第10話 死後に残るもの

 その晩、夢を見た気がした。自分の唸り声に起こされて汗でぐっしょりと濡れたシャツを変え、もう一度床に入るとすぐに眠ることができた。朝、目覚めると手元には、夢の残り香があった。何かを夢見た気がしたけれど、それは既に失われている。しかし、それは最初からなかったものかもしれなかった。

 文化祭を明後日に控える中、学校はいつもと特段変わりない。けれど、最後の放課後練習を終えて職員室に戻ると、隣のデスクが綺麗に片付いていた。知らない間に末田が来て、片付けを済ましていたらしい。

 聡の机の上に一枚の紙が置かれていた。いつぞや門倉が提出した不問扱いの読書感想文。末田に見せた際、そのまま捨ててくれと渡したものだった。末田はどういうつもりでこれを残したのか。これが末田ならばきっと、この作家について調べるのだろう。その上で事情を聴いて門倉の才能を理解しようと努めるのだろう。しかし、俺は末田ではない。あんなくだらない人間ではない。そう苛立ちを覚えながらも聡を図書室へと運ばせたのは、つまるところ、羨望だった。

 放課後の図書室にはまだ生徒が疎らに残っている。彼らは一心不乱に文字の羅列を追い、体を空想の世界に浸している。なかには、大人も読むのを億劫に思うような分厚い本を抱える生徒もいた。また室内の隅には、男子が数人集い一冊の本を回し読みしていた。その光景に聡自身も覚えがあり、この頃の男子たちの忙しなさにも合点がいった。やがて、彼は国内小説の棚の一角で背表紙を追った。

 唯一の手掛かりは、芥川龍之介と彼の文人が知人だったという点だけだ。そこで、芥川の日記と伝記書を読めば何か情報があるかもしれないと考えた。受験勉強の際に詰め込んだ知識で芥川が夏目漱石の門下生だったことも知っていたため、夏目漱石の伝記本も探す。けれど、そこは小学校の図書室。目当ての本が置いてあるはずもない。諦め、けれど諦め切れず、最寄の区立図書館にでも行こうと思い、本棚から離れて窓を一瞥したところ、その手前に飯島倫子の姿があった。児童向けの厚いファンタジー小説を読んでいる。聡は歩く方向を変え、少女の傍らに立った。

「偉いな、飯島。こんな厚い本を読んで」

 声をかけたのは、この少女に対する罪悪感からだった。それは、聡が元々持っていた罪悪の種に、末田が成長剤を散布した結果の花だった。その色は不正直な灰色をしていた。

「べつに……そんなことないです」

 倫子は聡を睨んだ。また、この眼だ。明らかな敵意と侮蔑を込めた、純粋な怜悧。鋭い刃先が聡に向けられている。

「読書もいいけど、明後日は感想文の発表だろう。ちゃんと出来そうか?」

 声を掛けたことに後悔しながらも去り際には早かったので、着地点へと向かえるような問いを投げる。大丈夫です、そうか頑張れよ、これで会話は終了するはずだった。

「私たち、ふたりで大丈夫ですから。これ以上、お母さんに関わらないでください」

 そう言い放ち、本をそのままに少女は走り去って行った。呆気に取られた聡は、辺りを見渡した。誰も彼のことを気にしている生徒はいない。皆、読書に没頭している。聡は本をあるべき場所に片付けると、図書室を後にした。

 苛立ちの種は尽きない。まさかあんな子供にまで馬鹿にされるなど、聡は思ってもみなかった。俺達はそもそも、軽い遊びの間柄だ。でなければ、あんなと一緒になる訳がない。そんな売女と俺を同列に扱った末田と倫子、そして自分の立場も弁えず分不相応な願いを持つ愛生。血が繋がっていないどころか誰が父親かもわからない小生意気な娘の父親に、数百の男の性器を咥えて来た欠陥のあるオンナの夫に、俺がなる筈もない。まだいる。沙耶だ。勝手に一週間もいなくなり、果ては冗談めかして一緒に故郷へ帰ろうとぬかす。全員、勝手だ。

 頬を撫でる風が、すっかり秋だった。さくり、と音がしたのは、路肩に積まれた落ち葉を踏んだため。一歩歩く毎に、さくり、さくり、音が鳴る。空を仰いでやっと、ここが公孫樹並木の通りであることに気付いた。黄色く色づいた葉が空を鮮やかに照らし、これからの厳しい季節の到来を、まずは祝福してみせている、そんな風景だった。人通りも多く、この景色を見る為にわざわざ訪れている人もいるようだった。

 幼い頃、まだ父親が生きているときに、親子三人でここに来たことがあった。両親の事を思い出すのは随分久しぶりだった。母は、今この街でどうして暮らしているのだろうか、ふとそんなことを想った。そして、死者を想った。聡は、自身が生まれたときの父の年齢に差し掛かろうとしている。

 公孫樹並木はずらり高い。深い藍色に染まる空と黄色に塗り上げた葉のコントラストは美しい。この土地から養分を吸って彼らは大きく育った。思えば、トビを埋めたのも公孫樹の下だった。あの公孫樹はここまで立派ではない。まだ若芽なのだ。しかし、彼はトビの命を養分に、きっとこのように大きくなるのだろう。それはトビの生命の証であると同時に、沙耶の愛だった。あの埋葬に聡は関わっていない。

 皆、勝手じゃないか。俺だってそのひとりだ……。小気味良い音を響かせながら、並木通りを歩いて行った。


区立図書館は病院に似ている。古びた公共施設の辛気臭い空気。人がいるのに誰も喋らず、時折紙の擦れる音だけが響き渡る静寂。そんな雰囲気と本棚に納められた夥しい本が聡を圧迫させた。

 芥川全集と漱石全集、そして両作家の伝記書を大量に机に積んで読み始める。ひとまず、漱石門下生について読む。めぼしい者はいない。次に、芥川の交友関係、そして書簡集などを紐解いてゆく。が、記述はない。彼の人生を一通り追っても、彼の文人は歴史の層から顔を出さない。ならば、と思い同時代を生きた森鴎外、菊地寛、谷崎潤一郎、そうして川端康成にまで辿り着いた頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。辺りを見渡すと人も疎ら。正味、聡は飽き始めていた。読みかけの本を閉じて一息つく。なぜ、こんなことをしているのか。柄ではない、帰るか。そう思いながら遠くをぼんやりと眺めた視線の先、本棚の一角に女性の姿が見えた。図書館員らしく深緑のエプロンを巻いたその女性は、返却された本を一冊一冊丁寧に棚へと納めてゆく。聡はぼんやりと女性を見つめ続ける。女性は聡の目線に気付かず黙々と作業を進める。女性は時折、本棚に抱かれるように姿を消したが、それでも細かい音は聴こえる。見えないだけで作業は続いている。と、再び半身を現した。ひとりの若い女性の働く姿を一方的に眺めれば、そこには卑猥な欲望が宿った。しかし、このときの聡は違っていた。確かに欲望はあったが、それ以上に寂しくもあった。

半身の女が聡の目線に反応した。中空で視線がかち合った両者はどちらも譲らない。けれど、やがて女がその姿を消す。そしてまた半身を露わにしては、互いの視線を絡ませ合う。妙な戯れだと擽ったい気持ちでいると、女は本棚から顔を出して何かを確かめるように目を細めて聡を見つめた。意表を突かれた聡は肩を揺らしたが、その視線を受け止める。どこか見覚えのある顔だった。すると、女がやって来た。

「あれ、聡くんじゃない。私、中学一緒だった池内だけど、覚えてるかな?」


 聡は池内のことを殆ど覚えていない。思い出す映像の端にいつも切れかかって映るだけで、一度でも話したことがあったのかさえ定まらない。しかし、女は美しくなっていた。容貌の魅力という点では愛生に劣るものの、若さという無条件な魅力を越えた生命力に満ちていた。

「聡くん、噂聴いてるよ。学校の先生なんだって?」

「そうだよ。でも、何で知ってるの?」

「そりゃあ知ってるよ。うちの図書館の廃棄になる本をたまにあなたの学校に譲ったりしているからね。司書の先生が言ってたよ。あなたと、あとほら。あの目立たなかった男の子。末田……くん?だっけ」

 急に登場した末田の名に驚いて、聡は言葉を詰まらせ適当に返事をする。その後、末田くんは元気、と訊ねられた際にも濁した返事をしたが、その曖昧さに池内は何かしらを感じたらしく、それ以上追及しては来なかった。

 池内は魅力的だった。知的で適度に朗らかで外見も悪くない。なによりニットのセーター越しにふっくらと膨らむ乳房が欲望をそそった。

最寄りの居酒屋に移って既に小一時間。こうして話していて、相手も満更ではない様子に思える。良い機会だと何度も思おうとしたが、それでも結局は寂しさが強く押し寄せる。眼の前にはこんな魅力的な次の女がいると言うのに、何を躊躇しているというのか。

「……私ね、実は。作家を目指してるの」

 酔いも回って来た頃に池内はつま開きに言った。さも、重大な事柄を打明けるように。聡も同じく、さも重大なことだという風に応じる。

「それでこうして近所の図書館でバイトしながら小説書いたりしてるの。時々はやんなっちゃうこともあるよ。けど、そこそこ愉しんでる」

 そのとき、なんでこんな言葉が出て来たのか。苛立ちに負けたのか、はたまた夢追い人という点で末田のことを思い出したのか。ともかく、次の瞬間に聡は、『驟雨の都』について訊ねていた。作家志望ならば、何か知っているかもしれない。そう淡い希望を抱いて。しかし、その望みは直ぐに終えた。池内は首を横に振った。知らない、聞いたこともないと。肩を落とした聡は、件の顛末を語った。池内は興味深そうに耳を傾けていた。聡が語り終えると、池内は暫し考えた後、遠い目をした。

「そっか……何ていうか、不思議な話だね」

「そうなんだ。もしそんな作家がいないとすれば、悪戯に決まっているんだけど。しかし、そんな悪戯をするような子でもないし」

「悪戯かどうかは私にはわからないけど、私からすればどっちでも素敵な話に聴こえるな」

 聡は意図が判らず真意を訊ねた。すると、池内は目尻を垂らし、うっとりとした表情で語った。

「実在を問わず、結局、彼は小説家として未完の人だったわけだよね。本を出版することが出来なかった。当然、後世にも残らなかった。何をどんな風に書いたのか全く知られず、その影響関係も存在しない。そんな芸術家は、仮に実在していたとしても存在しなかったのと一緒だと思う」

 熱を帯びる言葉。そして、続ける。

「フランツ・カフカって知ってるよね?」

 流石に知っている名前だった。二十世紀を代表する作家。朝目覚めると虫になっていた高名なグレゴール・ザムザ、そのぎちぎちとした肉体にリンゴをめりこませながら息絶えた哀れな官吏の父としてのフランツ・カフカ。

「生前、カフカは一冊しか本を出していないの。碌に読まれず、その本の殆どを自らで買い取ったらしい。存命中に日の眼を浴びなかったという点では、ゴッホや宮澤賢治と似ているよね。ともかく、彼は売れなかった。けれど、書いたわけだ。そうして、病に伏せってしまうの」

 池内は一端、言葉を止めた。聡の相槌を求めているようだった。

「それで、どうしたの」

「原稿を全て燃やしたの。とは言っても、病から自分で行うことはできないから、親友に頼んで。自分の死後、原稿を全て燃やしてくれ。一片も残らずにだ、って」

「……何でそんなことを頼んだのだろう」

 不可解だった。仮に自分が死ぬ存在であるならば、自分の代わりに作品を残したいと思うだろう。少なくとも、聡はそう考える。せっかく努力をして生んだ作品だ。むしろ、親友に精力的に活動してもらい、死後にこそ正当な報酬を得たいと思う。それが普通なのではないか。この疑問に対する池内の回答は、あっさりしたものだった。

「カフカって完璧主義者だったらしいよ。実際、自身が書いたものには終生手を加え続けたらしいからね。そんな未完の作品を世に公表されることに耐えられなかったんじゃないかな」

 不満足な回答だった。芸術家の場合、汚名でも何でも後世に名が残った者が勝ちだろう。自分の名が生き続けてることを求めるのではないのか。

「話を戻すね。結局、現在カフカは世界中で読まれているよね。つまり親友が裏切ったわけだ。これは読まれるべき作品だ、って。そうして今がある。今日の文学があるの。カフカだけじゃないよ。ヘンリー・ダーガーという画家がいるけど、彼も大体、同じようなものなんだよね。一歩間違えば存在しなかった芸術家。つまり、彼らの存在こそがひとつの存在を浮かび上がらせていると思う」

 聡は、ぽかんと口を開いていた。わけの判らない話だった。池内は興奮を面に掲げ、爛爛とした目付きでうっとりと広大無辺なロマンを語る。なぜ、俺は今こんな話を聴かされているのだ。

「つまり、原稿を燃やされたカフカだよ。そのような人々が、おそらく沢山いた。彼らの屍の上に、フランツ・カフカは城を建てたんだ。だから、誰もその城門に辿り着くことはできないんだよ。そうして、その内のひとりがその『驟雨の都』の作者さんなんだよ。ロマンがあるよね。カフカ的亡霊が、自らの子孫に憑いて再度夢を果たそうとするなんて」

「でもね、私は思うんだけど。そうやって不存在な存在の上に立っているのは、私たちも同じなんじゃないのかな。実際、聡くんは三世代前のご先祖の名前を言える?」

 聡は黙って首を振った。

「私だって無理。言える人の方がきっと少ないよね。でも、先祖がいたから、私たちは生まれてこられた。大きな仕事を成して後世に名が残る人もいる。その一方で、その文人や我々の先祖のように、何も残せなかった人や残したけれど匿名の人として消えた多くの方々がいる。世界はそういった幽霊たちに支えられているんじゃないかな」

 消え入るような声で語った後、こないだの新人賞では最終候補まで残ったから、後少し。ここからの壁が厚いのはわかってるけど、ここまで来たんだ。頑張るよ私は。そう語る池内を前にして、聡の性欲はすっかり消沈していた。その代わり、寂しさがこれまで以上に強く押し寄せている。別れ際、彼女が言い残した言葉が聡の胸に深く突き刺さっていた。

「聡くんは自分のいなくなった世界に何を残したいって思う?」

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