終章 和解、そして
文化祭は盛況の中に進んでいた。普段より落着きのない子供たち、正装に身を包んだ聡たち教員。そして、子供たちの成長を噛み締めて笑みを浮かべる保護者たち。校内が浮足立っていた。
午前の部も前半が終わり、読書感想文の発表が始まった。ひとり、またひとりと発表をしてゆく中で凛子の出番が来た。
倫子は環境汚染に関する課題図書を選んでいた。これまで人類は、進歩と称して勝手をした。地球温暖化・森林伐採・乱獲による鳥獣の絶滅、そして原発事故……。そんな、母なる星を脅かす問題を集めた本。彼女は、それを自身に重ねて訴えた。
人類に警鐘を鳴らしたところで、鐘の音が届く範囲は限られている。共振する者となれば、尚更少ない。けれどその持続可能性を求めて人類は星を継ぐ後世に想いを託す。親から子へ、子から孫へと継ぐ地球への慈しみに関する本について、倫子は同意と共に、ささやかな祈りを告げる。大人は確かに勝手だ。けれど、私たち子供もいずれ、大人になる。そうして、きっと、星を汚すのだ。でも、私たちは大人の勝手を見て来たから、きっと少しだけ、優しくなりたい。だから大人は、そんな私たちの想いを汲んで、警鐘に耳を傾けて欲しい、と。私たちに大人を、自分自身を信じさせて欲しい。これは、倫子と愛生の関係そのものだった。娘は発表中、一心に母親を見つめていた。職員席から愛生の表情を窺うことはできなかったが、遠目に映る愛生の肩は時折震えて見えた。
午後になり、合唱に移った。一組一組、稚気溢れる歌声を披露してゆく。その歌声が聡の奥底にささくれのような小さな痛みを萌した。その痛みが最も激しくなったときは、一学年下のクラスのときだった。そのクラスは四年生にしては足並みが揃い、高く幼い声は体育館を七色に揚々と照らした。
やはり、末田は良い教師だったのだ。彼には教師になる動機があり、子供たちに対する態度には愛が伴っていた。汚名を負って消えた今でも、それは変わらない。この合唱は別離の歌だった。その歌は単身者用アパートで眠る末田までは届かず、パイプ椅子に何度も腰を浮かす聡の下腹をちくり刺すだけだが、生徒たちからの挨拶であることに変わりはない。この先、復職することはないだろうが、末田はきっと子供と触れ合って生きてゆくのだろう。
すべての行事が終わり肩の力がすっかり抜けた後、教壇の上で学級日誌やノートの類をまとめながら教室内を見渡せば、至る所で親子が睦み合っている。大人たちは久しぶりに再会した同級生の子を持つ親同士で歓談に耽る。子供たちは無邪気に笑い母親のスカートの裾を引きながら、クラスメイトと話している。みな、そわそわしていた。早く学校を出て、遊びに行きたいという風に。聡は職員室に戻ることにして教室を出た。
廊下に、愛生と倫子がいた。愛生は屈んで倫子に目線を合わせて会話をしていた。始めて見る表情だった。これまで、親子ふたりで過ごすときにはいつもこんな表情をしていたのか、それとも……。考えたところで、聡には想像することしかできない。愛生が聡に気付いた。上目遣いに聡を眺め、やがて、笑った。その表情に妖しい影はない。彼女の含みのある笑みに充てられ、聡は幾度も勃起させられた。しかし、今日はぴくりとも反応しない。このとき初めて、愛生と心が通じ合った気がした。ああ、そうか。終わったんだ、この女とは。そう思い、親子の隣を過ぎて行った。
職員室に向かう途中で角を折れ、生徒用の下駄箱を抜けて外に出た。外は明るく、青空が広がっていた。校庭では生徒たちがサッカーをしている。
「あら、先生。いつも息子がお世話になっております」
振り向くと、門倉真澄を中心に据えて中年の夫婦が立っていた。挨拶ついでに学園での門倉の様子を訊ねられて適当に応えていると、門倉がサッカーに混ざるため校庭へと駆けて行った。大人たちだけが残される。ふと、門倉の読書感想文のことを思い出した。
「あの、実は……」
と顛末を話す。この話を人にするのは何度目か、自分でも驚くほど流暢に話すことができた。しかし、両親の神妙な顔つきは最後まで崩れなかった。
「それはご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。けれど、それは悪戯だと思いますよ」
母親がそう答える。どうやら、学校と家とで、門倉の性格は違うらしい。
「あの子ネットが好きなんです。多分それで、どこからか引っ張って来たんですよ」と笑いながら言う。「そもそも、私たちどちらの家系も、祖父に兄弟はおりません」
そう言い、夫婦は去って行った。釈然としない想いだった。本当に只の悪戯だったのか、それにしてはあの日の門倉の態度は真に入っていた。狐につままれたような気分じゃないか。夫婦はサッカーに混ざったばかりの我が子を呼びよせ、少年は渋々ふたりの中央に収まり、校門へと向かう。
幸福な後ろ姿だった。かつて聡も、あの中央にいたことがあった。しかし、その空間は父が死に母と疎遠になって、今や青年期から離れようとしているかつての少年が収まるには、小さすぎるスペースであった。
ふと、沙耶の顔が頭に浮かんだ。今日は彼女が帰って来る日である。携帯端末を開いてみると、メッセージが届いていた。今、校門のところにいる、という内容だった。
目を凝らして遠くを見る。確かに、ひとりで校門に立つ女性がいる。沙耶だ。遠目でも判別できる。彼女がこうして学校に来るのは初めてのこと。わざわざ勤務先まで何をしにと訝しみながらも駆け寄ってゆくと、多くの親子が沙耶と行き交う中で、或る一組が、飯島親子がまさにすれ違うときだった。女たちの視線がかち合ったとき、親子は立ち止る。まだ遠い聡には女たちの表情は窺えない。やがて、愛人がしんなりと礼をする。正妻はそれをじっと睨む。父なし子は憎むように敵の女を見上げる。そして、破裂音が響いた。愛人は頬を抑えて立ち止まったが、その唇から血が一筋滴る。が、親子は何も応じずに娘が先導して歩き始め、母は連れられるように姿を消していった。
聡が沙耶の下に着いた頃には、親子の背中は小さくなっていた。沙耶は校門の石塀に身を預けて立っている。存在に気付くと沙耶はじっと聡を見つめた。何も言わない。何か言って欲しい。それが今まさにすれ違って行った女への悪言でも自身に対する恨みでも、何でも良い……。聡にはもう次がない。そのためいくらでも次の自分の潔白を証明できる気がしたが、罪悪感よりもその焦燥が身を焼き痛む。やがて、沙耶が囁いた。私、妊娠したみたい、と。それでたまらなくなって、ここまで来たの。
予想もしない言葉だった。もちろん、動揺した。けれど、その後に萌した感情は果たして、安堵だった。ああ、これで解放されるのかというのが、聡の心中の本音だった。
校庭では少年たちが球を追い走っている。腐乱に走り回り、秋の寒風が吹きすさぶ中を身ひとつで転げ回り、その様は楽しげだ。その中には廃ビルに忍び込んだ面々も多く見える。彼らは門倉と同様に幽霊を観られたのか。彼らが観たものは本当には何であったのか。聡の学年では末田の性事件にあてられ、急速に性に関する興味が上昇している。そこで学校側では通常は六年生に向けて行われる女子に対する性知識の教育を、今回に限り五年生に向けて行うことに決めた。
聡は死んだ父親のことを想った。父の死後、肩の力が抜けたかのように活力が衰え、その亡霊のような姿が嫌で母親とも距離を取った。何かを両親から貰ったという感覚が、聡にはない。そんな聡が自らの子に託すとすれば、熱意だった。我が子には熱意ある人生を送って欲しい。自分はきっと、今更そんな人生は送れない。けれど、血を分けた子供がそのような人生を全うすれば、何だか救われるような気がした。結婚しようか、聡はそう言った。
聡と沙耶は校庭を眺めていた。妖精たちは風を切り、一心にボールを追っている。ひとりの少年が強くボールを蹴ると仲間の頭上を大きく越えて、校庭の隅に建つ鳥小屋へと当たった。その衝撃に驚いた鳥たちは大きく劈き、羽のある者は強く羽ばたいた。しかし錠はすっかり閉ざされている。彼らがそのまま、遥か上空まで飛び上がれることはない。鳥たちは束の間に小屋の中を飛び回っていたが、それも次第に収まって宿り木に羽を落した。
鳥小屋 もりめろん @morimelon
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