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 そうしてオルガンティーノ師が大坂に戻った後、すぐに大坂の様子を知らせるためにオルガンティーノ師は同宿を大坂から高槻によこした。

 その少年が携えてきたオルガンティーノ師の手紙によると、大坂は今ではすっかり落ち着いたそうだ。

 まだ造営中だった大坂の町の大半は焼かれてしまったがすぐに復興に取り組んで、大方元の姿を取り戻しつつあるそうだ。

 火の手はやはり築城中の大坂城の堀は越えることはできなかったようで、城は全く無傷だという。

 そして、天満の橋の近くの高台の上の教会は、やはり全く何ら損傷は受けていないとのことだった。

 もはやこれは奇跡であった。『天主ディオ様』の御加護を思わずにはいられない。

 また、羽柴殿が赴いている尾張での戦争の様子も、ジュストからその父のダリオ経由で我われの教会にもたらされた。

 羽柴殿は犬山という城に入り、徳川殿と織田御本所殿はそのすぐ近くの小牧山に城を築き、にらみ合っていたという。

 そして何度か小さな小競り合いはあったけれど、五月の九日にはついに長久手という所で大きな戦闘が行われたということだ。だが決着はつかず、両者はまだにらみ合ったままだという。

 そのような知らせをジュストは父のダリオによこし、そのまま教会の方にも知らせるよう父に委託してきたのだそうだ。知らせをくれたということは、ジュストは無事だったということだが、その知らせには残念な報告もあった。

「かつての河内の岡山城主、結城殿が討ち死にあそばされました」

 教会を訪れていたダリオは、厳かにそのことを我われに告げた。

「え?」

 フルラネッティ師は絶句だった。

 私がヴァリニャーノ師とともに初めて河内の国に至った時、そこの岡山という城の城主であった結城殿、すなわちドン・ジョアンと私は岡山の教会で初めて会った。

 まだ二十代の若い殿だったが、熱心な信徒クリスティアーノだった。その岡山の砂教会こそ、今の大坂の教会の移築元なのである。

 すでにドン・ジョアンは他の場所に領地を遷されたというのでその教会を大坂に移築したのだったが、こんな悲しい形でまたその名前を耳にするとは私は思わなかった。フルラネッティ師も衝撃を隠せずにいる。

 ドン・ジョアンの戦死は、おそらくは五月九日の長久手という所での激戦においてであろう。ただ、詳しいことはダリオもま、だジュストからは知らされてはいないようだった。


 遠く東の三河と尾張では戦争が行われており、城主と領民たちが戦争に行っているというだけで、高槻の町そのものは平和の中にあった。

 私はその中にあって、神学校セミナリヨの学生の青少年たちに囲まれる日常を送っていた。

 一日一日の時間が、彼らの笑顔とともに過ぎていく。戦場で戦っている人たちには申し訳ないが、平和と喜びに満ちた国だった。

 季節も次第に夏に近づき、五月の下旬には羽柴殿の軍も御本所殿や徳川殿のいる小牧山から退いたという報告も高槻にもたらされた。だが、にらみ合いの状態が終わったわけではなさそうだ。大規模な戦闘は今のところないというだけで、まだ戦争は終わっていない。

 そんな中で雨季である「梅雨ツユ」も近付き、本能寺屋敷で信長殿が非業の死を遂げてから二年が過ぎようとしていたた。

 六月になるとすぐにキリスト御昇天の祭日、中旬には聖霊降臨の主日、そして聖体の祝日も無事過ぎていった。それらの祭儀はことごとく大坂や都とは別に、高槻で独自に行われた。

 今年の梅雨は「空梅雨カラツユ(雨が降らない雨季)」といって、ほとんど雨らしい雨は降らなかった。一週間に一回降ったか降らないかで、そもそも今年は一月以来、極端に雨が少ない年だ。このままでは農作物に被害が及ぶと人々は大騒ぎをしているし、神社ジンジャテラなどでは雨を祈る儀式なども盛んにしていると聞く。

 そのめったに降らない雨が、かつて復活祭パスクアもそうだったが、聖霊降臨の主日の当日もまたその日だけは雨が降ったのである。


 そうしていつのまにか梅雨も明けた七月の中旬、ジュストがその領民の軍勢とともに突然高槻に戻ってきた。

 そして彼は城に入ったばかりと思われる頃なのに、もう城内の我われの教会へと一人で歩いてやってきた。御聖堂おみどうで祈りたいというのでその時間を提供した後、我われは詳しい話を聞くべく彼を司祭館へと招いた。

「無事のご帰還、おめでとうございます」

 我われ三司祭と対座したジュストに、まずフルラネッティ師が声をかけた。

「かたじけない。でも、もう戦が終わったわけではなく、羽柴様が一時大坂にご帰還なさるので、私もお供したにすぎないのです。すぐに私も大坂に赴き、前の雑賀衆や根来衆の襲撃による大坂の状況を見て、そしてまたすぐに羽柴様のお供で三河に戻ることになっています」

 この時ジュストは日本語で話をしていたので、言葉の端々からジュストの羽柴殿に対する立場の変化が容易に見て取れた。「筑前殿チクゼン・ドノ」ではなく「羽柴様ハシバ・サマ」と言い、日本語独特の相手を敬う表現である「敬語ケイゴ」を使って話していた。

 つまりもはや羽柴殿とジュストは織田家における信長殿の対等な家来ケライではなく、主従関係にあることを如実に物語っていた。

 そのことだけではなく、戦争から帰ったばかりであるためか。ジュストの顔つきにも悲壮さが表れていた。

「バテレン様方、聞いてください。私は今回ほど『天主デウス様』のご実在とご臨在を感じたことはありません」

 話しているうちに、ジュストは興奮してきたようだ。

「羽柴様は小牧山の城の敵を攻めるに当たってその前哨基地として二重堀ふたえぼりに砦を築き、私とそのほか数名の武将がその近くに布陣しました。でも、羽柴様は突然私に身辺の警護に当たるようにとの仰せで、羽柴様のおられる犬山の城に私をお召しになったのです。そしてその翌日、二重堀の砦は突然徳川の軍に襲われ、最初に私とともにその砦近辺に陣を張っていた武将たちはことごとく討ち死に」

 フルラネッティ師もフランチェスコ師も、そして私も驚きの表情を見せた。そしてフルラネッティ師が最初に口を開いた。

「では、もし羽柴殿が……」

「はい。私をお召しにならなければ、私は今ここにはいないでしょう。しかもお召しがあったのは襲撃に遭ったその前夜ですよ」

「まさに、『天主デウス様』ですね」

「こんなにありがたいお仕組みを頂くとは……」

 ジュストは涙ぐんでいた。『天主ディオ』の微に入り細を穿っての仕組みの奥深さに私はあらためて胸が熱くなり、ジュストとともに感動の涙を流した。他の二人の司祭も同様だった。

「他に池田丹後守殿もよく戦い、戦の最中に完全に敵に包囲された時も兵士を鼓舞して窮地を脱出できたといいます」

 池田丹後守とはやはり信徒クリスティアーノの殿で、シメアンが洗礼名なので我われはそう呼んでいた。

「ただ、残念ながら結城殿が……」

「ドン・ジョアンが亡くなったことは、ダリオから聞いています。あの方も若い立派な信徒クリスタンだったの、残念です」

 同じ信徒クリスティアーノでも、『天主ディオ』はどうしてこのように生死を分けられたのか……それは我われの陣地では計り知れない深い仕組みがあったのだろう。『天主ディオ』のなさることに、間違いがあるはずがない。

 こういった情報をジュストは我われに残して、ほんの一晩自分の城に泊まっただけで、すぐに大坂に出発して行った。

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