第9話 帰郷のススメ
苛々とした気分のまま帰路に就くと、玄関先に陶器の欠片が落ちているのに気が付く。それは沙耶が消えるときに割っていったマグカップの柄だった。今までここにあったのに気が付かなかったのか、それとも……。仄かに期待した聡がドアを開けると、しかし暗闇だった。電気を付けると、しいんと静寂が空気を満たす。初めて、沙耶の不在を寂しく思っていた。欲しいときに欲しいものがないことが、これほど寂しいものなのかと実感せざるを得ない。
冷蔵庫から水を取り出してソファに座る。口をつけ茫とした。何だか妙に落ち着かない。そこで、彼は電気を消して、部屋を再び真っ暗にした。これで良い、そう思った。
もう、末田と会うことはないだろう。惜しいとは思わない。思うとすれば、愛生を末田に取られてしまったときのことだろう。愛生は、末田になびくだろうか。あの童貞に。いや、それはないだろう。万が一、そういう事態が生じたとしても、元々飽き始めていた女だ。代わりを見つければそれで済む話。それよりも、別れ際の聡を睨んだ末田の表情が脳裏から離れない。蝋燭が最後の一瞬に大きく燃え上がるような、終える人間の最後の輝きを見た気がしていた。その瞬きを、一寸、美しいと思ってしまった。聡のがらんどうな体内で反響音が鳴っている。
そうだ、酒だ。酒を呑もう。すっかり冷めた酔いを取り戻そうと冷蔵庫を開けると、何もない。近くのコンビニで買うか悩んだが、いや、どうせ外に出るなら誰かと呑もう。真っ先に沙耶が浮かぶ。あれから、沙耶からの連絡は一度も来ていなかった。思いきって電話をすると、もしもしと声がした。
「久しぶり」
「……うん。久しぶり」
彼女の声に時折、走行音が交った。外にいるようだった。
「すまん、俺が悪かった。一度話し合いたいんだ」
「……そう。じゃあさ、さっくん。今から迎えに来てよ」
「え、今から?帰りの電車なくなるよ。近くならタクシーで行くけど」
「いま、長野」
「え、長野って。もしかして実家?」
「ごめん、うそ」
「なんだ。びっくりさせるなよ。で、ほんとはどこにいるの?」
愛生は言葉に詰まりおし黙る。適切な言葉を探しているようだった。
「……私の実家って、ほら、長野の山奥じゃない。だから秋になると、そう、あき。ほら、秋になるとすっごく紅葉がきれいで、今の時期はね、もう真っ赤に燃え上がってて。さっくんも前、この時期来てくれたよね。あれ、綺麗だったね」
「……そうだね。綺麗だった」
「やっぱりさ、故郷って特別だよ。東京で暮らしててさ、別に何ら違和感とかなく生活しているのにさ、紅葉見たり、鳶の鳴き声を聞いたりすると、ガツーンって頭叩かれたような気分になる。強い郷愁感って鈍器みたいに重い。そういうとき、長野に帰って暮らすのも悪くないかも、って思う」
「東京出身の俺にはわかんない感覚だな。けど、初耳だね。沙耶がそんな風に思ってたなんて」
「言うの初めてだからね。でさ、そうなった場合、私は誰と一緒にいるんだろうとも思う。ねえ、さっくん。私がどうしても長野で暮らしたいってお願いしたら、一緒に来てくれる?」
「……東京を離れるなんて考えたことがなかったからな。でも、そうしないと別れるってんなら、仕方ない。行くよ」
「コンビニは遠いよ、娯楽施設なんてろくにないよ」
「おう、我慢する」
「……ふふ。ありがと。けど、さっくんには無理だよ。狭い社会だから、浮気性のあなたは耐えられない。私が恥しい思いをすることになっちゃう」
「……ごめん。もうしない。絶対しないから」
「……うそつき。けど、大丈夫。私は東京にいたいって思うんだ。この街でやりたいこととか、特にないんだけどね。」
「そっか。それで、今どこにいるんだよ。迎えに行くから」
「ん、いいや。まだ帰りたくない。もう少し、このままでいさせて」
「……もう少しって、どのくらい」
「土曜日。土曜日には連絡するから」
「……わかった。待ってるよ。沙耶、好きだよ」
「……うん、ありがと。それじゃ」
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