3
そんな喧騒の中で、私はヴァリニャーノ師に自室に呼ばれた。いつになく険しい顔つきのヴァリニャーノ師だった。
「そろそろ決めておかないとね」
イタリア語だった。そう言われて、私ははっと気付いた。これまではヴァリニャーノ師の腰巾着としてずっと行動を共にしてきたが、ヴァリニャーノ師がいなくなった後はどこかの教会に所属して落ち着かないといけない。
今までは漠然とこのまま長崎に居続けるような気でいたが、そういうわけにもいかないだろう。
「ところで、君の希望はどうかね?」
これには驚いた。普通イエズス会では、所属教会は上からの命令一つである。自分で希望は出せないはずだ。上とは、ヴァリニャーノ師がいる間は
私は一人一人の顔を思い浮かべた。
そして豊後布教区は当面代わりが日本へ来るまでの間はあのカブラル師だ。もし命じられたのならそれは『
そして都・安土布教区の布教区長はあのオルガンティーノ師だ。同じイタリア人ということだけでなく、あの陽気で気さくな、そして包み込むような人柄、さらには心からこの日本を愛していることなど、そのお顔を思い出しただけで私の胸は躍りだした。もはやためらいもなく、
「私は安土、もしくは都に戻りたいと思います」
と即答していた。ヴァリニャーノ師もにっこりと笑った。
「それがいい。私があなたと同じ立場で、同じように尋ねられても都を選ぶだろうね」
ヴァリニャーノ師も最初からそのつもりだったようだ。
「それだけでなく、これから日本で福音宣教するに当たっては日本の仏教や神道についても深い造詣が必要となる。それを学ぶのに最もふさわしい町は都であるし、その手ほどきをしてくれる最高の司祭は
「それともうひとつ。やはり今後の日本の福音宣教の鍵を握るのは、あの信長殿だと私は思います。そのためにも安土か都にいた方が何かと先が見えてくる気がするのです」
「分かった。では、イエズス会総長の代行たる
「ありがとうございます」
「あとは安土と都を適宜往復するのも、たまには高槻に顔を出すのも、布教区長の
「はい」
こうして、今まで先が見えずに悩んでいた私の行く先が照らされた気がした。
それから、ヴァリニャーノ師の表情も和らぎ、口調も穏やかになった。
「ここだけの話だけれども、私としてはやはりあのとき
「はい。大丈夫です」
私は大きくうなずいた。
「前にも言ったけれど、総長がなぜ私を
「そんな、均衡が破れることはあるのですか?」
「世の中、何が起こるか分からないからね。その点、イタリアには領土的野心がない。野心を持とうにも国がない。イタリア王国滅亡以来、私のナポリ王国や君の生まれた教皇領、そして
たしかにゴアでもマカオでも、そこにポルトガルの町がほとんどできていた。日本でも長崎をそうしたいらしいが、そこでヴァリニャーノ師が「長崎はあくまで教会の私有地であって領土ではなく、ましてやポルトガル領などではあり得ないし、またそうしてはならない」と何度も力説して、くぎを刺してきたのだろう。
「だから
「はい」
決意の返事だ。
「どうも
それから一度ヴァリニャーノ師は立ちあがって、部屋の書棚から一冊の古い本を取り出した。
「さっき、もしスパーニャとポルトガーロの均衡が破れたらどうなるかということを言ったけれど、日本でもこのような恐ろしいことが起こりかねない」
表紙にはスパーニャ語で「|Brevísima relación de la destr《インディアスの破壊についての簡潔な報告》ucción de las Indias」と書かれていた。
「これはドミニコ会のスパーニャ人司祭の
中身はスペイン語だが、ポルトガル語を知っていればなんとか拾い読みはできる。
私はしばらくそのそう厚くはない本を少しめくり、それから顔をあげた。
「それと、一つお願いが」
「それと君に知らせておきたいことが」
私の言葉とヴァリニャーノ師の言葉が重なったので、私は言葉をヴァリニャーノ師に譲った。
「ああ、君の友達だったマテオ君。今は叙階して
「え?」
私は眼を見開いた。
「実はさっき言いかけたのは、ローマへ行く途中にゴアに寄られたら、ぜひマテオによろしく伝えてくださいと頼もうとしたのですよ」
「そうか」
ヴァリニャーノ師は笑った。
「もしかしたらその手紙は今頃ゴアに着いた頃かもしれないけれど、もし私がマカオにまだいる間に彼がマカオに来たら伝えておくよ。間に合うように来てくれたらいいのだけれどね。彼にはこれから、チーナの福音宣教に当たってもらおうと思っている」
「ゴアではなくて、ですか?」
「そう。チーナでの福音宣教も、日本と同様に大事だからね」
思いもかけず懐かしい名前が出たので、私は心が温かくなるのを感じていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます