鳥小屋

もりめろん

第1話 夏休みの終わりに

 文鳥が死んだ。夏休みも終わり頃、関東近郊の温泉旅行から帰ってくると、乾いた羽を閉じてケージの底に横たわっていた。最初に発見したのは沙耶だった。

「さっくん、トビが……」

 帰省する前に、水も餌も十分に用意しておいた。これまでは週の半分近く家を空けるようなときには親しい友人に預かってもらっていたが、二、三日程度なら何ら問題はなかった。それで今回もという運びになったわけだが、その末の突然の死。

 餌箱には穀類が、タンクにも水が残っている。少なくとも、餓死ではないはずだった。死因はわからない。けれど、聡たちが家を空けている間に、文鳥は人知れず鳥知れず一羽ぽっちで死んだ。

 沙耶はケージの前にへたり込んでいた。体をぴくりとも動かさず死骸にひたと視線を注ぐ。涙も嗚咽も漏らさない。現実を頑なに拒否しているのだと聡には判る。

「餓死じゃないみたいだし、例え俺たちが家を空けなかったとしてもトビは死んでたよ」

「わかんないよ、そんなの。それすら、わかんない」

沙耶は冷たいトビを掌に乗せ、長い栗色の髪を垂らしながら、やっと泣いた。

「……例えそうだったとしても、ひとりで死なせちゃった」

 聡は傍らで、ひくつく沙耶の背中を撫でた。沙耶がぽつり言った。

「……さっくんは哀しくないよね、やっぱり」

 一寸、聡の掌が止まった。けれど、すぐにまた背を擦り始める。そんなことないよ、と長年の連添いには繕えぬ弁解を口にしながら。

 トビを飼い始めたのは五年前のこと。同棲を始める記念としてペットを飼いたいと沙耶が訴えたのがきっかけだった。当初、聡は反対した。世話に手間がかかるし、臭いもする。そう主張しても中々引かない沙耶に降参し、ならば植物にしようと提案した。それなら、水やり程度で済む。

 植物なら日々の成長がわかりやすく目に見えるから、過ごした年月がわかりやすそうだと沙耶は言った。けれど、動物が良いと曲げない。撫でたら啼いて、お腹が空いたら騒ぐような、そんな手間のかかる生き物が良い。そうだ、鳥が良い。うんと可愛い鳥を飼おうよ、私がきちんと面倒みるから。

 普段は自身の欲望を強く出さない沙耶だが、こうと決めたら引かない。説得を諦めた聡は辟易しながらも一緒にペットショップへと向かった。そこで沙耶が見初めたのが、トビだった。小さく、そして控えめな色彩。聡も妥協できる範囲だった。

店員は羽の筋肉を切ることを勧めた。ケージを掃除する際の脱走を防げるそうだ。切らないでください、沙耶はそう応えた。そうしてふたりと一羽の同居生活が始まった。

 トビという名前は、鳶に由来する。沙耶が中学生の頃、家の上空ではよく鳶が啼いていた。山が深い沙耶の故郷だ、盛夏には蝉が、錦秋には鈴虫が、厳冬には雪が啼く。そして、鳶も啼く。幼い沙耶には、その声が山の神様の楽の音に聴こえたという。四季折々の音はその季節が始まってしまえば、すべて日常の背景音になる。けれど、鳶の啼き声は、いつも予兆なしに響いた。日常の膜を破るようなその声は、彼女に形而上の存在を想わせた。

 やがて沙耶も、声の主が鳶だと知る。山の神様は、自由に空を飛ぶ鳥だった。少女は、いつか自分も……。山の神様に自身の将来を重ねた。

 文鳥を見たとき、沙耶は山の神様を思い出した。そうして二一六〇円でふたりに購入された文鳥の雛はケージと名付けられ、かごの中でひっそりと生涯を終えた。

 聡は沙耶の背から離れて荷解きに戻っていた。衣類を洗濯機に入れ、歯ブラシや整髪剤など、細々とした道具をあるべき場所に収めていく。ちらり見ると、沙耶は依然ケージの前に座っている。透き通るような、陽光を吸えば更に軽やかな栗色の髪が、今は重く彼女の表情に影を落としていた。

――死骸はどうすればよいのか。

 聡は窓を開けながら考えていた。よく餌を購入していた店舗が引き取ってくれるものなのか、それが駄目なら燃えるゴミとして出しても良いのか……。

「ご飯は……食べられる?」

 沙耶の分まで片付けを終えた聡は、そう訊ねた。食べる、短く発した。

 移動の疲れを残したまま昼食を作るのは面倒だろうと、帰りに東京駅で購入しておいた駅弁をダイニングに広げると、ふんだんに盛られたカニやイクラ、ウニなどの魚介が姿を表わす。海無し県の帰りということもあり、沙耶が魚介を食べたいと言ったのだった。北海道産の海の幸弁当、一個一二六〇円。聡は正直、長年の慣習から旅行に行くだけなので、旅行先はどこでも好いと考えていた。けれど今は、目の前の海の幸弁当が他の種類に変わっていた可能性を思い、海沿いの温泉地を択ばずに良かったと実感している。ふたりは弁当をもそもそと口に運んだ。

「埋めに行こう」

 ぱっと沙耶が顔を上げた。

「埋めるって……どこに」

「近所の公園に」

「良いの、そんなことして」

「良いに決まってるじゃん」

沙耶は弁当を口に含み、やがて呑みこんだ。

「ほら、さっさと食べて行こう」

 ふたりは百円ショップでシャベルとタワシを購入し、近所の公園を訪れた。住宅街にあるため普段ならば子供たちで賑わうこの公園も、今日は人が少ない。夏休みもあと数日で終わる。きっと子供たちは家に籠り宿題を片付けているのだろう。明日から、そんな子供たちと格闘する日々がまた始まる。

 沙耶は園内に生える一際高い公孫樹の下にトビを埋めた。俺が掘るよ、聡はそう言ったが、いいから。さっくんはケージを洗ってきてよとタワシを渡された。ケージを洗い終え公孫樹に戻ったときには、沙耶は埋葬を終えて、安物の園芸用シャベルを土に刺し、合掌していた。聡はトビの埋葬に参加を許されなかった。

 夜、沙耶は聡の脚に自らの脚を絡め、手で彼の脇腹を優しく擦り、首筋を吸った。月に数度しかない彼らの弄りの、中でも珍しい沙耶からの求め。長年連添った恋人たちの、徒労感にまみれた夜の務めだった。そこに、性的な興奮は薄い。それを純真な心の繋がりと見做すには、あまりに義務的な営みだった。けれど、今晩の沙耶は微熱を帯びていた。聡はそれを、喧嘩の後の性行為のようなものか、単に寂しいのか。そう当たりをつけ、応じた。

 この同棲も、当初は結婚を見据えたものだった。それがいつしか、暦が五度巡った。既に事実婚のようなものだ、後は書類を出すだけ。判を押せば何かが決然と変わるとは思えない。結局、このだらだらとした日常が続くだけ。それならば……と、ふたりともこの一歩を踏み越えない。後押しがない、きっかけがない。結局のところ、展望がないのだった。

 果て、ふたりは眠った。そして、翌日も過ぎた。


 目覚めると隣に姿がない。起きぬけの格好でリビングに行くと、沙耶は既に化粧を始めていた。おはよ、と呆けた声をかけ、洗面所で歯ブラシを口に入れキッチンへ。いつも通り調理台の上に置かれた皿にはトーストとハムエッグが用意され、傍らに置かれたコーヒーメーカーにはちょうど一杯分が沈んでいる。マグカップに注ぎ、朝食をリビングテーブルへ持ってゆく。そして、洗面台に戻って口を濯いだ。洗顔クリームで顔を洗い、電動シェーバーで髭を剃る。

 鼻孔を擽るファンデーションの匂いを嗅ぎながらの朝食。口に運びながら携帯端末でSNSの更新を確認していると、

「さっくん、私もう出るよー」

 マスカラを塗りながら、沙耶が言う。

 急いで口に含み食器を片付けて、クローゼットからスーツと半袖のシャツを取り出した。お待たせ、と声をかけると、沙耶も終えていた。戸締りを確認し、部屋を出ようとしたところ、部屋の隅にあったゴミ袋を手渡される。生ゴミ臭いんだから、続けて言われる。生ゴミ。袋片手に振り向くと室内に不自然に空いたスペースがあった。トビがいた場所だった。

 昨日の沙耶は、やはり寂しげだった。俯き、口数も少ない。それが、今朝には普段通りの振る舞いに戻っていたので、それ故聡はトビの死を忘れかけていた。一日過ぎ、沙耶の哀しみは薄れたのか。と、彼は考えたが、一昨日クローゼットに仕舞ったはずのケージが置いた場所になかったことに思い当たる。奥底、うかつに眼に入らない場所にしまったのだろう。

 陽光が肌を刺す。むわっとした暑気が襲い、汗がじんわりと膨らんだ。ゴミ捨て場に袋を置き、ふたりは駅へと歩きだした。

「今日は友美とご飯食べに行ってくるね」

 低いパンプスで地面を蹴りながら沙耶が言う。

「じゃあ、俺も末田でも誘って呑み行くかな」

 ふたりはいつも通り駅で別れた。沙耶は渋谷区のIT会社でエンジニアとして働いている。一方、聡は江東区で小学校の教員として勤めていた。

 電車に揺られながらメッセージを一件送る。二つ返事だった。山の手線に乗り換え、総武線に揺られゆく。駅に着けば、見知った顔の生徒たちが列をなしており、彼らがばらばらに挨拶をしてくる。そして、近所の人々も。総武線から更にローカル私鉄に乗り越えた東京都の隅っこ。ここは聡の、勤務地でありながら故郷でもあった。


「Dorothy Little Happy最高。いやあ、ほんとにね。八月頭にお台場でTOKYO IDOL FESTIVALが開催されたんですよ。もうね、最高、でした。まだ開催七回目なんだけど、今年の参加アイドルはひゃく、ごじゅう、よんくみ、です。この数ね。凄いわ。アプガとか、モ!とか、有名どころだとでんぱ組とかね。まー凄い面子が揃ったわけですけれども、Dorothy Little Happy。KANAちゃん。ダントツに最高でした」

 デスクに座るなり、隣に座る末田が捲し立てた。乏しい語彙とは裏腹に目が輝いている。続く末田の感想が唾の礫となって聡のデスクを濡らすのを、不快感を露わに拭きながら、適当に相槌を打つ。

末田は聡の同期で、また小学生以来の幼馴染でもある。とは言え、同級だった小中学生の頃から特別親しかったというわけでもない。明るい性格で運動もできたためクラスの中心人物だった聡と反対に、末田はいつも教室の隅にぽつんと坐していた。空と本をよく眺めた少年は中学に上がると美術部に入って僅かな友人も出来たが、聡から見れば彼らは地底人に過ぎなかった。陽光の煌めきを知らず、薄黴の生えた白熱電球が仄く照る洞窟に住む、脂身から肉汁滴るも喉を潤すあまい果実も味わえない、を生食する地底人。

やがて、地底人は迫害されるようになった。迫害とは言え、劇的に惨いことはしない。「みなさあん。これが、世にも珍しい地底人であります。」と見物人を笑わせるだけだ。その見物人の一人が聡だった。

 高校進学を機に別れたふたりは、当然連絡を取り合わない。別々の人生を歩んで来て、このかつての学び屋で偶然の再会を果たした。末田は眺める対象が本と空と画布から、思春期の少女たちになっていた。あのときの地底人はこうして大人になってみると、自分と何ら変わらぬ人間に思えた。

 時刻は八時十五分。一時間目が始まる十五分前。隣接した校長室から恰幅の良い校長が現れ、その傍らで教頭が声を張った。教員たちが立ちあがったのを認めるように頷くと、校長が口を開いた。

「皆さん、おはようございます。」

 教員たちは複唱した。

「長い休み、ゆっくり出来ましたか。とはいえ、我々は教師、聖職者ですから。長期休暇とは言え、羽目を外し過ぎるということはなかったと信じておりますが」

 教頭がこちらを、というより末田を一瞥した。彼の趣味は総じて評判が悪い。

「二学期には文化祭も開催されます。多くの保護者、近隣住民の方々がいらっしゃいますが、そのときに我が校の評判を損なうことのないよう、今学期も大いに励んでください」

 そう言い、自室に戻って行った。教員たちは再び座り、やがてぱらぱらと担当クラスに向かって行った。聡も席を立った。

 教室には黒々と焼けた生徒たちがいた。未だ細く未発達な肢体がこんがり仕上がっている中で、六十の瞳が爛として輝いている。

 挨拶を済ませ、全体集会があるから体育館に移動するよう告げる。生徒たちは立ち上がり、ぞろぞろと教室を出て行った。その際に、幾人かの生徒たちに先生夏休み何してたの、などと話しかけられ、色々したぞ、と応えながら、ほら雑談は後にして体育館に行けと、声をかける。わあ、先生恐い、ワンピースを着た少女たちはけたけたと笑いながら駆けてゆき、ほら廊下走るなよと再度声を張る。空になったのを確認し、聡も教室を後にした。

熱気がむわりと籠る体育館の中で校長の長弁舌を聴くのは教師側になってもやはり苦痛で、今から二十年前に彼らと同じく体育座りで早く終わんないかなあとぼんやりしていたのを思い出す。末田が肘打ちをするので確認すると、聡の担当クラスの生徒がひとり、船を漕いでいた。

始業式なので挨拶が終えれば下校となる。皆、夏休みの思い出について語らい、この後の予定について相談し合っていた。少年たちの黒い皮はところどころ剥けてピンク色になっており、それらを勲章のように見せびらかしてはポリポリと掻いて、皮を床に散らす。引っかき傷や痣も同様。すべてが冒険の思い出である。少女たちの方がやや大人で、身体の傷を自慢する少年たちを冷ややかに嗤いながらも、既に好いた男子がいるのだろう。その瞳には小動物のように透明な輝きが宿っていた。

職員室に戻って明日からの授業の準備や今学期のイベントの詳細などを確認していると、彼の担当クラスの飯島倫子と門倉真澄が来た。両手には問題集と紙の束を抱えている。

「先生、夏休みの宿題です」

 聡はデスクの一角を空け、礼を言った。

「お、えらいなあふたりとも。特に飯島は女の子なのに、重たい荷物持って偉いえらい」

 末田が倫子の頭を撫でると、彼女は頬を赤らめ俯きながら、日直ですからと漏らした。一寸視線を感じた聡は、真澄の頭を撫で「真澄もありがとうな」と改めて言った。彼は痒いのを我慢するかのように、頬を強張らせ唇を上向かせた。

「……おい、末田。今のもアウトだ」

 倫子と真澄が去った後、他の教員に聴こえないよう耳打ちをする。

「え……今のも、なのか。」

 予想外という風に呆ける末田。彼は生徒へのスキンシップが激しい。意識しての行動なのかは不明だが、特に女子生徒において。更に、それは倫子に対してより顕著であった。以前、ふたりで呑んでいる際に、末田の好きなアイドルの対象年齢はどこまでなのか、小児性愛の傾向があるのではないかと確認したことがあった。聡だけではなく、他の教員も関心を寄せている問題でもある。その傾向があるならば、教員として非常に危うい。末田はそれを否定したが、そう否定したところで、風向きが悪いのは変わらない。そこで末田は、過剰なスキンシップを取ったときには注意してくれと聡に頼んでいたのだった。

「また一層気をつけなくちゃだなあ」末田はそう言い、誇張気味に肩をすくめた。

「ところで、久しぶりだし呑みに行かない?また余計に出すよ」

 聡が注意をしたら、呑みに行く際に多く出す。これがふたりのルールだった。

「ごめん。今日は沙耶とご飯食べる約束してるから」

 じゃあぼくは帰ってDorothyのDVDでも観るかな、末田が腕の筋を伸ばしながら言う横で、聡の脳裏には去り際の倫子の表情がぬめりとこべりついていた。あとけない内に篭る、諦念を含んだ嫌悪感。まさか……と、冷たい汗が襟を湿らせていた。

 十七時、ベルが鳴る。定時を迎えた教員たちは、初日だからということもあり、足早に消えてゆく。ひとり、またひとり帰ってゆく中、末田も既に消えていた。十九時には晩夏の空は暗い。見計らい、聡は校舎を後にした。

 聡は鴬谷駅で降車した。駅近くのコンビニでビール数缶と適当な乾きもの、煙草一箱を購入して、山手線の線路に沿うように建つホテル群の一角、その一室に入った。

「せんせえ、遅いよ」

 ガラステーブルに置いたビールをぷしゅっと開き、小ぶりな唇からくぴりと一口呑んだ後、艶やかなマスカラが煌めく二重瞼で上目遣いに彼を舐め、鼻先に缶を差し出す。が緩やかに缶を傾ければ、聡は鼻先に甘たるい愛生の口紅の香りを感じながら嚥下する。口に含みそこねたビールが顎を伝い襟に染みた。愛生はそのまま、聡の舌を吸った。口内で絡まる愛生の舌が徐々に微熱を帯びてゆく。聡は愛生の握る缶を手に取ってテーブルの上に置き、彼女をそっと押し、ベッドの上に横たわらせた。……。

 再び口にしたとき、ビールはすっかりぬるくなっていた。

「飯、注文するけどどうする?」

 部屋に用意されていた出前表を掲げて聡は訊ねた。女は煙草を吸いながら首を振った。

「ごめんね、今夜は早く帰らなきゃ。倫子が待ってる」

 帰り際の倫子の表情が頭を掠める。愛生は、飯島倫子の母だった。

 愛生が部屋を出ていった後、聡は丁寧に体を洗った。上がると、服にも消臭剤を振りまいてホテルを後にした。

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