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 翌朝早朝、1582年6月21日・木曜日、雨は降ってはいなかったが、空は曇っていた。

 我われは朝のミサの支度をしていた。同時に、私は旅支度だ。なるべく早く安土に着きたいので、ミサが終わり次第、ロレンソ兄と共に出発する。

 雨が降っていないとはいえいつ降り出してもいいような空模様だったので、降らないうちにということもあった。平日のミサは聖歌も歌わないし会衆もいない分、主日よりも早く済む。

 私は祭壇の上に布をかぶった聖杯カリスを準備し、朗読のための聖書ビッビャを朗読台に据えた。そしてろうそくに灯をともす。今日の司式はカリオン師だ。

 カリオン師は香部屋で、祭服に着替えている。私や修道士たちは祭壇の前の畳に座って、ミサが始まるのを待った。

 夏だから外は十分に明るいが、もし冬だったらまだ真っ暗で、星も出ているような時刻だ。

 思えば先週の今日、ここで安土の神学生たちも交えオルガンティーノ師の司式で、去年の高槻に比べたら盛大とはいえないまでも厳かに聖体の祝日コルプス・クリスティのミサが捧げられた。あれからちょうど一週間、早いものである。

 オルガンティーノ師に私が都に残ることを申し出たときに、一週間という期限を切っていたので今日安土に帰るのはオルガンティーノ師との約束でもある。また私自身、あの学生たちと接していないと心が落ち着かない。早く戻って彼らに会いたかった。

 その時である。外のわりと遠い所と思われるあたりから、大勢の人の足音が響いた。行軍とか言うものではなく、明らかに大勢の人が一斉にかけ足をしていると思われるような音だ。それがばらばらではなく、走っているとはいえ統率がとれたような音だった。でも、明らかに走っている。

 そのうち勇ましいときの声が聞こえた。

「どこかでけんかですかね」

 そう言いながらも一度祭壇に出てきたカリオン師は、もう祭服を着ていた。

 そこにちょうど外から入ってきて顔を出したのは、平日のミサでも毎日必ず顔を出す近所の熱心な信徒クリスティアーノの若い職人だった。

「なんかえらい騒ぎが起こってるようですさけ、御ミサは少し待った方がよろしいのとちがまっしゃろか」

「けんかですか?」

 と、カリオン師は聞いた。

「どないどすやろ。ただ騒ぎが織田様のお屋敷の方ですさけ、そのような場所での騒ぎとなるとこれはただの騒ぎと違って、どえらいことと違いますやろか」

「ちょっと見てきます」

 私は階段を駆け上って、教会堂の二階の外の周りにある外廻縁ソトマワリエンから、足音のした方を眺めた。やはり西の方角だ。視界を遮るのは本能寺の大屋根とその周りのこんもりとした森だが、その北側にある信長殿の屋敷の方が一段と騒がしかった。次から次へと大勢の人々の足音が、そちらへと向かっている。

 私はさらによく見えるようにと、三階に上がった。西向きの部屋はカリオン師の寝室だったがそちらに失礼し、その窓から外を眺めた。

 三階に上がってもさすがに足音を立てて走っている人々の群れの姿までは見えなかったが、何本もの旗が民家の屋根の向こうを信長殿の屋敷に向かって流れていくのは見えた。

 水色の旗だ。そこにカンパニュラのような花がディセニャーティ(デザイン)されている。日本の武士サムライでも大将クラッセ(クラス)の人々は独自の色とディゼーニョ(デザイン)の旗を持っている。信長殿は黄色に貨幣だ。だが、あの水色にカンパニュラの旗は見たことがなかった。

 ついに来たか、と私は思った。来る時が来てしまったようだ。私が予想していた通りのことが、今起きようとしているのかもしれない。

 だが、おかしい。

 ヤスフェが信長殿の屋敷には近づくなと言っていた。だがそれは、今日徳川殿が堺から都に来ることになって、その徳川殿が都に入った後ではという話だった。

 だからこそ、私はかなりの自信を持ってある仮説を立てたのだ。これから都で起こるはずのことについてヤスフェは口が堅く漏らしてはくれなかったが、私はかなりの確率で予想できたつもりでいた。

 なぜなら信長殿は前に安土で、一度は徳川殿を毒殺しようと試みたと私は推測していたからだ。

 しかし、今日徳川殿が都に来ることになっているとはいえまだ早朝だ。徳川殿がもう都に着いているなどということはあり得ない。まさか昨夜のうちに堺を出て、夜通し歩いて朝に都に着いたなどそのようなことも考えにくい。しかも、その必要もないだろう。

 そのうち、信長殿の屋敷の方での騒ぎは一段と大きくなった。兵士たちの鬨の声と剣戟の金属音も聞こえる。そしてそのうち、何発もの銃声がまだ明けきらぬ都の盆地の底に響いたのである。

 こうなると、騒ぎの声は兵士たちのみならず、民家から一斉に外に飛び出した住人たちの戸惑いどよめき合う声が響きだした。口々に騒ぎながら本能寺近くの民家の人々は悲鳴と叫び声とともに一斉に逃げてくるし、銃声に驚いた人々は何事かと見に行こうと一斉に走って本能寺の方へ向かう。

 その逃げてきた人々と見に行こうとしている人々がちょうど教会の門の前あたりでぶつかる形となり、騒ぎは一層拡大する。

 銃声は一発や二発ではなく、ひっきりなしに続いている。静かな朝を迎えているはずの都の真ん中で、何かとてつもないことが起こっているのだ。

 しかしそれは、徳川殿がまだ都には来ていない以上、私が予想したこととはまるで違う何か大きな、私の想定外の事態だ。

 とにかく私は階下に降りて、御聖堂おみどうのカリオン師に状況を説明した。もうここにも外の人々の絶叫と悲鳴と足音が響いてくる。

「門をしっかり閉めなさい」

 と、カリオン師は日本語で同宿に命じていた。

ロレンソ兄イルマン・ロレンソ!」

 私は畳に座ってミサが始まるのを待っていたロレンソ兄に聞いた。

「信長殿の家来で、水色の旗を使う人は?」

 ロレンソ兄は、ゆっくりと顔を挙げた。

「明智日向守様でございますな。水色に桔梗キキョーの花の御紋が入っていたはず」

桔梗キキョーとはどのような花ですか?」

「紫色の、花びらが五つある花です」

 まさしくカンパニュラだ。そうなると間違いない。明智日向守……その名前を聞いても、私は驚かなかった。むしろ、やはり……と思った。明智殿が軍隊を連れて今日都に来るであろうことは、私は十分に予想していたのだ。

 だが、早すぎる。こんなに早朝に来るはずがない。

 徳川殿がまだ都に来る前に明智殿が来るはずがない。はずがないことが今起こっている。

 いったい今何が起こっているのか……私はもうわけが分からなくなっていた。


 そのまま、戦闘は一時間ほど続いていた。銃声も絶え間なく聞こえてくる。ほぼミサの支度を終えようとしているところだったが、とにかく今は準備も中断して待機だ。そのうち焦げ臭い風が、開け放った窓から漂ってきた。私はもう一度、二階に上った。

 目を疑った。

 信長殿の屋敷は立ち上る炎と黒煙に包まれていた。黒煙は火の粉を飛ばしながら中天近くにまで登っていた。火薬の臭いと木材が燃える臭いが重なって、ものすごい臭いが屋敷の方からぶつかってくる。

 あの中で、信長殿は一体どうなってしまったのか……信長殿の屋敷には、今は軍隊は全くいないはず……それを思った時、ふと頭の中で何かがはじけた。

 この事態とは、まさか……。

 この国の今の状況ならあり得ないことではない。とにかく私は御聖堂に戻った。そして信長殿の屋敷が炎上していることカリオン師に告げた。

「今日の風の向きは?」

 カリオン師はすぐに、同宿の少年に聞いた。

「南からの風がごくわずか」

 と、少年は答えた。私も胸をなでおろした。それならばこちらの方へ延焼が広がる心配はない。いや、『天主ディオ』に絶対的信頼を置いている我われは、最初から心配などしていない。

 しかし、とにかく日本の家屋は木と紙でできているといっても過言ではない。一度火が付いたらあっという間に延焼して、一面が焼け野原となってしまうことなど珍しくはないと聞いている。

 だが、今日は風もほとんどないようなのでその懸念はなさそうだった。総てが『天主ディオ』のお仕組みである。

 その時である。耳をつんざくような爆音が響き、御聖堂の柱も畳も軋んで音を立てた。さすがに我われも「うわあぁ」と叫び声をあげてしまった。だが、爆音は一回きりだった。

 明智軍は大砲を撃ち込んだのかとも思った。だが、大砲の破裂音ではないようだ。何か火薬が一斉に爆発したという感じの音だった。

 皆で二階に駆け上がった。カリオン師は祭服のままだ。そして音のした方を見てあっと叫んだ。先ほどは猛火に包まれ勢いよく炎を吹き上げていた信長殿の屋敷の屋根がきれいに消えていた。先ほどの爆音で吹き飛んだらしい。もうあの中にいたら、誰も助からないであろうと思われるほどだった。

 騒ぎが収まるのはわりと早かった。

 午前七時ごろには、外はもう平静の静けさを取り戻していた。大騒ぎしていた町の人々も、三々五々と自分の家に戻っていったようだ。町にはまだ軍隊がたむろしている。こういう時は外を出歩かずに、自分の家にこもっていることの方が安全だと彼らは知っているのだ。

 火事の延焼は全くないようであった。ただ、こういったときは勝った軍隊は周りの民家を放火したり、残党狩りと称して民家を調べ、また略奪したりするのも常であったから家の中にいても人々の恐怖は並大抵ではなかったはずだ。

 そしてそのことは、我らが教会とて同じことだ。いつ明智の軍が我われの教会をも詮索に来ないとも限らない。

 それに、この教会の近くは静けさを取り戻していたとはいえ、まだ遠くから銃声は聞こえ続けている。戦いの場がよそに移っただけで、まだ事態は収拾してはいないようだ。

 その銃声は教会や本能寺の屋敷よりもずっと北の方で聞こえていた。

「祈りましょう」

 と、カリオン師は御聖堂に戻ってきて、そこにいた修道士や同宿に告げた。例の信徒クリスティアーノの職人は、

「え? こないな時にも御ミサをやらはるんどすか?」

 と、目も丸くしていた。だが、カリオン師は静かに言った。

「このような時だからこそ、祈るのです。我われが無事であったことの感謝と、多くの人々が血を流したことでしょう。彼らは異教徒ですが、皆等しく『天主デウス』の子であります。彼らの霊魂のためにも心静かに祈るのです」

 こうして、時間が引き延ばされていたミサがようやく始まった。ミサの間中も、遠くの銃声は聞こえ続けていた。

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