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 二日後、ヴァリニャーノ師は戻ってきた。我われ司祭一同が教会の敷地の門まで出迎えると、緊張でこちこちになった数人の日本人少年の姿がそこにあった。

 そのうち、ミゲルとマンショは顔を見てすぐに分かった。何しろミゲルはその受洗式に私は立ち会っているのだ。あとの二人ははっきりと顔は覚えていないが、私が有馬にいた時に見たような気はした。

 四人とも髪はこの国の男子独特の束ねた髪ではなく、神学校セミナリヨ入学時点で仏教の僧侶と同じように剃髪しているので、今はそれがそのまま伸びてちょうど我われエウローパの男性と同じような感じになっていた。

 一行は早速御聖堂おみどうで到着の祈りをささげた後、その場に教会の全司祭と修道士は集められた。

 すぐにヴァリニャーノ師から、一行の紹介があった。

 まずは正使の千々石ミゲルと伊東マンショ、そして副使となる原中務ハラ・ナカツカサの息子のマルチノと中浦甚五郎ナカウラ・ジンゴローの息子ジュリアンの四人が紹介され、拍手の中で四人とも表情をこわばらせていた。

 そしてミゲルが驚いたことにラテン語で堂々とあいさつをした。ラテン語ばかりでなく、四人ともポルトガル語を解するようだった。

 他に有馬にいた日本人修道士のジョルジュ・ロヨラ兄も随行員としてともにローマまで行くことになった。二十歳前後の若者だ。

 さらには安土から到着したばかりのメスキータ兄も、教育係としてローマまで彼らを連れていくことになった。

 メスキータ兄はマカオで叙階を受けることになっており、そのためマカオまでヴァリニャーノ師と同じ船に同乗することになっていた。そのつもりで彼も安土から長崎に来たのだろうが、話は転がって、マカオで司祭に叙階されてからはそのまま四人の少年とともにローマまで行くことになった。

 彼も今回長崎に着いてから初めてこの話をヴァリニャーノ師から聞かされ、大変驚いているということだった。

 他にも日本人少年が二人、コンスタンチノ・ドラードとアウグスチーノといい、四人の使節団よりは少し年上のようだったがそれでも二十歳になったかならないかくらいの若者だ。

 彼ら二人は神学校セミナリヨでは印刷技術を学んでおり、さらに進んだ印刷技術を習得して日本に伝えるという目的でこの使節団に加えられたという。

 彼ら一行は出発までこの教会の司祭館で我われと寝食を共にする。なにしろ彼らとて今回ヴァリニャーノ師が有馬に行ったときに初めてこのローマ行きの話を聞いたことになるが、その驚きは身にしみてわかる。

 自分が日本へ行くことをローマで聞いたときとちょうど方向は逆だが同じ立場だからだ。しかも、私が日本へ行けと言われた時よりも、彼らはずっと若いのである。

 こうして新しいメンブロ(メンバー)が加わっての生活となったが、四人の少年が流暢にポルトガル語を話すのには驚いた。この頃もヴァリニャーノ師は記録や書類のため自室にこもることがほとんどだったが、ある機会に顔を合わせた時に、

「彼らはローマに行くのですから、イタリア語も学ばせた方がいいのでは」

 と、半ば冗談で言うと、ヴァリニャーノ師は笑った。

「その必要はないね。私は彼らをあまりローマの一般市民とは接触させたくはない。ローマの市民にもろくでもないのはいるからね。だから、通訳としてメスキータ兄イルマン・メスキータを同行させるのであって、彼らはイタリア語は知らない方がいいんだ」

 まあ、なるほどなという感じで私は聞いていた。

 

 そのような感じで月日は過ぎ、ヴァリニャーノ師の離日の日は刻一刻と近づいていった。そんな慌ただしい日々の中で、大村の殿ドン・バルトロメウがヴァリニャーノ師への最後の挨拶ということで長崎に来た。彼ら二通の書状を携えていた。

 あくまでドン・バルトロメウの代理としてのローマへの使節なのだから、そのドン・バルトロメウのローマ教皇宛ての親書を携えていないと使節にはならない。

 そのことをすでにナターレの時にヴァリニャーノ師より聞いていたらしく、まずはドン・バルトロメウの親書だった。

 もう一通は彼の甥で有馬の殿であるドン・プロタジオの親書であった。先日、ヴァリニャーノ師が有馬を訪れて使節のことをドン・プロタジオに話した際に、親書のことも併せて伝えた。

 しかしドン・プロタジオは教皇様宛の手紙など恐れ多くて手も震え、うまく書ける自信がないとのことで、叔父のドン・バルトロメウに代筆を依頼していたとのことだった。

「もうひとつお願いがあるのですが」

 と、親書を預かるために受け取っていたヴァリニャーノ師は、司祭館の一室でドン・バルトロメウに依頼したことがある。

 それは、さらに豊後のドン・フランシスコの親書をも代筆してほしいとのことだった。すでにドン・フランシスコにはこの使節団を派遣する旨、伊東マンショをドン・フランシスコの代理とする旨などを伝えるよう臼杵の修練院ノヴィシャドのラモン師に手紙は送っているが、その手紙を届ける同宿が豊後にもう着いたのやらまだなのやら全く分からない。

 何しろマンショをドン・フランシスコの代理にということは、完全に事後承諾になってしまう可能性もある。ましてやドン・フランシスコの親書がヴァリニャーノ師の出港まで間に合うという保証はない。そこで、安全策としてヴァリニャーノ師はドン・バルトロメウに代筆を頼んだのだろう。

 三人の親書がたとえ同じ筆跡であったとしても、教皇様のお目に触れるのは原本ではなく翻訳されたものになるはずだから問題はないとのヴァリニャーノ師の判断だ。もっとも原本を見ても、この黒い墨が紙の上で文様を書いているようなこの国の文字の、その筆跡がどうのこうのまで分かる人はあちらにはいるはずもない。

 そういったことでドン・バルトロメウは快くドン・フランシスコの書状の代筆も引き受けてくれた。

 そのあとで、四人の使節のうちドン・バルトロメウとかかわりのあるミゲル、マルチノ、ジュリアンの三人は、一室で会見していた。

 ミゲルにとっては叔父だが、他の二人にとっては親が仕えている領主、すなわち殿トノなのである。その殿と同じ部屋でひざを突き合わせて語り合うなど、本来ならあり得ないことなのだろう。ミゲルに関しても、この使節に選ばれてから初めて、自分が代理を務める叔父との対面なのだ。

 彼らがどのような話をしていたのか、彼らだけの水入らずで過ごしていた時間なのでそれは分からない。ただ、終わって出てきたときミゲルは泣いていたし、ドン・バルトロメウも頼もしそうな目つきで彼らを見ていた。

 

 数日の滞在後、ドン・バルトロメウが大村に帰ると、長崎の町全体が慌ただしくなった。

 この国における正月が始まるのだ。

 それは我われのカレンダーリオでいうところの一月二十四日だった。町の人々も信徒クリスティアーノとはいえ日本人なのだから、当然この正月を祝う。

 それを、その正月をやめて我われのカレンダーリオで正月を祝えなどと言ったら、これがヴァリニャーノ師の適応主義に反する。

 普通、日本人は正月には神社仏閣に大量に押し寄せて拝むものだ。全員が信徒クリスティアーノである長崎市民はさすがに神社仏閣には行かないが、その代わり大挙して教会に祈りにやってきた。

 もちろんヴァリニャーノ師は、その日は正月の祈りをしに来る長崎市民のために終日聖堂を開放した。典礼暦では我われのカレンダーリオでの一月一日は主の御割礼の祝日のミサがあるが、日本の正月は全くの平日である。

 だが特別にその日の平日のミサは、彼らのための正月のミサとなった。主の御割礼の祝日のミサはあってそれには参列しても、正月だからといって皆がこぞって教会に行くという習慣はエウローパにはないのでどこか新鮮な光景だった。

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