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 それから高槻で、秋が深まっていく中でまたいつもの日常が始まった。

 毎日ミサに与りに来るジュストの話では、岡山の教会の解体も無事に終わり、資材の運搬も滞りなく進んでいるという。

 その一切の費用も、人的な力もすべてジュストが提供してくれているのだ。あくまで費用は献金であると彼は主張し、また労力も領内の農民の中から自発的に名乗り出てくれた人のみを充てているということだが、全員が信徒クリスティアーニなので皆嬉々として働いてくれているようだ。

 そんな中、十一月になって朝晩寒さを覚えるようにさえなった頃、都の教会から手紙が来た。どうもまたシモからの手紙があったようで、その内容を伝える手紙のようだが、なぜかオルガンティーノ師からではなくカリオン師からで、宛先もフルラネッティ師ではなく私宛てだった。なんかいやな予感がした。

 手紙は短かった。一気に読んだ。そしてその場に座り込んで、大きな声を挙げて泣いた。

「どうしました?」

 その声に、隣の部屋にいたフランチェスコ師が慌てて私の部屋に入ってきた。

アルメイダ神父パードレ・アルメイダが…」

「はい?」

「亡くなった」

「え? アルメイダ兄イルマン・アルメイダならさっき、神学校セミナリヨの校舎を歩いていましたけど」

アルメイダ神父パードレ・アルメイダです。天草にいた…」

「あ、あの方が……」

 フランチェスコ師も絶句して、その場で目を伏せて祈っていた。私はまた、涙をぬぐった。

 マカオでアルメイダ師と一緒に叙階したカリオン師は、やはりその時にいっしょに叙階した私に特に知らせてくれたのだろう。その同期の仲間の中で帰天したのはミゲル・ヴァス師に続いて二人目だ。

 そして私たちは、すぐに御聖堂おみどうに集められた。

 カリオン師から知らされたのと同じことが、フルラネッティ師からも伝えられた。オルガンティーノ師からの知らせがフルラネッティ師のもとにも届いたようだ。

 私はもうひとしきり泣いた後だったので、冷静にその話を聞けた。

 アルメイダ師……あのヴァリニャーノ師が日本を離れる時に長崎で会ったのが最後だった。今は六十歳になったかならないかくらいだろう。

「ずっと天草で、ご病気で休んでおられたようです。そしてその天草の教会で、この間の十月に帰天されたとのことです」

 フルラネッティ師の話によると、私と長崎で別れた後のアルメイダ師は、精力的に何回も薩摩まで赴いていたそうだ。

 だが、老いと病には勝てなかったようである。医師の資格を持った商人として来日してから約三十年、その後日本でイエズス会に入会し、福音宣教とともに医学の面でもこの国にもたらした功績は大きい。

 オルガンティーノ師もフルラネッティ師も、私がマカオでアルメイダ師に初めてお会いするよりもずっと以前から、アルメイダ師が修道士の頃から共に日本で福音宣教に携わってきたのである。衝撃は私よりもはるかに大きいだろう。

 そしてそのまま御聖堂で、天国に行かれたアルメイダ師のための祈りが始まった。

 時に、間もなく季節は待降節アドベントを迎えようとしていた。


 その頃、ジュストの話では河内岡山からの移築作業も急速にすすめられ、大坂での工事もまた迅速に行われているという。このためにジュストはかなりの資金を提供してくれたようだし、農閑期に入ったために人手もかなりの数を出してくれているようだ。

 羽柴殿の大坂城も農民たちの農閑期のお蔭でどんどん進んでいるようだが、こちらはそれとは別の急ぐ事情がある。

 前に初めて教会建設予定地を視察した時にオルガンティーノ師が漏らした考えでは、なんとしても今年のナターレ(クリスマス)に間に合わせて、大坂の新しい教会の献堂式はナターレ《(クリスマス)》のミサと同時に行いたいとのことであった。

 そして都のオルガンティーノ師とジュストの両方から、大坂の教会が完成したという連絡が入ったのはナターレ(クリスマス)の前の週の火曜日、つまり今年はヴィジーリャ・ディ・ナターレ( ク リ ス マ ス ・ イ ブ )が火曜日なのでそのちょうど一週間前であった。

 大坂の教会にはオルガンティーノ師が都から移るという。都の教会はカリオン師とセスペデス師が残る。。

 その一週間で都の教会から必要な聖具や、オルガンティーノ師と数人の修道士の生活用品などを一週間で運び込み、ナターレ(クリスマス)のミサは大坂の教会にて都と高槻の教会の合同で行われることになった。つまり都と高槻の信徒クリスティアーニが一斉に大坂に流れるのである。なぜなら、大坂は新しい町で、まだほとんど信徒クリスティアーニはいないからだった。

 もっとも高槻の領民の一万人以上の信徒クリスティアーニが大坂に流れたらそれは大変なことになるので、高槻でもナターレ(クリスマス)のミサは行い、大坂に行く人々はジュストが領主として人選して、人数を制限した。

 そして当日、フルラネッティ師より私とアルメイダ兄、ヴィセンテ兄はナターレ(クリスマス)は大坂の教会のミサに参列するように言われた。

 神学校セミナリヨの学生たちにも全員新しい大坂の教会を見せてあげたいので大坂のミサに与らせるということになり、我われ三人はその引率ということだった。

 我われは待降節アドベント第四主日の翌日の月曜日、すなわちヴィジーリャ・ディ・ナターレ( ク リ ス マ ス ・ イ ブ )の前の日には大坂に向けて出発した。

 高槻から大坂まではだいたい五時間くらいの距離で、今回は人数が大勢なので街道を歩いて行くことにした。高槻は都と大坂のちょうど中間に位置する。

 朝のミサの後に出発して淀川沿いに歩き、昼過ぎにはその船着き場、我われが初めてここに来た時に船から降りたあの場所へと到着した。そして高台の上を仰ぎ見ると、かつては何もなかった所に今や白亜の殿堂と呼んでも過言ではない立派な教会堂がそびえているのが見えた。十字架が冬の青空に映えている。

 私はかつてヴァリニャーノ師とともに河内岡山の砂の教会を訪れたことがあるが、その教会を移築したにしてはかなり真新しい感じで、外見こそ似てはいるが全く新しい教会に感じられた。しかも、以前にも増して美しい。

 大きさは都や高槻の教会と変わらないだろうが、周りに何もない高台の上にそびえているので、かなり巨大な建物のように感じられた。

 そしてその翌日の日没を迎え、オルガンティーノ師の司式で前夜ミサが始まった。このミサが、大坂の教会の初ミサ、すなわち献堂式をも兼ねていた。

 そしてその時、まだ大坂には信徒は少ないのでミサももの寂しくなるかもしれないからと、高槻の信徒をつれてきたのがいらぬ心配であったことを我われは知った。

 教会にはなんと、多くの信徒クリスティアーニが押し寄せていた。しかも、彼らは大坂の信徒というよりも、近隣諸国から話を聞いて一気に集まってきた人々のようであった。

 わざわざ大坂の初ミサのために、河内や摂津、そして和泉の堺などからも多くの人が集まって、高槻の教会の時と同じように聖堂に入りきれない人々で教会のある丘はその周りまでもがごった返していた。

 暗くなって満月よりはだいぶかけた月が昇って来た頃には、ミサの後の宴が教会の丘の周りで執り行われていた。私は高台の麓の淀川べり、すなわち船着き場のあたりで宴会をしている人々の間に入っていた。ここから見上げる高台の上の教会は、その窓から煌々と明かりがもれて、屋根の上の十字架を夜空に映えさせている。

 まるでそれはナターレ(クリスマス)の夜を彩る、光輝く巨大な木のようであった。

 そして宴の余興のごとく、聖歌隊となっている神学校の学生たちのラテン語の歌声が夜空に響いており、羊飼いたちが聞いた天使の歌声もかくやと思われるものであった。


 そしてセスペデス師司式の夜半のミサに続き、翌日の日中のミサは私の司式だったが、なんとオルガンティーノ師の計らいで、この日ばかりは聖堂もミサも信徒クリスティアーニだけではなく広く一般の異教徒にも開放されていた。

 だから物珍しさから、話のタネにと集まった人々も少なくなかった。だが、オルガンティーノ師はそれも良しとした。

「こうして教会に出会い、キリストの教えに出会い、これがきっかけで信徒クリスティアーノになる人も多いはずです」

 オルガンティーノ師は嬉しそうにそう言っていた。修道士の中には多くの異教徒が教会の中に入ることに難色を示した者もいたけれど、それをオルガンティーノ師は優しくたしなめていた。

「まずはその異教徒という言い方をやめましょう。彼らは今はまだ信者ではないけれどいつかの未来に信者になる人々かもしれません。異教徒ではなくて、今の時点ではいわばだ信者にになっていないというだけの未信者なのです」

 この意見に異を唱える者はいなかった。

 こうして1583年も過ぎ去ろうとしていた頃、新しい土地での新しい福音宣教が今始まろうとしていた。

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