Capitolo 7 西葡同君連合(Unione di Spagna e Portogallo)

Episodio 1 大転換(Nagasaki)

1

「ジョバンニ!」

 石畳の通りの向こうで、懐かしい声がする。見ると、学生らしき一人の青年がこっちへ笑いながら駆けてくる。

「チャオ!」

 朝の澄みきった空気の中で青年は私の前で立ち止まり、依然としてその笑顔をあふれさせていた。

「チャオ!」

 私も思い切り、その笑顔に笑顔で返事をする。その声に、石畳の上を歩いていた通行人たちがちらりと意識を私たちに向けた。

「早いな、マテオ」

「ああ、今日はヴァリニャーノ先生の講義が朝からあるからね。君だって十分早いじゃないか」

「同じ理由さ」

 そう言って笑う私も、なぜか学生だった。

 私とマテオは並んで少し登り坂になっている狭い道を歩いた。道の両脇はずっと三階か四階建てで薄オレンジ色の石造りの四角い建物が並び、開け放たれた上の階の窓から時々太った中年の女性が顔をのぞかせたりしている。

 坂の上は少し広い道が横たわり、往来も激しい。いましがた、石畳の上に音を立てて荷馬車が通り過ぎた。

 広い道沿いは店が多く、焼きたてのパーネ《(パン)》の匂いがする。

 すぐに道は広場に出た。広場にも石が敷き詰められ、その上で人々は思い思いにのんびりと朝の時間を過ごしていある。あくせくと動き回っている人などはいない。

 広場の向こうは古代帝国時代を思わせるような石造りの大きな建物で、その脇の道を入っていったところが我われが目指すイエズス会の修錬院ノビツィアートだ。

 広場には明るい日差しが降り注ぐ。ここはちょっとした丘になっているので、遠くに改造建築中のサン・ピエトロ寺院の屋根も見えた。

 そんな暖かい日差しの中で眠っているような、心地よい感覚が広場を歩く私にはあった。

 

 眠っているような――ではなく、私は眠っていた。

 いきなり現実に戻され、木の床に敷かれた布団の上で私は目を覚ました。

 暑苦しさで布団は跳ねてしまっていたけれど、久しぶりに我が家に帰ったような心地よい教会の司祭館で眠ったので、遠い昔のあんな夢を見たのかもしれない。

 しかし、目を開けた瞬間、心地よく眠ってなどいられないはずの現実が一気に私の頭の中に甦る。

 昨日、ニコラオ兄やヤスフェとともに長崎に到着した私は、混乱の中で岬の教会での第一夜を過ごした。都はどうも天候が異常で夏なのに夏らしくなく、日照りも少ない冷たい夏だったが、さすがに長崎は南国だけあってまさに夏という感じの暑さだった。

 到着が夕方近かったので、司祭館の部屋で少し休んですぐに夕食となった。

 まだ二十代後半の若いニコラオ兄は初めて日本に来て口之津に上陸してからすぐに都布教区に派遣され、ずっと安土にいたので長崎は初めてだという。

 そのニコラオ兄と私は完全な日本の武士サムライの服装であるヤスフェをも伴って前触れもなく突然長崎に来たのだからさぞや皆驚くであろうと思っていたが、当然のこと港には誰の出迎えもなく、そして坂を上って岬の先端の教会の門をたたいた時も、取次に出たアントニオ・ロペス師は少し驚いた顔をしただけで慌ただしく我われを中に招き入れた。

 かつては天草の修道院カーザにいたはずの司祭だが、今はなぜ長崎にいるのかそれを聞く暇もなかった。

 そしてまた慌ただしく準管区長であるコエリョ師の部屋へと通された。あのルイス・フロイス師も同席している。今やフロイス師はシモ布教区の上長ではなく、準管区長の補佐官だ。

「私も普段は口之津にいるのだけど、おととい急遽長崎に来たばかりだ。あなたはどうして突然……」

 にこりともせず、ただいぶかしそうにコエリョ師は聞いた。フロイス師も難しい顔をしている。やはりこの二人はどうも苦手だ。

「はい。オルガンティーノ神父様パードレ・オルガンティーノの命で、重要なお知らせを届けに来ました」

「はて、聞いていないが」

 それはそうだろう。我われは命じられて日数もなくすぐに都を出発した。我われが長崎に来るという知らせが我われを先回りにしてここに届くとは思えない。

「実は信長殿が……」

 私が話し始めると、コエリョ師はそれを手で制した。

「その話は明日にしよう。実は明日、こちらからもものすごく重要な知らせがある。あなたが都から今日ここに着いたというのも、『天主デウス』のお引き合わせだ。明日発表する知らせをすぐにでも都にもたらしてほしい」

 コエリョ師は我われの長旅をねぎらうでもなく、すぐにまた引き返せと言わんばかりの口調だった。

 そして我われは夕食まで、完全に放置された。たしかに教会全体が慌ただしく、我われの来訪どころの騒ぎではないようだ。

 果たしてコエリョ師が言う重大な知らせと、我われがもたらす信長殿の死という知らせのどちらが重大か、明日になったらはっきりする。

 夕食も何だか静まり返った雰囲気の中で、みんな黙々と箸を口に運んでいた。

 その時、私はふと気になったことがあった。長崎にいるはずの、今回会うのを楽しみにしていたある司祭の姿が見えないのである。それはマカオで私と一緒に司祭への叙階を受けたミゲル・ヴァス師であった。ヴァス師の姿がない。

 だが、天草にいたはずのロペス氏が長崎にいたりするし、この布教区は人事異動が激しいのかもしれない。なにしろ準管区長のおひざ元なのだ。


 翌日は八月十五日、聖母マリア被昇天の大祝日だ。水曜日ではあったがそのためのミサが日曜の主日よりも盛大に行われる。そして聖母崇敬の祈りが捧げられる。

 今や長崎の町は住民全員が信徒クリスティアーノとなっており、とても御聖堂おみどうに入りきらないのではないかと思われる人々が教会に押し寄せた。

 住民ばかりではなく、同じ敷地内にあるポルトガル商館の商館員たちも全員が参列するので、庭まで人々はあふれた。これでもこの岬の教会と山の教会とで信徒を二分してこの状況なのだから、よほど多くの信徒がいることになろう。

 だが、ミサが始まる前に、隣に座っていたロペス師が私に耳打ちした。

「この御ミサは、ミゲル・ヴァス神父パードレ・ミゲル・ヴァスの追悼ミサでもあるんですよ」

「え?」

 私は一瞬耳を疑った。聞き間違いなのではないかと、もう一度聞き返そうとした時、長崎の教会の鐘が鳴り、信徒でひしきめ合う中で聖母被昇天のミサが始まった。

 私は久しぶりの長崎の教会でのミサというのに、感慨にふける余裕など全くなかった。

 ミゲル・ヴァス師の追悼ミサとはいっても、聖変化の後の祈りの文の中にヴァス師の冥福を祈る言葉が一言付け加えられただけだ。

 それよりも気になったのは、マカオから日本に向かっている船がどうも遭難したらしく、その無事を祈る言葉もあったことである。

 そんな中でミサも終わり、我われ聖職者は司祭館で朝食となった。そこへ向かう途中、私は当然のことロペス師をつかまえた。

ヴァス神父パードレ・ヴァスの追悼って、どういうことなのですか?」

「私も最近長崎に来たので詳しい事情は分かりませんけどね」

 ロペス師は食堂までの廊下を歩きながら、小声で話してくれた。

「先月の末、ヴァス神父パードレ・ヴァスは天に召されました」

「なぜ! なぜですか?」

 思わず興奮してしまった私は、詰め寄るような形になってしまった。一緒に廊下を歩いていいた何人かの修道士が、振り返って私たちを見た。だから、私はまた声を落とした。

「どういうことでしょうか?」

 今年の春に私が長崎を後にした時は、まだ元気だったのだ。年も私よりも五歳くらい年長であるだけで、まだ三十代半ばの若さだ。

「先月、長崎で感染症が猛威をふるいましてね、毎日数十人の死者が出たんですよ。亡くなった信徒クリスタンたちの葬儀もこの教会で連日行われたし、この教会の神父さんたちパードレスは町へ出て行ってその遺族の方たちを励ましたりもしていました。ヴァス神父パードレ・ヴァスもその中の一人だったのですが、感染してしまいまして……。九日間高熱にうなされて生死の境をさまよっておられたが、とうとう帰天されました」

 知らなかった。

 私が日本へ来る前からの旧知だ。私は衝撃のあまり、頭の中が真っ白になってしまった。何を言ったらいいのか分からない。言葉を失うとはこういうことなのだろう。

 それでもなんとか気を取り直した私は、歩きながら黙祷を捧げた。

「それで急遽私が、代わりに天草から呼び寄せられたのですよ」

 この人事異動にはそういった意味があったのかと呆然と思っているうちに、食堂に着いた。

 朝食も、重苦しい雰囲気だった。そして食事も早々に終わり、コエリョ師が座ったまま一同を見渡した。

 そこにはヤスフェのほかに、聖職者ではないポルトガル商館の何か偉そうな雰囲気の人もなぜか三人ばかり同席していた。

 もしかして新しいカピタン・モールかなと私が思っていると、

「皆さん」

 と、コエリョ師が口を開いた。

「今日は皆さんにとてつもなく重大なお知らせがあります。しかしその前に、まずは我われ身内に関する件、我われの修道会に直接関係するお伝えから先にしておきましょう。それと、都に行かれていて突然長崎に来られたコニージョ神父パードレ・コニージョからも、あとで何かお話があるようです」

 ミゲル・ヴァス師の突然の帰天の知らせに思考が停止していた私は、いきなり名前を呼ばれてはじめて私がはるばる長崎まで来たその目的を思い出したくらいだった。

「まず、我らがイエズス会の尊敬すべき総長、エヴェラルド・メルクリアン神父パードレ・エヴェラルド・メルクリアンが実は一昨年、1580年に亡くなっていました」

 人びとの間でざわめきが起きた。ここにいる司祭は私のほかはコエリョ師、フロイス師、そしてロペス師の三人だけだ。

 ざわめいたのは修道士イルマンたちで、彼らは詳しいことは今初めて聞かされるらしい。すると、新しい情報を乗せたマカオからの船が着いたばかりなのだろうか。それにしてはどこを見ても、マカオから新しく来たという感じの司祭も修道士もその姿は見当たらなかった。

 ただ、最初から気になっていたポルトガル商館員がいるだけだ。

 それにしてもやはりエウローパは遠い。一昨年の情報が今頃になってこの地に到着した。

「後任の総長は?」

 修道士の一人が質問した。

「ローマ管区長をされていたクラウディオ・アクアヴィーヴァ神父パードレ・クラウディオ・アクアヴィーヴァだ」

 コエリョ師の説明に、私は顔を挙げた。一瞬、どこかで聞いた名前だと思ったがすぐに思い出した。

 リスボンからインディアのゴアまでずっと私とともに航海してきた司祭が同じ姓だ。つまり、今もゴアにいるはずのロドルフォ・アクアヴィーヴァ師だ。

 そういえばアクアヴィーヴァ師は、叔父がナポリ管区長だと言っていた。

「あのう」

 私が質問の手を挙げた。コエリョ師は表情も変えずに私を見た。

「その方はローマ管区長ということでしたけれど、以前にナポリ管区長をされていませんでしたか?」

「イタリア半島の人事など、私はよく知りません。まあ、そんなこともあったような気がします」

 コエリョ師はそうは言ったが、やはりその通りなのだろう。すると、あのアクアヴィーヴァ師の叔父さんがイエズス会総長となったのである。

 しかもその叔父は、ヴァリニャーノ師が学生時代の大親友だったという話も聞いている。するとヴァリニャーノ師が日本滞在中に、すでにその旧友がイエズス会総長になっていたのだ。当然、ヴァリニャーノ師は知る由もなく、マカオで初めてこの知らせを聞かれたであろうけれど、今後の師の活躍にとっては大きな励みになるに違いないと私は思った。

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