第8話 凪海
しばらく歩き、不気味な色合いにも多少慣れてきた頃。
「ワーズさん、ここって何なんですか?」
赤黒い空間を眺めていた泉は、所々で妙なモノが浮かんでいるのに気づいた。
見覚えのある雑誌やどこかの国の衣装、マンホールまで点在している。
「物置だよ。ほら、前に言ったでしょ? 奇人街のもう一つの通路。まあ、ここは他と違って、色んなところから物を失敬してくる、貪欲な空間なんだけど」
「失敬って……生きてるんですか?」
恐ろしさにワーズの腕を更に締めれば、あっさり否定される。
「まさか。泉嬢って時々面白いこと言うよね」
赤い口に笑いかけられ、バツの悪さにそっぽを向く。
そんな泉の様子も気にせず、ぴたりとワーズが止まった。
「ああ、泉嬢、ここだよ」
押し戸を開ける要領で、黒いマニキュアの白い手が前へ伸びる。伴い、扉ほどの大きさの四角い光が赤黒い中に現れた。
躊躇なくその先を行くワーズに及び腰で続けば、耳に届く潮騒の音。
踏みしめた大地は不安定な白い砂浜。
昼を過ぎた頭上の陽は、青いフィルターを通して見たような鈍い白。
見渡せば、真夏の陽に慣れた眼で暗い屋内に入った時のような、眩む色で構成された海辺が広がっている。
奇人街の黄色く褪せた空と陽に慣れてしまった目には、とても新鮮な光景だった。
惚けたままワーズを見た泉。未だ彼の腕にしがみついていたと気づき、慌てて離れる。
そんな動揺など、やはり気にも止めないワーズは、へらへら笑いながら「ほら」と指を差した。
「沖に波がないでしょ? だから凪海って名付けられたんだけど、街の住人はこれ以外知らないから、海とだけ呼ぶね」
説明を耳に、指の先へ視線を投じれば、確かに沖はどこまでも凪いでおり、磨かれた鏡のように陽を反射していた。浜辺では寄せて返す波があるのに、不自然なほど平らな海。
ふと思いついて問う。
「湖……とは違うんですよね?」
「んー、たぶん? 上空から見ても、海沿いを歩いても、陸が囲っている訳じゃないって話だから。でも、舐めても塩辛くないし、泉嬢の知っている海とは色々違うだろうね。奇人街の生活用水も、ここから引っ張ってるんだよ」
歩こうか、そう言ってワーズが先を譲る。
凪海に意識を向けていた泉は、生返事をしつつ、砂に足を取られながら歩き始めた。
右手に凪海、砂浜を挟んで、左手には小高い崖。砂浜と繋がる路はなく、崖上には木が密集して生えている。あの先には森が続いているのか、それとも防風林の一種なのか。
とはいえ、海岸に吹く風は防ぐ必要がないほど穏やかで、柔らかくそよぐ程度。匂いらしい匂いもない、しっとりとした空気は、奇人街のものとは異なり、どこまでも澄み切っている。
輪郭がぼやける薄青の景色は見慣れないものの、開けた空と広い海は、ほとんどの時間を室内で過ごしてきた泉に、これ以上ない解放感を抱かせた。
自然と楽しい気持ちになり、唄が唇から零れ――途端、髪を解かれた。
「また!? ワーズさん、いい加減にしてください! どうして解くんですか!?」
理由は分からないが、度々行われる悪戯。クセ毛ゆえの広がりを楽しむていに苛立ち、振り返った泉が睨む。これを受けるワーズは、紐をひらひらなびかせ、
「ん? ほら、ふらふら揺れてる髪とか見ると、つい引っ張りたくならない? でもそれやると、泉嬢の首、ぽろっと落ちちゃいそうでしょう?」
訳の分からない理屈を並べ、赤い口が笑う。
自分こそふらふらしてるくせに!
抗議込みでそんな声を上げようとすれば、風に遊ぶ褐色の髪を一掬い。
「それに、こんなふわふわしている髪、無理に縛っちゃもったいないじゃない?」
枝に引っかかったり変な髪と指差されたり、良い思い出のないクセ毛をそう評され、怒り以外の感情に泉の顔がみるみる赤くなる。
黒いマニキュアの白い手から、するりと髪が落ちてもなお、柔らかいだのしっとりしてるだの、紡がれる褒め言葉。他意はないと分かっていても、思いつくままに吐かれる嬉しそうな声に、どうしたって動きはぎこちなくなる。
恥ずかしさから視線を沖へ逸らしたなら、丁度良い具合に一艘の船を捉えた。
「ワーズさん、あの船は」
意識を逸らすつもりで指を差す。と、タイミングよく船が揺らいだ。
転覆しそうな傾きに驚いたのも束の間、泉は更に恐ろしい光景を目撃してしまう。
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