第5話 ふたりの女は

「困ったことになったねえ……」

はあ、聡は返答ともため息ともつかない声を漏らした。またか、と悪態をつきたい気持ちも裏腹に、そのような事態が生じているのは確かだった。

この頃、生徒たちは妙に浮足だっていたが、ともすれば文化祭が近いからだとも考えられる。しかし、聡はそれが間違っていることにすぐに気付き、事実、やがて証拠も見つかった。発見者は六年に担任を持つ男性教諭。或る日の放課後の教室、生徒が誰もいなくなったことを確認するため教室に赴いた際に、ふとゴミ箱の中を見ると、ノートの切れ端などに混ざりひらがな五十音と鳥居の記された紙が捨てられていた。あの不法侵入を契機に流行ってしまったのは、タンケンではなくユウレイ探しのようだった。翌日の朝の会で、男性教諭は用紙を棄てた者を確認したが、挙手をする生徒はいなかった。

 事態が俎上に上ったときに聡は、悪い予感が当たったと悔む一方、コックリさんは息の長い遊びだなどと感心していた。狐憑きなど古い慣習だ。聡の母親世代でも信じる者は多くないし、そもそも東京生まれの聡にとっては狐狸の類を目にすることさえ稀である。

「俺たちの世代でも流行ったかな?」

 騒ぐ教師たちの蚊帳の外で末田に訊ねた。しかし、末田から返事はなく、胡乱な眼付で呆けているだけだった。おい末田、と肩を叩く。彼は首を跳ねらせて妙な声を上げた。

「え、ああ、どうしたの?」

「……いや。生徒たちの中で心霊ブームが起きてるらしいぞ」

「心霊かあ。それが原因で繊細な子がいじめられなければいいけど……」

 口を閉じれば、末田はまたぼんやりとし始めた。呆れた聡は放っておくことに決めたが、末田の言う事にも一理ある。子供たちのいじめには縁故がない。嫌悪はなく潮流だけがあり、一端生まれたその流れには誰も逆らわない。無邪気ゆえの過ち。聡はそれを、これまでの教員生活で実感していた。今回、その潮目は門倉に見られた。元を辿れば発端は彼にある。そのため彼を囃し立てる生徒も多く、聡はこの頃、数人にからかわれムキになって否定する門倉の姿を何度か目にしていた。感情的になった人間ほど馬鹿にしがいのある者はいない。それは、子供たちの世界でも同じこと。彼はそういった場面に出くわすと、あまり騒ぐなよ、とやんわり注意した。こういったときには教員が直接的に介入しない方が良い。下手をすると、その注意によって本格的ないじめへと発展してしまうことがある。

 そのように末田と並んで傍観していると、教頭に同僚が集まってる中へ呼ばれてしまい、困ったことになったねえと嫌味たっぷりに告げられたのだった。

「ほら、発端はキミの担任のクラスだろう。慎重にって意味、伝わらなかったかな」

 同僚たちから横目で視線が届く。その中身は同情だった。

「ともかく、これで事故でも起きたら大変だから。みなさん、鎮火に回ってくださいね」

 教頭が周囲を見渡して言った。ふと、遠くを見て、

「ほら、末田先生。あなたもね。話、聞いていましたか?」

末田は再び、妙な声をあげた。

夕方、学校から鴬谷に向かった聡は、求め合った後のだるさを全身に残しながら、傍らで寝煙草を吸う愛生の躰を撫でていた。愛生の肌は未だ若々しく、ほっそりとした肢体も肉感的で美しい。聡の身体に残る倦怠感こそがその魅力の証左だった。そして、沙耶の下ではとうに過ぎ去った熱情だった。

「流行った……のかな。私にはわかんない。友達いなかったし」

 聡は事後の一幕として校内での心霊ブームを話していた。どのみち、保護者にも遅かれ早かれ連絡が廻ることだろうし、何より愛生はママ友が少ない。地域に根づいて生きる人の多い下町らしく、幼少期から目立っていた彼女は皆から距離を置かれていた。その為、連絡が廻らなかったにしろ彼女から話が漏れることはない。

「倫子は興味あるのかな。わかんないのよね、あの子。あまり話さないから」

 倫子は頭の良い子供だった。実際、書き直しを命じた門倉の読書感想文の不出来から、クラス内での優秀賞は倫子に与えられていた。彼女は早熟だった。それは環境から早く大人になることを義務づけられた、宿命的な早熟さだった。

「頭の良い子は総じてあまり喋らないものだよ」

 嘘が半分混ざる。知性が口数を減らすことはあれ、倫子の場合はそれだけではないだろう。聡は育児放棄だと睨んでいた。元々、十六歳で子を産んでから、愛生は両親に支えられて生きてきた。今の倫子があるのは、きっと祖父母の影響なのだろうと察しがつく。

 事実、育児放棄は満更外れていない。倫子を産んでから愛生は何度も娘と向き合おうとした。が、日々の疲れから男の元に奔走し続けた結果、娘の笑顔を見ることが辛くなった。男が変わる度に辛苦は増す。遊び疲れてもう楽になりたいと心を決めた人もいた。何人もいた。しかし、男たちは皆去ってゆく。

母としてどうあればよいのか。仕事終わり、アフターを求める四十男の手をやんわりと払い常のほろ酔いで娘の眠る顔を眺めるときにそう考えることもあったものだが、その娘の容姿が月に年に自分に似てくる。玉のように美しい。早晩この娘も自らの魅力に気がつくだろう。そのとき、娘はきっと娘を孕む。その娘は、きっといずれ、私になるはずだった。私は娘に男狂いする罪障しか残してやれない。ほかに何を残せるというのか。私に何が出来るというのか。愛生はいつかの夜、さめざめと涙を零した。その日から、以前より一層倫子と距離をおくようになっていた。

愛生は煙草を深く吸った。いま私の身体を撫でている男もいずれ去る。私たちは未来のことを話さない。それでも、この男がどこか遠くへ連れて行ってくれるのではないかと期待している。女が恋をする相手は、決まって自分を世界の果てまで連れて行ってくれる人だ。逆を言えば、惚れた人ならばどこに行ってもそこが世界の果てとも言える。恋から遠く離れた愛生は、それでもなお、世界の果てまで辿りつきたい。そう思っている。

「ふうん、そんなものなの」そう言い、再び深く吸った。そして、火を消しながら聡を視界に捉えて言う。「父親が欲しいとか思ってるのかな……」

 そう残し、彼女は浴室に消えた。その後ろ姿に、それは果たして……と、聡は訝しんだ。けれど、愛生に限ってそんなことはないだろう。これまで奔放に生きて来た女が、と高をくくった。正直、聡にとってどうでもよいことでもあった。もし、そうであるならば、次に移る他はないな、聡はそう考えていた。そんなことより、風呂に入りながら我々はもう一度交わるだろう、いつものように。彼は既に熱く滾っていた。


「ただいま」

リビングに入ると、普段着のままの沙耶がいた。タレントたちが有識者から常識を正されるというバラエティ番組を観ながら、ホットティーを呑んでいる。

「遅かったね。何してたの?」と彼女は言った。

「末田だよ。あいつと呑んでた」

 そう応えると、沙耶はカップ片手に立ち上がり、聡の傍らを抜けてキッチンに向かった。風呂上がりの髪が濡れていた。蛇口から水が数滴、等間隔に垂れる。沙耶はぼんやりとそれを眺めている。そんな彼女を、聡は見つめていた。

「末田くん、恋人でも出来た?」

「出来ていないんじゃないか。あいつは昔からモテないから」

「……あなたと違って?」

 沙耶は聡を見た。鋭い目つきだった。

「まさか。でも、どうして急に末田の恋愛事情が気になったんだよ?」

 沙耶は再びシンクに眼を落す。

「末田くん、女の人みたいな香水つけるようになったんだなって」

 突如、沙耶はカップをシンクの縁に叩きつけた。鈍い音とともにカップは砕け、破片がぽろぽろと床に落ちた。沙耶の掌には、崩壊を免れたカップの柄だけが握られている。破片が傷つけたのか、沙耶の指先からは血が浮き出ており、指先から何とも繋がらぬ柄へ、そして床に散らばる欠片の一片に垂れた。

 沙耶は家から出て行った。恋人の衝動的な行為から呆気にとられた聡は、彼女が出て行った玄関を眺めた後、ゆっくりと破片を片付けてビニール袋に入れ玄関の隅に置いた。その後、雑巾で細かい破片と彼女の血を拭った。

 電話をかけたが、出ない。メッセージも入れておく。そして、沙耶の大学以来の親友であり、聡も親交のあった友美に電話をかけた。

「久しぶり。あのさ、沙耶から何か連絡来てない?」

「来てないよ。何、またケンカ?」

「……うん、そんなとこ」

「……あのさあ、聡君。私が言うべきことじゃないかもしれないけど、もうさ、いい加減にしなよ」

「何を?」

「してるんでしょ、浮気」

「……してないよ」

「ウソ。てかさ、これで何回目なの?」

「だから、してないって」

「……あくまで認めないってわけ。沙耶、こないだ泣いてたよ。トビが死んだとき」

「……?あのときは沙耶、家でも泣いてたよ」

「聡君はわかってないよ。全然わかってない。沙耶がどんな気持ちでトビを飼い始めたのか、死んじゃったときにどんな気持ちだったのか。……はあ。まあ、いいや。私がとやかく言えた義理じゃないよね。沙耶から連絡がきたら伝えるから。それじゃ」

 聡はソファに座り、破片を掃除する際に指を傷つけなかったか、自らの掌を眺めていた。数分後に来た友美からの連絡によると、沙耶は彼女の家に向かっているそうだ。よろしく、と返信すると、別れるの薦めておくね、と返信が来た。携帯端末をテーブルに置くと、聡はソファに横になり深く身体を沈めた。

 友美の言う通り、浮気などこれが初めてではない。沙耶にばれただけで三度、それ以外も含めると何度かわからない程こなしてきた。客観的に見ると女癖の悪い男、恋人を蔑にする最低な男と見られる。それは聡にもわかっていた。が、殊更前者に対しては同意しかねた。聡はセックスを何ら特別な行為ではなく、男と女が挨拶の延長線上に行うものだと捉えており、それはつまり、彼にとって多くの女性が「オンナ」でしかないことを意味していた。そしてその「オンナ」たちの多くは、聡に性的な魅力を見出した。その交感を悦んだ。

 聡にとってセックスはあくまで日常の延長線にある事柄、瑣末な行為だった。けれど、その瑣末な行為こそが聡の、人生の大きな愉しみだった。沙耶への罪悪感は、その日常的な一歩を踏み止まらせるにはあまりに弱い。そして、浮気が明るみに出る度、酷く哀しみはするものの、沙耶が別れを切り出すことはなかった。つまり、赦した。それにつけこみ、聡は浮気を繰り返していた。

しかし、その人生の悦びは遠のこうとしている。ソファの上で心身ともにぐったりと寝そべる聡の下半身、その重要な快楽器官さえも疲れ果てている。それだけではない。脂臭い肌や減退しつつある食欲、そして疲労の残りやすくなった体……。その正体が加齢にあるのは間違いなかった。

勤め始めてから一年経った頃、年配の教員に連れられてコスチューム・プレイを愉しめる店を利用したことがあった。その際に聡は看護服姿の娘と愉しんだが、今の自身の生活はその行為によく似ていると感じていた。愉しむ為に、ある現実を模す。聡の人生、そして生活には何ら本物がなかった。聡は誰かの人生を模しており、決して聡自身の人生ではないように思えた。その空虚さから逃れる為の熱意は単なる欲情としてのみ存在しており、掴まえたと思ったら迸る射精でしかない。

 看護師プレイを愉しんだ彼は翌週末にも同じ店を訪れ、今度は小学生を相手にした。もちろん、安っぽい児童用の服を来た童顔の成人女性ではあったのだが、サービス中に娘から先生と呼ばれる度に、聡は興奮するより多くの違和感を覚えた。教師ではない他の誰かにとって、その設定を愉しむ為に金を払う価値のあるリアルなのだ、と。

それから暫くのあいだ、聡は自身の人生に対して肯定感を得られていた。けれど、その感覚も長くは続かなかった。やがて、漫然と目の前のことを片付けるだけになってゆき、再び性交に逃げた。これでいい、これでいいはずだと思い込んだ。なのに時折、徒労感が間欠泉のように噴き出るときがあった。

本来、恋人とは世界の中に築かれる閉じた小世界である。が、聡たちはそれを構築できなかった。彼らを包む膜は穴だらけで、その穴を永い間、沙耶が塞ぎ続けて来ていた。しかし、その穴はすぐに開く。それもそのはず、その穴を作るのは聡だった。時折膜を破り、外界の蜜を吸いに出かけていたからだ。けれど、その蜜はじきに甘くなくなる。ただ、ぐったりと横たわる他、今の聡にするべきことはなかった。……。

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