第2話 読書感想文の不思議
帰宅した聡は、鞄から読書感想文の束を取り出した。放課後、凛子が運んでくれたものだった。リビングテーブルの上に広げてビール片手に採点を始めてゆく。
いつ頃からか聡は、読書感想文の採点には明確なルールを課していた。
一つ、通読した様子が見られるか
二つ、著者が訴えたいテーマに触れているか
三つ、日本語として正しい文章になっているか
平たく言えば、読む、理解する、書く。これら三つが読書感想文の意義である、それが聡の考えだった。言語力を育むことが読書感想文の目的だと解している聡にとって、情緒は二の次。次点に評価されるものに過ぎない。
教員の中には、情緒を高く評価する者もいた。テーマの理解や正しい日本語を使うこと以上に、豊かな感性の発露を何より重視して採点を行う教員。聡は内心、そういった教員たちを馬鹿にしていた。確かに、子供たちの感性には時折、目を瞠るものがある。愛と純真に満ちた解釈や、超然とした楽観的かつ希望的解釈……。子供は無地の紙だ。そして、成長とは白紙に色を塗りたくってゆくことだ。我々の仕事は、それが美しく調和の取れた色合いになるよう補助することにある。その為に必要なのは、チューブから美しい色を捻り出すことではなく、配色に対する理解を得させること。そういった考えの元、聡は採点を続けていった。
頁が進めば、ビールも進んだ。ほろ酔いになりながらも明確な基準を守ってさくさくと進めていくと、ただいま、と沙耶の声がした。顔が赤く、足元が覚束ない。すっかり良い気分になっているようだった。彼女はソファに座る聡を見つけると、
「あ、お酒呑みながら仕事してる。いけない先生だ」
と言いながらソファ越しに彼に抱きつく。
「私もお酒呑む」
と、呟くが、それを制して聡は立ち上がり、冷やしておいたビールを空けて呑んだ。
「沙耶呑みすぎ。もう今日はやめときなよ」
「もしかして最後の一本?最悪だ」
そう言いながら、ソファの背に腹から倒れ込んだ。聡は再び採点に戻った。
「読書感想文か……懐かしいな」
重心をソファの背に預けたまま、ぴんと背中を張り九十度に体を曲げた沙耶は、原稿用紙を一枚手に取り眺めていた。放っておくと、やがて腕をぴんと伸ばしずるずると滑り落ちて行った。体がテーブルの下に隠れ、太ももだけが露わに残る。
「なにこれ。この子凄いうまいよ」
体勢を立て直し、聡に差し出して言った。
「親御さんが書いたのかな。私だって、こんな上手くかけないもの」
『驟雨の都』を読んで
奥伊豆の山懐、鄙びた温泉街で男が蝶を眺める場面から物語は始まる。邯鄲の枕を引かずとも、蝶は幻。異界へ誘うモチーフである。男は世相から外れた保養地で、さらに人の外へと向かう。そこで、男は化物との甘い幻に溺れる。
本作は大正を舞台に民話を扱った、古典主義的な小説である。その意義は西洋化に甘い夢を見た時世に日本の伝統を、夢として捉えなおそうという試みにある。化け狐の女が「私たちはこれから、蹂躙されるのさ。アンタたちに何度も殺される」と言う。この言葉は、平成を生きる我々をも貫く言葉なのだ。
低学年の頃、私は蝶の羽を切ったことがある。蝶は地べたでぴくぴくと体を動かしていたが、私はそれをケラケラと笑った。おそらく、その蝶は数日で死んだろう。そのように異界を葬った我々でも、夜には夢を見る。夢は内部にある。それでも、我々は外部の夢たちを今も殺し続けて生きている。
名前には門倉真澄とある。成績も運動も平凡、特筆するところのない生徒だ。悪戯だって進んで行うような子ではない。そもそも、悪戯で小学五年生が書ける文章ではなかった。では沙耶の言う通り、保護者が書いたのか。けれど、何の為に。こんなことをしたところで、子供の内申が悪くなるだけ。益はない。
第一、読書感想文の課題図書は主催の社団法人が毎年決めており、聡が勤める小学校もそれに沿って宿題を課していた。その結果、校、県、国の優秀作品が決められる。自由読書の賞も存在しているが、聡たちの学校ではそれを認めていなかった。そして、門倉が書いた『驟雨の都』という書籍は、課題図書ではない。
聡は携帯端末で書名を検索した。けれど、期待した結果が出てこない。
「……なんか不気味ね」
沙耶はそう言い、風呂場に消えた。やがて水の流れる小気味良い音が聞こえてきた。聡はビールを煽りながら、ひとり考えあぐねていた。
一日の授業も終わり、後は事務作業を残すだけ。末田は翌週末に催されるライブに想いを馳せていた。ユニットは『Fami.』という地下アイドル。動画サイトを中心に活動してライブはあまり行わないといった、身体を伴ったコミュニケーションよりも、ネットを通じた活動に重きを置いているのが特徴だった。例えば、SNSでのやりとり。Twitterでの一リプライが三百円、メンバーからファンへの一分間メッセージ動画なら三千円と、そのサービスは多岐にわたる。ただ、身体的なコミュニケーションは徹底的に除外されているため、通話や握手会の類は禁止されていた。稀に開催されるライブも一風変わる。場所は毎回異なる賃貸マンションの一室。室内には家具が一式用意され、ダイニングソファは長年の荷重から人ひとり分沈み、ラグには醤油らしき染みが淡く広がる。キッチンには調理器具が、シンクでは使用済みの食器が水桶に沈む。ときには、室内に干された衣類に幼げなリボン付きの下着が混ざることもあった。
設定では、彼女たちには身よりがない。母も父も不在。友達と呼べるのはグループメンバーだけ。幼い彼女たちは「優しい大人」から助けを乞うことでしか生きていけないため、こうして春を売っているそうだ。そこに、彼女たちのパトロンたるファンたちが彼女たちの住まいを訪れ、設定上の彼女たちの日常空間内で、ある者はソファ、ある者はダイニングテーブルから彼女たちのパフォーマンスを眺めるという仕組みになっていた。
末田が時折、厭らしい笑みを浮かべながら齢十五ほどの少女たちについて夢想していると、教室から戻ってきた聡が隣のデスクに腰かけた。表情がどことなく重い。
「どうした。なんかあった?」妄想をやめて聡に訊ねる。
大したことじゃないんだけど。という言葉から始まった話は、少し奇妙なものだった。
あれから数日後、夏休みの宿題すべての採点を終えた聡は、件の読書感想文について訊ねるため門倉を放課後に残らせた。書いた動機を聴いても門倉は居心地悪そうに体を揺するだけで、口は固く閉ざしたまま。質問を変えることにして、あれは誰が書いたんだと訊ねてみても、口を開いてはくれない。
その後も辛抱強く問い続けたが、結局門倉が口を割ることはなかった。普段は気の弱い門倉がここまで意固持になるからには何か理由があるはずだった。が、そこまでの道程は遠い。埒があかない、そう思った聡は書き直しを命じ、そうして問答から三日経った今日のつい先ほど、読書感想文の再提出を受けたのだった。顛末を話すと、聡は二枚の原稿用紙を末田に渡した。
一枚目、確かに上手い。読書家であった末田が読んでも納得の出来だった。決して、子供が書けるようなものではない。通読し、用紙を捲る。
二枚目、……平凡な出来だった。紆余曲折する論旨に時折崩れるてにおは。成績ならば可、十人いれば六人がこの程度、という位の出来だった。
「……これは教師としては、対応に困るね」
末田の意見は尤もだった。
文化祭では様々な展示や発表が行われる。各クラブや委員会の成果掲示に自由研究の発表のほか、目玉であるクラス対抗の合唱コンクールなど。保護者が子供たちの学校生活を理解できるような内容が揃うわけだが、予定には読書感想文の発表も組み込まれていた。
これは、保護者からの批判により一度は廃止された慣習だった。演劇の主役を複数人で演じることに端を発し、徒競争の横一列ゴールイン、合唱コンクールでひとり大声で唄う生徒を規制までさせた平等の掛け声は、やがて静まった。競争を未来に持ち越したところで、意味はない。むしろ不平等さを子供に教えることが大切ではないか。ただし、あくまでルールは平等であるべきだと訴える者が多かったため、発表会の復活とともに、作文は課題図書のみに限定されたのだった。
そうして、各クラスから選ばれた優秀者は体育館で発表を行い最優秀賞が決定される。それが校内代表となり、県の優秀賞作品候補に登録されるという流れになっていた。
門倉が本当に自らの実力で書いたのならば、この文章力を以てすれば校内代表は確定。内申書にも大きく箔が付く。
「ぼくなら、もっと詳しく話を聞くかな」
「いいよ、一度書き直させたわけだし。ネットでコピペでもしたんだろ」
そして、倫子の感想文も見せてくれと末田がせがむ。押しに負けた聡がそれを手渡すとそれを読み、感嘆の声を上げた。
「去年より上手になってる。しっかり読書をしている証拠だね」
興奮する末田から倫子の作文を取り返して、これやるよ、と門倉が書いた一枚目の作文を渡した。受け取った末田は、顔を顰めながらもそれを自らの抽斗にしまった。
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