズが、波打ち際で倒れる人影の元へ、ふらふら走り寄っていく。そうして、しばらく何事か調べるような動きをして後、その人物を抱き上げては、こちらへ戻ってくる。
(…………あれ?)
最中、泉はワーズが抱える少年に、見覚えがあることに気づく。
濡れた赤髪が張りつく顔色は精彩に欠けてはいるが。
「…………この人……」
「紛うことなき人間だよ。かなり冷えてるけど、辛うじて生きてるみたいだ。急いで芥屋に帰ろうか」
うわつく様子で空間へ戻ろうとする背を茫然としつつも追う。
どことなく嬉しそうな様を不謹慎だと思う一方で、記憶を探れば出てきた少年の名は、泉とは縁遠い世界の人間。ただし、今の彼は眉目秀麗は変わらずとも、泉が知る姿より背が高く、大人びた印象がある。
驚きから、呟きが勝手に漏れた。
「どうして芸能人がこんなところに?」
別段、彼のファンではないが、それでも遠い世界でしか接したことのない相手に、泉はただただ黒い背から覗く頭を見つめた。
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