第3話 幽霊

 教頭に呼ばれたのは翌週のこと。日中の授業と毎週火・木曜に行う放課後の合唱練習も終わり、職員室でコーヒー片手に僅かな休憩を取っていたとき、不意に名前を呼ばれた。

 隅にある応接スペースで向き合うと、教頭は砂を噛むような表情をしていた。困ったねえと呟く様は、まるで演技をしているように嘘くさい。聡は詳細を訊ねた。

「区の外れに廃ビルがあるだろう。もう何年も解体されずに放置されている。君のクラスの生徒たちがそこに忍び込んだらしい。それで、警備員に捕まったそうだ」

 驚きは少なかった。子供たちが行う悪戯でも比較的軽い方で、むしろ聡は安堵しているくらいだった。

「それで、警察には」

「届けていない。私たちに任せてくれるそうだ」

 これも予想の範疇だった。不法侵入程度なら、余程のことがない限り警察には通報しない。所詮は子供のやったこと。彼らも大ごとにはしたくないのだろう。

 内々に処理してくれ……、教頭が言う。但し、と続けた。

「これをきっかけに生徒たちの中で、タンケンが流行しても困る。慎重にね」

聡は時折、教頭のこの権威主義的な態度が癇に障った。教師を続けていれば、人は多かれ少なかれ偉そうになる。最早、職業病の一種だ。思春期の頃に観た学園ドラマに、必ず登場した抑圧者としての教師。そのイメージが教頭と度々重なった。また、その重なりに気がついたとき、聡は薄ら寒い気持ちを味わいもした。ああ、俺は今その教師になっているんだ。

内々に、かつ慎重に。その言葉を聡は了承した。

翌日の放課後、聡は教頭から名前を聴いた生徒たちを残した。生徒たちが次々に下校し、校庭からは朗らかな声が響いている。残された生徒たちは面々を見渡し、その顔ぶれから事態を理解しているようだった。聡は生徒を横一列に座らせた。

「……みんな、残された理由はわかっているな」

 生徒たちは聡と目を合わせないよう俯いている。中でひとりだけ、視線のかち合った生徒がいた。門倉だった。彼も忍び込んだうちのひとりだった。

「なんでこんなことをしたんだ。いくら人が住んでいない建物だと言っても、やっていい事と悪い事の区別くらいつく歳だろう」

 生徒たちは何も答えない。

「……どうなんだ、門倉」

 門倉は大きく肩を揺らした。生徒たちは伏した目を一斉に上げて彼を見る。その様子から、原因は門倉にあるらしいことが察せられた。追い打ちをかけようとしたときひとりが、せんせい、と零した。門倉です、門倉が悪いんです。一瞥すると、門倉は身体を強張らせている。

「門倉が幽霊見えるって言うから。あそこの建物、出るってみんな言ってたから。それで本当に見えるのか証明するんだって……」

 噂があるのは事実だった。今や廃ビルと化した建物は聡がこの街を出るときにはまだ営業しており、それなりに賑わってもいたし、実際に聡も利用したことがあった。その建物は、かつてはラブホテルだった。保護者会でも早く建物を潰して欲しいという不満の声は挙がっていたが、その彼女らの気持ちと幽霊話が立つ根はおそらく一緒なのだろう。

「門倉、本当なのか」

 声をやわらげ訊ねた。門倉はためらった後に、ゆっくりと頷いた。

「なんで幽霊が見えるなんて言ったんだ」

 しかし、門倉は何も言わない。聡はその沈黙を図りかねた。一端区切ることにして、息を大きく吐いた。 

「お前らなあ、自分のしたことわかっているか。不法侵入って言うんだ。大人がしたら警察に逮捕されている。お前らだって、今回は警備会社の人が赦してくれたからいいけど、本当だったら警察署に連れていかれてもおかしくないんだ」

 警察、その言葉に生徒たちは動揺を露わにする。みんなの顔に「でも門倉が……」と浮かんでいるのが読み取れた。

「門倉が悪い、お前らそう思っているのか。けどな、囃したてたみんなも悪い。お前らは、一用にいけないことをしたんだ。警察署に連れていかれて、先生とご両親と警察とで、みんなでお前らを怒っていたんだからな」

 両親という言葉に対する反応は、「警察」以上のものがあった。両親に報告されるのか、否か。彼らの最大の不安はそこにある。

「今回は家族の方には黙っておくから」

 生徒たちは顔を綻ばせたが、但し、と続けると瞬く間に表情が曇る。

「今回の事は誰にも口外するなよ。もう誰かに喋ったのなら、しっかり口止めしておきなさい。もし、他の生徒からお前らが廃墟に忍び込んだという話を聞いたら、残念だけど報告させてもらうぞ」

 そう言い、生徒たちを下校させた。不平を露わにランドセルを背負って出てゆこうとする彼らのうち、門倉だけに聡は声をかけた。

 鱗雲が晩夏の空を覆っている。とっぷり暮れて夜になるのか、再び陽が昇り朝が訪れるのか。明暗どちらに転ぶか判らぬ色、鈍重な雰囲気が校庭を満たしていた。

 聡は門倉を連れて校庭を歩いた。職員室の隣に建つ体育小屋、校庭の隅に広がる芋を植えた畑、疲れの見えるサッカーゴール……。聡は無言だった。門倉は黙って聡の後ろをついて歩いた。

 やがて、鳥小屋に着いた。金網の中ではインコや文鳥が宿り木にとまり、鶏がトサカを揺らしながら糞まみれの地面を闊歩している。なかで一羽、どうにも似た鳥がいる。……。

この頃、沙耶の様子がどこかおかしかった。明らかに、トビが死んだことが影響していた。どうすれば元気になるか、いっそこの中から一羽盗み、家に迎えようか。鳥なんてどれも変わらないだろう。そんなことをしても沙耶が喜ばないのは判っていながら、自嘲的に考えていた。

「本当に見えるんです」

 唐突に門倉が口を開いた。やっとか、聡はそう思いながら、

「……幽霊のことか?」

「うん」

「それで、お前から行こうって言いだしたのか?」

「ち、違います。幽霊が見えるって言ったら、あいつら。証明してみろって。それで皆をうちに呼んだんです、俺の部屋にいつもいるから。それなのに、なんでかわかんないけど、その日はいなくて。そしたら、嘘つきだ、嘘つきだって。……言うから」

「それで、あの廃ビルに行こうって言いだしたのか?」

「じゃなくて。だったらあの幽霊ビルに行って見つけてみろって言われて、悔しかったから、見つけてやるよって言っちゃって……。けど結局、すぐ捕まって幽霊どころじゃなくなっちゃったんだけど」 

「そうか。囃し立てられただけだったんだな。けど、だめだぞ。幽霊が見えるなんて嘘をつくのは」

 門倉はおし黙った。鳥が大きく啼く。聡が横目で様子を窺うと、門倉の表情には暗い影が浮かんでいた。

「嘘じゃありません。本当にいるんです、俺の部屋に」 

「……どんなユウレイなんだ?」

「おじいちゃんです」

 聡が、おじいちゃんと繰り返すと、暗闇が頷いた。

「いるんです、こないだから。本当のおじいちゃんじゃなくて、なんか、おじいちゃんの兄弟みたいなんだけど……」

 朝露が葉先から零れ落ちるように門倉は語った。彼の曽祖父の兄弟がこの夏から現れるようになったこと、毎夜現れては枕元に立ち彼をじっと見つめていること、彼の教科書を読み、『羅生門』に眼を留め「あいつが今でも……」と漏らしたこと、着物姿の老人は白い髭を蓄えており、そして、夏休みのある日、彼に命じて読書感想文を書かせたこと。そのときの彼は、まどろみの中にいるように無私で、老人の漏らす言葉をつらつらと、さながら自動筆記のように書きつけたようだった。

「ぼくが書いたあの本、じいちゃんの書いたものらしいんです。けど、本にもならなかったって。それで、悔しくて出たんだって」

 ユウレイについてこれ以上口外するなよと嗜める聡に、門倉はそう残して帰った。ひとり残された聡は自らの甘さを悔いた。生徒たちを怒ることが出来なかったことではなく、門倉があれ程確信に満ちてユウレイを信じていること、その純真さ。それが危ない。曲がり角には魔物がいた。その強大さはわからない、もしかしたら、杞憂に終わるかもしれない。けれど、聡にはその存在を正確に感じ取ることができなかった。既に太陽は沈みかかろうとしていた。校舎では職員室だけに白熱灯が光っていた。


「生徒の家にユウレイが出るらしいんだ」

 沙耶はコンビニで購入した蒸し鶏肉にレタスとトマトを加えた簡単なサラダをつまみにビールを呑んでいる。今日は残業で遅くなると聞いていたため、聡は愛生とともに夕食を済ませていた。

「どんな?」

「……先祖らしい。曽祖父の兄弟だって言っていたな。バカバカしい」

「幽霊かあ。実はね、私も子供のときに見たことあるんだ」 

「初耳だね。どんな幽霊だった?」

「交差点で亡くなった猫でね、地縛霊になっちゃってたの。真っ赤な毛並みでね、それはもうかわいかったんだから」

そう言い、液体が喉を通る小気味良い音を鳴らした。

「おい、バカにするなよ」

「バカにするなって、してるのはさっくんの方でしょ。子供たちをさ」

 普段はこうやって棘のある言葉を吐く性格ではない。しかし、この頃の沙耶は感情の波がどうも読みにくく、その不安定さこそが最近の沙耶の変化だった。

「けど、ご先祖さんの幽霊か……。私も大切な人の幽霊になら逢ってみたいかも」

 そう言い、沙耶は遠い目をした。聡は幽霊でも、などとは思わない。まず、幽霊など決して存在しないのだから、仮定としても在り得ない。それが彼の考えだった。父は思春期の頃死んでいた。父方の祖父母は遠方に住んでおり、父の葬式以後逢っていない。そもそも、平日毎日通う故郷の町に住む母親にさえ、高校卒業以後殆ど逢っていなかった。理由は、別に逢いたいと思わない。たった、それだけの理由。そして、充分過ぎる理由だった。……。

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