第7話 海の訪い

 視界がぼやけて巡る。

 荒々しい振動に何がどうなっているのか察しはつくが、出来れば逃避したい現実に、これは全て夢なのだと思いたかった。

「一緒よ……ずっと。次はずっと、一緒。離れたりなんか……絶対、しないわ」

 喘ぐように、熱に浮かされたように、ハンドルを握る少女が呟く。

 呪文めいたそれは、無免許の身で運転を開始してから、繰り返し繰り返し続いていた。

 こちらも負けじと縺れる舌を回した。

「止……めろ……死に……たく、ない」

 ようやく紡ぎ出した言は、しかし、スピードを緩めるどころか更に上げ、街灯のほとんどない暗い山道の視界を狭めていく。ライトで照らされた灰色の道は右へ左へ曲がりくねり、一体どこを目指しているのか、ゴールを定めていない車体が乱暴に揺さぶられる。

 出来うることなら抵抗したい。だが、薬でも盛られたのか、ままならない身体では、食い込むシートベルトをずらすことも難しい。朦朧とした意識の中でも色濃い恐怖が、痛みを感じている暇も与えてくれない。

 対向車が来ようものなら、間違いなく、そこで終わる。

 霞む先で見たくもないメーターを見やれば、法定速度とはなんぞやと問いかけてくるほど、馬鹿げた数値を示していた。

 と、不意に前方が開け、まるで空へ続くかのように続く一直線が視界に入る。ご丁寧に、それまでの暗さを忘れたていで、左右に等間隔で点く街灯。おかげで、ちらりとまた勝手に動いた目が、ベタ踏みされたアクセルを視認してしまう。

 青褪める間も背筋が凍る間もなく、くすりと漏れた笑みにのろのろ隣を見た。

 ハンドルは握りしめたまま、前を見るのを止めた少女が極上の笑顔で迎えてくる。

「ねえ、次はずっと、一緒にいようね」

 息を呑むほど美しい微笑み。

 けれど滲む影は、途方もなく暗く、少女が決して正気でないことを知らしめる。

 完全に惚けてしまう前に再度、訴えた。

「…………止めろ……死にたくない……!!」

 言い切れば、一瞬、虚を衝かれ、泣き顔。そして、また笑い、無邪気に近づく。

 足はそのままに、ハンドルから離された手が両頬を包み込んできた。

 唇に柔らかい感触と伝う塩気。

 受容も拒絶も何一つ、己の意思では行えない。

 狂気に晒されても億劫な身体では抗えず、せめてもの足掻きに交わした視線を横へずらせば、車の前方にガードレール。

 衝撃に柔らかな感触は離れ、浮き上がる感覚が襲い、視界が下を向く。

 待ち構える夜の海は、月を反射しながらも闇色の口を開け――意識ごと、彼を呑み込んだ。


* * *


 幼虫騒動から幾日か過ぎ去り――


 一階、階段を背にするソファで茶を啜る泉は、居心地の悪さから視線を落とした。見つめるのは、緩く結んだ髪が流れるラヴェンダー色の服の、主に腹部付近。見た目は特に変わらないが、彼女自身はしっかりとその変化を感じ取っていた。

(……少し、キツくなった?)

 おもむろに摘まめば、掴める布の量が減っている気がする。

 いや、このままでは確実に、気だけでは済まない未来が待っている。

 若干だろうとも、崩れつつある体型を思い、やるせない気持ちを味わう泉。

 その左足が、前触れもなくぎゅっと掴まれた。

「!」

 思わず「痛い」と言いかけた声を呑み込み、飲み終えたカップを肘掛けに置いてから、引きつる頬で名前を呼ぶ。

「わ、ワーズさん?」

 困惑たっぷりのそれ。けれどワーズは我関せず、その後も泉の左足を握ってきた。繰り返されること数回、泉の前でしゃがんだまま、へらりと笑う赤い口と白い顔が上がった。

「怪我はもう大丈夫そうだね」

「お、お陰様で……」

 怪我の完治に喜ぶ黒一色の男とは裏腹に、怪我人であった泉はそっとため息をついた。

 早く治るから、と本来なら断固拒否する、ワーズの手料理が一日三食以上出され、全て完食せねばならない状況がほぼ毎日。起き上がれるほど回復しても、顔を少し顰めただけで部屋に戻されること数十回。もう大丈夫です、と少しの痛みに耐えれば、患部を容赦なく握られること十数回。

 走馬灯のように思い返される、献身的というより、嫌味なほど過保護に接せられた日々。

 もし左足を掴まれた時点で「痛い」と言おうものなら、またしばらくは軟禁状態の生活を強いられていたに違いない。

 厳しく苦しい試練をようやく乗り越えた気分を味わう。

 と、ワーズがまだこちらを見ていることに気づいた。

 怪我人扱いから解放されたと思っていた泉は、まだ駄目なのかと伺うように声を掛けた。

「ええと……?」

「泉嬢、少し太った?」

 握られた左足以上に前触れもなく、ぐっさりと刺さった言葉。

 今し方自覚し、落ち込んでいたというのに、あんまりではないか。

 しかも一因には、過保護なワーズも含まれるだろうに。

 絶句しつつも泣きたい顔で睨みつけたなら、大して効き目があるわけもなく、どろりと濁る混沌の瞳を細めてワーズが笑った。

「新鮮な空気でも吸いに行かない?」

「…………奇人街の日中は、空気悪いですよ?」

 口を尖らせ、街の短所を挙げて不機嫌に対応すれば、立ち上がり様に黒いマニキュアの白い手が差し伸べられた。

「もちろん、奇人街じゃないさ。行くのは凪海なぎうみだよ」

「なぎうみ?」

 手を取れば立たされ、白い靴を渡される。

「そう。まあ、行けば分かるから」

「え、でもワーズさん、お店は……」

「平気、平気。猫のいる芥屋相手に盗みに入る奴はいないから。皆、命は惜しいもんね」

 笑いながら言うには物騒な話である。

 非難するように見つめる泉だが、気づかないていのワーズは自身も黒い靴を手にすると、そのまま階段を上がり始めた。てっきり店の出入り口から出て行くと思っていた泉は、慌てて付いて行きながら、

「……外に出るんじゃなかったんですか?」

「出るよ? 凪海は外にあるからね」

 では何故二階へ?

 不可解に眉を寄せつつ、ワーズに続く。

 登りきった黒い背中が左に折れ、水回りを通り越し、立ち止まったのはその隣の部屋。未だ開かれた場面を見たことがないその扉は、泉の部屋と変わらない造りをしているが、ここが外と通じているとでも言うのか。

 記憶にある限り、芥屋外観の二階部分には、大きく「芥屋」と書かれた看板があるだけで、そんな扉はなかったはず。……まあ、そう記憶した時の状況を思えば、絶対に正しいとは言い切れないが。

 泉が首を傾げている内にワーズが扉を開ける。何があるのか覗き込む間もなく、その場に腰を下ろしたワーズが両足を部屋へ入れた。

 それはそれは、おかしな光景だった。

 部屋にあるはずの足は膝から下がドア枠の、更に下へと消えており、ワーズの格好も相まって、椅子にでも腰掛けているようだ。

 床が抜けているのか。そうだとして、何故その場に座るのか。外に行くという話はどうなったのか。

 泉が尽きない疑問から呆気に取られていれば、持ってきた靴を履いたワーズが、「よし」と一声、滑るように部屋の中へ――落ちていった。

「わ、ワーズさん!?」

 突然掻き消えた黒い背を追い、部屋を覗く。迎えたのは、ワーズの眼によく似た、黒とも赤とも付かない不鮮明な空間。部屋にない広がりを感じさせる色合いは、泉の不安を掻き立て肌を粟立たせてくる。

 すると、そんな泉を呼ぶ声が下方から届いた。

 知った声音にそちらを見たなら、真下より少し離れた位置に白い面があった。

 認識した途端、先程より鮮明な声が届く。

「下りておいで、泉嬢」

 ひらひら銃と手を振るワーズの無事な姿にほっとしつつも、あまりの高さに逡巡。

 それでもワーズに倣い、その場に座って靴を履き、もう一度部屋の下を覗き込んだ。

「た、高い――!」

「平気平気」

 不気味な空間の宙に揺れる両足の向こうで、赤い口が笑っている。

 行くしかない、とは思うものの、二階以上の高さに竦んでしまう背中。

 これを温かいモノが撫でた。

 緊張していた分、過剰に身体が跳ねてしまう。

 一体何が、と肩越しに振り向けば猫がいた。

 住人が恐れる幽鬼を遊び半分で狩る、凶暴さは折り紙つきの猫だが、泉にとってはいつも助けてくれる頼もしい存在だ。自然と安堵の息が漏れる――が。

「わわっ!?」

 次の瞬間、泉の背中が猫の頭に押された。小さい姿でも力強いソレは、ギリギリの位置で座っていたせいもあり、簡単に泉の身体を宙へと放る。

 思ってもみなかった無体な仕打ち。

 一体自分は猫に何をしてしまったのだろうか。

 過ぎったのは、幽鬼から子どもを一人助けるために掴み投げた尻尾の、あやふやな感触。

 あれからも幾度となく、泉の前に現われてはいたが、

「やっぱり、恨んでるのかしら?」

「恨んでないさ。ただ、手助けしたかったんだよ。泉嬢は猫のお気に入りだからねぇ」

 宙に投げた声は、軽い衝撃に受け止められた。

 支えられながら、地面と思しき感触を足に受ける。

「んじゃ、行こうか。はぐれないように、ね?」

 へらっと笑う顔が前を行こうとするのに慌て、その腕にしがみつけば、ワーズが不思議そうな顔をした。

「そんなに怖がらなくても、凪海すぐだし、平気だよ?」

「へ、平気って無茶です。それに…………何かあったらワーズさん盾にしますから!」

 体重を指摘されたことを思い出して、高慢ちきに言ってやれば、

「ああ、なるほど。それはとても良い案だね?」

 心底楽しそうに微笑まれ、酷い罪悪感に苛まれてしまった。

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