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ところが、その翌日も起きてみると雨はまだ降り続いていた。
この雨の中を荷台を引いて旅するのはちょっと気が引けた。学生たちも、まだあの島での出来事から、体も心も回復してはいないようだ。
そこでオルガンティーノ師は出発を一日延期する旨を全員に告げた。
この日は朝のミサの代わりのみ言葉の祭儀と、そして我われ聖職者は聖務日課を務めるほかは全く何もすることのない雨に閉ざされた一日となった。
私は学生を相手にいろいろと話をして時を過ごした。時に学生の中にもこの国の将来を危ぶむ者もいたが、「すべては『
午後になって少し雨も小ぶりになったので、私はニコラオ兄とともに、本丸の方へ行ってみることにした。別に屋敷に用があるわけではなく、あの天守閣をもう一度近くで見たかったし、雨にけぶる湖の景色も本丸の石垣の上から見てみたかったのだ。
やはり雨とあって、城内は外を出歩いている人はあまりいなかった。我われは借りた日本風の傘をさしていた。日本の傘は紙でできており、油が塗ってあるので水をはじく。あとはすべて竹で、骨の数も我われの傘よりもはるかに多いので持っていてとても重い。
そんな傘をさして私とニコラオ兄は本丸に出て、屋敷の脇を通って天守閣の方へと歩いた。
思った通り、雨の中の湖は対岸もかすんでいた。目の前には湖の上という広い空間が広がってはいるが、どこまでが水面なのかどこからが空なのか境界もあいまいだ。水面も空も同じ淡い色で塗りつぶされている。
「こうして見ると、大きな湖なのですね。まるで単色の絵のようです」
と、ニコラオ兄がイタリア語で言った。
「ああ、君はいつも
「はい、実は僕はもともと画家なんです。今はまだ修道士として修行中ですけれど、いずれは我われの国の絵の技術をこの国に伝えるために修道会から派遣されてきました。でもこの景色は我われの国の絵では無理ですね。やはり日本の景色は日本の絵の技法で描くのが一番ではないですか? 日本では墨と水だけで、その墨の濃淡を生かして風景を描いてしまうのですから、あれを最初見たときは驚きましたよ」
そう言ってニコラオ兄は笑った。若いとはいっても、私とそう極端に年が離れているわけではない。鼻筋の通ったいい青年修道士だ。
前に聞いたところだとヴァリニャーノ師と同じナポリ王国の出身だという。
かつて私がマカオにいた時、マカオの
二人がそんなことを話しながら景色を堪能していると、
「あの、もし」
と、背後から日本語で呼び掛ける声があった。女性の声だった。振り返ると屋敷の使用人という感じの婦人が、傘をさして立っていた。
「バテレン様。お方様がお会いしたいのでお呼びしてくるようにとのことでございます」
女がそう言ってから屋敷の方を見るので、その方へ私も視線を向けてみると、屋敷の縁側の上に高貴そうな女性が一人立っていて、我われが見たのを認めると立ったまま深々と頭を下げてきた。私たちも慌てて同じように立って頭を下げた。
そして案内されるままに屋敷に上がって、その高貴な女性と対座した。
女性は二十代後半くらいに思われたが、丸顔の美人であった。そして美しいというだけでなく気品があり、高貴な雰囲気を漂わせていた。この女性が誰であるのか、先ほど案内した女が「お方様」と読んだことから私にはほとんど察しはついていた。
「明智日向守十兵衛が長女、明智弥平次が妻、
やはりそうであった。そうなると、頭を下げるこの倫という女がこの城の留守を実質上仕切っている女性ということになる。
我われも座って頭を下げた。女の手で城を取り仕切っているというからもっと年季の入ったたくましい女かと思っていたが、目の前にいるのは美しいうら若き女性であった。
「おくつろぎのところ、わざわざお呼び立てして申し訳ありません」
私は、この女性が我われに何の用があるのかいぶかしくもあったが、昨日の勘助のことを考えるとなんとなく予想がつかないでもなかった。
「私には三人妹がおりまして、その三人の妹の下が長男の十五郎でございます」
そのことは、すでに勘助から聞いていた。
「実はその三人の妹のうちの一人は長岡与一郎様に嫁いでおります」
「ああ、お珠様ですね。安土でお会いしました」
「え? そうですか?」
珠という娘とは安土の明智屋敷で明智殿とお会いするまでに短い時間であったが少し話をした。目の前の倫よりはずっと若くまだ二十歳前後のような感じだったが、熱心にキリストの教えについて質問してきたことを覚えている。たしかに長岡という殿の妻だと言っていた。
「その与一郎様の父上の
話が込み入って来るとよく分からないが、つまり
「実はその時点では、我が父はその長岡の与一郎様のお父上、兵部様の家臣だったのですが、公方様と安土の上様の間に入ってとりなし役などをしているうちに我が父は織田家へ客分として迎えられたのです。与一郎様はそうして我が妹を娶り、長岡の家と明智の家は切ってもい切り離せない間柄のはずでした。しかしこのたびの挙兵とともに父は長岡父子に何度も自らの元へ馳せ参じるよう使いを出しましたが、長岡父子は丹後から動こうともしません。噂によると、兵部様は上様への弔意を表すために剃髪し、幽斎と名乗っているとか」
話している倫は、だんだん涙声になってきた。
「このあとどうなるのか。もし長岡のお家がこちらについてくれなければ、父は孤立してしまいます。やがて越前の柴田、関東の滝川、播磨の羽柴などがいずれは父に
倫は一つため息をついて、さらに続けた。
「でも、私としましては明智のお家ももちろん大事ですが、珠が今どういう状況に置かれているのかそれが不安でたまりません」
ついに、倫は涙をこぼし始めた。我われはただ黙って聞いているしかなかった。倫も少し間をおいた。倫の話まだ続く。
「このような状況にあって、頼みの綱は高槻の高山右近様ばかりでございます。どうか高山様が父にお味方してくださるよう、バテレン様からもお願いしてはくださいませんか」
やはり要件はこのことだった。しかし我われはすでに、高槻には行かずに都に向かうことは決まっている。だから何と答えていいか分からなかった。
「実はあまりこのことは言いたくないのですが、私はもともと荒木弥介の長男の新五郎の妻でした。もうお聞きかと思いますが、荒木というものは上様に背いて、一年近くも有岡城で上様と戦いました。その時点で私は離縁されて明智の家に戻って来たのです。その時高山様は荒木と
倫は頭を下げた。せっかくの美しい顔は涙でぐしゃぐしゃだった。高山様、すなわちジュストがオルガンティーノ師の説得で反乱軍から信長殿へと戻ったという話は、昨日オルガンティーノ師から聞いたばかりだった。それでも我われはどう答えいていいか分からない。
「お気持ちは分かりました。しかし、私の一存でお返事できることではありませんので、お聞きしたお話は我われの上長に間違いなく伝えます」
今、私が言えることは実際にこれだけだった。しばらく倫は泣いていたが、やがて弱々しく顔を挙げた。
「何の因果か……嫁いだ先は上様に謀反を起こしてつぶされ、今度は実の父が上様を討ち果たすなど……
またひとしきり、倫は泣いた。
「柴田が怖い。滝川が怖い。羽柴が怖い。それに、城介様以外の上様のお子様方もいらっしゃる。茶筅様も三七様も黙ってはおられないでしょう。それに三七様には丹羽がついている。しかしその三七様と丹羽とともに、珠の下の私のもう一人の妹が嫁いでいる
そこまで言って、倫は真っ蒼な顔になって伏せてしまった。あまりの重圧に卒倒してしまったようだ。
「お方様!」
我われはあわてて駆けよったが、抱き起こすなどということははばかられたので、近くにいた例の婦人を見たが気が動転しておろおろするばかりのようだった。
「どなたか! どなたかいらっしゃいませんか!」
私が大声で叫ぶと、しばらくして足音が響きやはり高貴な雰囲気が漂う若い女性が駆けこんできた。
「姉上!」
どうやら、倫のさらにもう一人の妹らしい。年齢は二十代のようなので珠よりは上の姉であろう。
「姉上、どうしました!?」
「お話をされていたのですが、急に気を失いました」
「医者を、医者をお呼び!」
妹は部屋の外に向かって叫んでから、我われを見た。
「今日のところはお引き取りください」
倫が心配ではあったが、そう言われたら下がるしかない。我われは座ったままお辞儀をしてから立ち上がり、部屋を後にした。
戻ってからそのすべてをオルガンティーノ師に報告した。
「そうか。明智の家はそこまで窮地に立たされているのだね。あまり先はないな。そんな家に味方しろと、ジュストにはとても言えない。荒木殿の時も、荒木殿はやがてつぶされると私は確信して、それで信長殿に戻るようにジュストには言ったんだ。明智殿も同じだ」
あの安土で会った珠のキリストの教えを聞く真剣な表情を思い出すとかわいそうではあったが、オルガンティーノ師がそういうのならそれがいちばんいいのだろう。それに、珠の夫の長岡殿が明智家に味方しない腹積もりならば、それはそれでいいことになる。
「はっきり言って明智殿は状況的にかなり危ない。それにあの狡猾そうな老人にも、あまり好感は持てないな。信長殿のように、多くの殿たちをまとめてこの国を治めていく器量があるとも思われない」
たしかにそうだと、私も思う。明智殿が信長殿を討った理由が私の推測通りだとすれば、政治的権力を手に入れようなどということが目的ではないことになり、そうなるとこれからあとどうするのかということもあまり考えていないのかもしれない。なにしろ、もう隠居しようなどと漏らしていたというではないか。
あの若い十五郎殿が後を継いだところで、何ができるわけでもないだろう。今この城を束ねていると聞いて気丈な女豪傑かと思っていた倫が、実はあのようにか弱き女性であった。
そうなるとむしろかわいそうなのはその倫の方かもしれないが、すべて『
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