第4話 君のお父さんになりたい
末田はダイニングソファに座っていた。ここは秋葉原の電気街口を末広町方面にやや歩いた先の細い路地に建つ、何の変哲もないマンション、その一室。簡素な白い机の上には深緑と茶の糸で織られたラグが敷かれ、木かごには廉価な果物が納められている。末田がバナナを頬張ると、それが合図のように室内が暗くなった。
ふわあ、よく寝たあ……と甘たるい声が暗闇に浮かぶ。パチッとテレビ台の辺りが眩くと、肩甲骨まで伸びた黒髪をぼさぼさにさせた、ギンガムチェックのパジャマ姿の少女が現れた。欠伸をしながら、んー、と弛緩した糸のような声を響かせていると、突如、大きな声をあげた。
「あ、やば!みなさん、もう来られてたんですね」
目を丸く広げながら口もとを大げさに掌で隠し、ちょっとみんなーと扉を開けて隣室へと逃げ込む。やがて、声色の違う少女たちの慌てる声が何層にも重なって、上下ジャージやスウェットにクラスパーカー、なかには丈の長いシャツ一枚を羽織り下着が覗けそうな姿の少女たちが現れ、ごめんねこんな格好で、今日だって知らなかったからびっくりしたよー。でも、大丈夫。みなさん、今日は楽しんで行ってくださいね!と叫び、重低音が響きだした。
未だ幼さを残す細い肢体をくねらせ、少女たちが唄う、踊る、そして、頬笑みかける。ポップチューンのリズムに合わせて裾をひらり翻すと、四方に設置された大型家具店で見かけるようなスタンドライトが、強、中、弱、と段階的に明滅し、サビに入ると一斉に輝いた。
末田と似たような風貌の男たちは思い思いの場所に座り、自身の推しメンのうちわやサイリウムを振り回しながら応援している。時折、少女たちは男たちの目の前に立ち、肌を舐めるように息を吐き、そして、寂しげな表情で笑う。男たちは動かない、動けない。抑制しないと欲望に駆られ、この部屋を去ることになるからだった。以前、興奮のあまり欲望を抑えきれずに露わにしたペニスを少女に掴ませた男がいたが、その後、彼らのコミュニティ上でペニスマンと呼ばれるようになったその男をこの疑似空間で見た者はいない。
楽しみにしていたライブを観ながら、末田は憂鬱だった。平素ならば周囲と同様にサイリウムを振りながら汗と猥褻な眼光を飛ばす末田だが、今日は他人の子の授業参観に訪れたように気持ちが離れている。よく見ると、それは彼ひとりではない。室内には彼と同じように俯く男が幾人かおり、彼らも末田同様、サイリウムをじんまりと握り締め続けていた。やがて、その内のひとりが静かに部屋を出て行った。末田にはその気持ちが痛いほど理解できていた。
数曲が終わるとMCが入った。少女たちの芸ない喋り。やがて、中心メンバーのひとりが、不在者の存在を詫びた。
「ユキちゃんのこと、信じてあげて!だって、私たちもユキちゃんのこと信じてるもん。ユキちゃんが私たちのこと、裏切るわけない!」
次の曲は、ユキちゃんとみんなの為に……そう続き、再び歌が始まった。
ユキちゃんは男と寝た。SNSで流布された写真は半裸の若い男の乳首を舐める少女のもので、せめてもの抵抗の証か、それとも単なる戯れか、目元を掌で隠していた。けれど、まずは頬にぽつんと浮かぶほくろが一致すると叫ばれ、そしてブレスレット、笑った際に浮かぶ八重歯が止めとなり、完全に一致したと泣き叫ばれた。しかし、パトロンたちへの追撃は止まらない。写真は次々に追加されてゆき、なかには少女が布団の上で避妊具片手に横たわるものも混ざっていた。ユキちゃんは十四歳だった。末田がそっと部屋を出ると、扉は重く閉じた。
十五歳から歩きなれたこの街だ、眼を瞑っていても歩けるさ。この角を曲がれば同人誌専門店、そこを更に曲がりひたすら歩けばメイド喫茶、店に入る前ちらりと空を見やれば緑髪の看板娘が笑ってる。そうだ、実際に眼を瞑って歩いてみよう。入店する気もないのに店の前に立ち空を見やる、金融会社の広告だった。十三年間通う中で、この街は確かに変貌していたのだった。
中学生のとき、末田の同学年にひとりの美少女がいた。艶やかな黒髪にぱちっとした二重瞼。目鼻のよく通った端正な容姿には十代中頃にして女の色香も備わった。少女はあまり笑わない。人と群れない。他のそのような同級生を根暗だと揶揄する連中も、彼女に対してはその美しさにただ眩んでいた。当然、放課後に呼び出されることも頻繁だった。彼女ほど校内の人気ない場所を訪れた生徒もいなかっただろう。末田も彼女を想う大勢の内のひとりだったが、臆病な彼は行動に移せなかったため、彼女と言葉を交わした事はたったの一度しかない。その一度の体験を、彼はひたすらにキャンバスに描いた。幾枚も幾枚も。春夏秋冬の、朝夜の、幼少期と成人後の幻視を……。
長かった制服の袖がぴたりになった頃、末田は積み重なった膨大な画を全て燃やした。美少女は妊娠したのだった。教員も同級生も、誰も相手のことを知らなかった。その後、少女が学校に来ることは一度もなかった。河原で白煙を上げる画布の群れ、朱色に染まった幻の女は黒々と炭に変わりゆく。煙が眼に沁みた。空へ辿る一筋は今後の茫漠なときを想わせた。あのときのことはよく覚えている。これで末田は、少女に二度裏切られたのだった。
「あれ、今日はライブじゃなかったの?」
定連の店に入ると、ブレザー姿の店員にそう訊ねられた。顔を見ると、見慣れたハンコ絵のような容姿にユキちゃんが重なり、嫌悪感が込み上げる。末田は顔をそむけ適当に言葉を返すと、今日のお兄ちゃん変なの、と言いながら店員は消えた。
今、ここで。飾られた模造花を眺めていると、その裏に、男たちの姿が透けて見えるような気がした。その男は、不思議と聡のイメージと重なる。この娘らは全員、影でユキちゃんと同じ行為をしている。腹底からどうしようもない、胃液が込み上げるような深い苛立ちが生まれ来る。末田は童貞だった。
末田は最近、かつての美少女を頻繁に思い出していた。それは、昨年度飯島倫子を担任として受け持ってからであり、そして、授業参観でかつての美少女、愛生と再会してからだった。愛生は相変わらず美しかった。
愛生は今、上野のホステスで働いている。金を払えば逢えた。この街にいる少女たちより額が多少大きいだけで、かつては全く触れ会えなかった人を、金さえ払えば何時間でも拘束することができた。あのガラス細工のような瞳に自分だけを映すことができた。けれど、末田は彼女の下を訪れたことがない。
ねえ、ぼくが君をどれくらい好きだったと思う?あれからずっと、君だけを想っていたんだ(嘘だ)。本当だよ(嘘だ)、君は多分覚えていないと思うけれど、俺達一度だけ、話したことがあったろう。あの日のこと、今も忘れない(本当は忘れている。何度も反芻して、強固な思い出を作っているだけだ)。嬉しい、君と再会出来て嬉しいよ。これも、倫子のお陰だ。好きだ。君が好きだ。十年越しにやっと言えた。俺は、彼女のお父さんになりたい。お父さんにしてくれないか。
「え、ワリキリってこと?ホ別三万なら」
少女が言う。我に帰った末田の眼の前には制服姿の少女がおり、周囲を見渡せばそこは神田明神の境内。メイドカフェでデートサービスを注文し、店員のひとりと恋人を模して歩いていたのだった。
「え、ぼく声出してた?」
「うん。お父さんになりたいって。で、どうなの」
「あ、ああ、いやあ……。ごめん」
末田は全力で走った。すごすごと逃げ、上野駅で降り繁華街へと抜ける。うるさいキャッチを掻い潜り、店の前まで来た。この階段を降りれば愛生がいる。けれど、この街を行き交う女性たちは皆成熟しており、彼が日ごろ相手にしてもらっている少女たちとは違う。今、彼は臆していた。そして、引きさがった。
その日、末田は動画サイトで自慰に耽り、眠りに就いた。
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