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 その日の夜、夕食も終えて終課コンピエタまでの時間を思い思いに過ごしていい時間帯の頃、教会の門をたたく音が聞こえた。同宿が取り次ぎに出ると、すぐに巨大な黒い人影を連れて同宿は司祭館に戻ってきた。

 文字通り黒いその人影は、ヤスフェだった。

「おお、よく来られたね」

「仲間の小姓の目を盗んできました」

 少しだけヤスフェは笑った。

「いやあ、お姿を見たときは驚きました。どうしてコニージョ神父パードレ・コニージョ様が都にいらっしゃるのですか?」

オルガンティーノ神父様パードレ・オルガンティーノたちとともに聖体の祝日コルプス・クリスティを都の教会で祝うために、神学校セミナリヨの学生たちもともに来ていたんだ。オルガンティーノ神父様パードレ・オルガンティーノも学生たちも、もう安土に戻ったけどね。私はどうも気になることがあって、都に残った」

「気になること……ですか?」

「信長殿のことで少し」

 それを聞いたスフェの顔が急に真顔になった。

「実は皆さんにお話があったので、それで来たのです」

 ヤスフェはまだほんの先ほど都に着いたばかりのはずのなのに何事かと思ったが、とにかく彼を中に入れて部屋に座らせ、カリオン師と私が対座した。

 だがヤスフェは何かを語ろうとしているが、どうもためらいがあるようだった。私は息をのんで身を乗り出した。そしてこの、我われの仲間であって信長殿の家来でもある異国人の顔をした日本の武士サムライをじっと見た。私が知りたいことを、彼はこれから話すのかもしれないという期待もあった。

「実は」

 と、もう一度彼は言った。だが、

「今回の上様の上洛は……上洛は……」

 話はそこで止まってしまう。

「今回の上様の上洛は……」

「毛利との戦争へ自ら出陣するためと聞いてはいるが」

 あまりにもヤスフェの歯切れが悪いので、私の方から切り出してみた。

「毛利と戦っている羽柴ハシバ筑前チクゼン殿から援軍を請われて、それで上様自ら出陣なさる……」

 それから少しの間、沈黙が漂った。

「確かに……今週中には播磨ハリマに向けて上様は出陣なさる……。でも実は、それは表向きのことです。実際に播磨へは出陣されるおつもりですが一度安土にお戻りになって、そこからあらためて出陣されるでしょう」

 たしかに甲斐での戦争の時は安土から大勢の軍隊を率いて華々しく出陣して行った。それが播磨への出陣は手勢もなく小姓たちだけを連れてこっそりと都に入って、そしてここから出陣というのもおかしな話だ。

 それが安土に戻ってそこから再び華々しく出陣ということなら、一応は謎は解けたともいえる。

 しかし、新たな謎が浮上する。では信長殿は何をしに都に来たのだろうか。しかも、安土で会った時も先ほども、信長殿はしきりに我われに早く安土に帰るよう促している。これからこの都で、何が起こるのか……。

「ヤスフェ。君なら知っているだろう? 君は今、信長殿にいちばん近いところにいる。信長殿が何をしに都に来られたのか」

「これから都で何が起こるのかね?」

 と、カリオン師も不安な表情でヤスフェに訴えかけた。

「やはり、私の口から何もかもをはっきりということはできません。ただ、今日こうして来たのは、この教会はあまりにも上様のお屋敷から近い。あさってくらいには堺にいる徳川三河守殿も再び都に来ます。神父様方パードレス、できればその前に都を離れた方がいい」

「都を離れるといっても、私はこの教会を任されているからねえ。オルガンティーノ神父様パードレ・オルガンティーノの許しがなければ勝手に離れることはできないよ」

 と、カリオン師が苦笑混じりに言った。

「では、あさって徳川殿が都に来たら、そして徳川殿が上様のお屋敷に入ったら、くれぐれもお屋敷には近づかないでください。できれば、この教会から一歩も外に出られない方がいい。そして門を閉ざして、何者をも入れないように」

「何が起こるのです?」

 私の問いには、ヤスフェは首を横に振ったままで答えなかった。

「これ以上は言えません」

 そしてヤスフェは、すくっと立ちあがった。

「他の小姓たちの目を盗んで抜けて来ていますので、早く帰らないとまずい。これで失礼します」

 そして深々と一礼すると、ヤスフェは夜の闇に消えた。


 ヤスフェの態度から、信長殿が今回都に来たのは徳川殿とどうも関係がありそうだった。

 そしてその深夜、我われはおびただしい人の足音が都の道を通り過ぎるのを聞いた。

 跳ね起きてすぐに窓から見てみると、足音は教会の東、室町通りを南から北へと向かっていた。本能寺にある信長殿の屋敷とは反対だ。寝室は三階なので、その窓からは遠くまでよく見える。大きな松明たいまつの光がいく本も、人の群れの流れを知らせているようであった。

 私の背後から、カリオン師も起きてきてのぞいていた。

「あれは……徳川殿の軍隊……?」

 それならば、こんな夜更けに、しかも室町通りを北へ向かうはずがない。

「いや、あれは城介勘九郎殿だな」

 室町通りを北へ行くなら、そこには勘九郎殿の常宿の妙覚寺がある。

「しかし、なぜ……」

 勘九郎殿は徳川殿とともに、今は堺にいるはずだ。しかも、今朝堺に向けて出発していったばかりだ。それが今頃都に戻るとは、堺に着いたらとんぼ返りで戻ってくるか、あるいは途中で引き返して来たとしか思えない。

 そうなると、徳川殿も……?

 しかし、ヤスフェは、徳川殿が都に戻ってくるのはあさってといった。ヤスフェの言うことだから適当な予想ではなく、しっかりとした裏付けがあってのことだろう。

 そのまま気になってなかなか眠れないままに朝を迎えた。

 早速同宿の少年を本国寺に走らせてみた。だが、そこに徳川殿が戻って来たような様子は全くなかったという。

 

 朝のミサが終わり、ふと私はもう一つ、あることに気がついた。

 それは昨日信長殿が馬上から、今日太陽が半分かけるということを言っていた。だが、空を見上げても無駄だということは、朝から分かっていた。

 朝は雨が降っていた。たとえ本当に太陽が半分かけていたとしても、この雨空では見えるはずもない。だから、信長殿の言っていた通りに太陽が欠けたのかどうかは観測できなかった。

 皆既ならたとえ雨天でも皆既の時間帯は周りが急激に夜のように暗くなるという話を聞いたことがある。しかし、半分欠けただけなら明るさは全く変わらないだろう。

 どうしても晴れて、その目で確かめないことには分からないことだった。ここの日食が起こるかどうかによって信長殿の暦改編の意見の根拠になるはずだったのだから、信長殿にとっては分が悪いことになったはずだ。

 雨だったことを悔やんだとしても、こればかりは『天主ディオ』の思し召しである。

 そうなると私は再び信長殿の動向が気になりだした。教会の二階に上がって外廻縁ソトマワリエンから本能寺の屋敷の方を見ても、その東側の西洞院通りを信長殿の屋敷に向かう公家クゲの牛が引く車が何台も通るのが見える。

 この国の貴族たる公家クゲたちが、次々と信長殿にあいさつに訪れているのであろう。今や信長殿は右大臣を辞めて以来何の官職もなく、家督すら勘九郎殿に譲って隠居インキョの身であるにもかかわらず、依然として信長殿が天下人テンカビトであることをその公家クゲたちの来訪は物語っていた。

 そこで私は、とうとう会いそびれたと思っていた勘九郎殿に会いたくて、同宿をアップンタメント(アポ)をとるために走らせた。すると戻って来た同宿が言うには、勘九郎殿もあいさつのために本能寺の屋敷に信長殿を訪ねているという。

 昨夜は夜更けに都に戻って来たのだから、今日になってその父にあいさつに出向くのは当然である。

 そして夕方近くになってようやく妙覚寺に戻って来たようなので、私はまたロレンソ兄とともに出かけた。

 もうこの頃は雨も上がり、晴れ間さえ出ていた。悪魔崇拝の場とされるテラの門をくぐることになるが、別に勘九郎殿は本堂にいるわけではなくテラの関係者の屋敷に方にいるはずだから構わないと、私はこだわらないことにした。

「父上の屋敷で茶会があって、公家たちとずっと茶の相手をしていて不在で申し訳なかった」

 勘九郎殿は上機嫌だった。思えば昨年、ヴァリニャーノ師とともに面会した時以来である。

「バテレン殿、聞いてくだされ。わしは征夷大将軍になることになった」

「お」

 それで彼は上機嫌なのだ。

「つまり、公方様クボーサマになられるということですね」

「さよう。本来は父が朝廷より具申されていたが、それを私に譲ってくれることになった」

 そういえばヤスフェから、信長殿に高い地位をミカドは与えようという連絡があったことを聞いていた。信長殿の返事は保留ということであったが、そういう決断を彼はしたのだ。

「それで急遽、堺から戻られたのですね」

「父から急に呼びもどされた。なんだろうと思っていたら、このことだった。しかし、父に都を追われて今は毛利領にいる足利義昭が今でも征夷大将軍のままだから、その任を解いてからということになるので少し時間はかかるそうだが」

「いすれにせよ、おめでとうございます」

 勘九郎殿は、満足そうにうなずいていた。

 ここだ、と私は思った。だが、露骨に切りだしたりはしない。

「では、お父上が今回都に来られたのも、その件のためでしょうね」

 私が探りを入れるような言い方をしたが、さすがに勘九郎殿は怜悧である。一瞬だけ真顔になったが、すぐに元の上機嫌に戻り、

「さよう、さようでござる」

 と、言った。これは嘘だなというのが、私の勘だった。勘九郎殿の征夷大将軍任命の件で勘九郎殿が堺から呼び戻されたというのは本当だろう。しかし、その同じ件で信長殿が安土から都に来たのだというのはどうも怪しい。

 勘九郎殿の一瞬の顔の曇りを、私は見過ごさなかった。やはり、勘九郎殿も何かを隠している。だが、ここで追求したら場がしらけるし、あまり首を突っ込みすぎるなというオルガンティーノ師の言いつけにも背くことになる。とりあえずはそういうことにしておこうと思った。

 そうしたら、勘九郎殿はまた少しだけ真顔になって、

「バテレン殿はいつまで都におられるのか」

 と聞いてきた。

「いつまでとは決めてはおりませんが」

「早々に安土に戻られた方がよい。明日、徳川三河守も堺から都へ来る。その到着前には都を離れられよ」

 ここまで判を押したように信長殿からと同じことを言われると、これはもう確信となる。

 帰り道、私はロレンソ兄に、

「徳川殿が都に来たら、何かかなり大きな出来事が起こるようですね」

 と、言った。

「また、血が流れますな」

 ロレンソ兄も、十分私と同じことを感じていたようだ。だから、私も意を決した。血を見るのはごめんである。

「明日、ミサが終わったらすぐに都を離れて、安土に帰りましょう」

「私も、それがよいと思います」

 ロレンソ兄も賛成のようだった。

 明日、都で何が起こるか分からないが、いや、起こるであろうことはもうこの時点でだいたい察しがついていたが、そのことによって信長殿の地位は安定し、速やかに権力を征夷大将軍となった長男に移行させることによって織田家の将来も安定したものになるはずだ。

 それならば安土で、信長殿の帰りを待とうと私は思った。

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