Capitolo 5 長崎の鐘(La campana di Nagasaki)

Episodio 1 ひとり立ち(Arima)

1

 到着した夜は有馬の神学校セミナリヨの司祭館で、巡察師ヴィジタドールヴァリニャーノ師を中心とした我われ一行の帰還を祝する夕食会が行われた。

 日本に来てからこの有馬に住んでいたのはわずか数カ月、そしてここを離れていたのは一年と二カ月近くになる。それでもなぜか懐かしさを感じてしまうのはなぜだろうかと思う。

 当然のことながら、一年ちょっとでそんな大きな変化があるわけもなく、我われがいた頃とこの有馬は、神学校セミナリヨも町の様子も何ら変わりはなかった。

 その神学校セミナリヨからは学生たちの元気な声が今も変わらず聞こえてきていたし、我われの船が港に着いた時は信徒ばかりでなく神学校セミナリオの学生たちも皆、総出で出迎えに来てくれた。彼らの顔つきに、ほんの少しではあるが成長の様子がうかがわれた。

 ヴァリニャーノ師は夕食会の前に早速連れて来たトマリのゴンサーロ・ヴァスの息子、鹿島ペトロを学院長に預けた。学院長は私と同世代のイスパニア人で、かつて初めて私が日本に来た時に長崎で会ったことのあるメルヒオール・デ・モーラ師という司祭だった。今では長崎からこの有馬に来て、神学校セミナリオの学院長となっている。

 この日は口之津からバルタザール・ロペス師も駆けつけてきてくれていた。ほかにクリストヴァン・モレイラ兄など修道士も数名いて、それらの人々が我われの歓迎宴を開いてくれたのである。モレイラ兄は、以前臼杵にいたのを覚えている。若い、まだ二十代の修道士だった。

 夕食会ではヴァリニャーノ師の独演場で、豊後のことから都、安土、特に信長殿との会見の模様などが事細かに語られていた。それを時々フロイス師が補足するという形だった。

 そしてこの席で、安土から持ってきた信長殿よりもらったあの安土城が描かれた屏風が披露され、人びとは息をのんだ。

「この屏風は、長崎に持っていってしまうのですか? できればこの有馬に」

 とモーラ師が言ったが、ヴァリニャーノ師は笑って首を横に振った。

「これは私がローマまで持ち帰り、教皇様パーパに献上致します。信長殿はイエズス会にこれを下さったのではなく、広くエウローパの人びとに日本を知らしめるためにということでくださいましたから、日本に置いておいては意味がありません。日本のことをいくら言葉で説明しても彼らは理解しないであろうから、いっそのこと絵で見せてしまえという感じですね」

 そのヴァリニャーノ師の説明には、皆納得していた。

「我われの修道会は日本にキリストの教えを伝えるという目的でここまで来ています。しかし、私はこれからローマに帰らねばなりません。そうなると私にはもう一つの使命が加わります。つまり、逆に日本のことをエウローパに知らしめるということです。できれば、日本の信徒クリスタンを何人か連れて行きたいくらいなのですが」

 またそのことを言われると、私にとってはヴァリニャーノ師との別れが近づいていることをいやでも痛感させられてしまう。

 そんなやり取りの中で一同を見まわし、この中にある人物がいないことを私は確認していた。

 臼杵まで戻ってきた時はカブラル師と会うのが少し緊張だったが、ここではコエリョ師と顔を合わせるのが気が重いなと思っていたのだ。

 どうも私の中では、カブラル師とコエリョ師はひと括りの中に入るような印象を持っている。ポルトガル人だからということではない。それならほかにもポルトガル人はたくさんいる。いや、この国におけるイエズス会では、ポルトガル人がいちばん多い。

 そういうことよりも、やはりヴァリニャーノ師とカブラル師が衝突したことで、カブラル師とコエリョ師に対する印象を持ってしまっているらしい。

 しかもその場所が、今日帰って来たばかりのこの場所、有馬だったからだ。コエリョ師は表立ってヴァリニャーノ師とぶつかったわけではないが、どうもカブラル師の背後に常にコエリョ師が控えていたような印象なのである。

 二人は何か通じあっていると、私はあの時から実感していた。

 だが幸いなことに…と言ってしまうとコエリョ師に怒られてしまうだろうが、コエリョ師は有馬にはいなかった。気になったのでそっとモーラ師に聞いてみると、彼は今は長崎だという。

 また怒られるかもしれないが、私は少し安心したのも事実である。しかし、間もなくヴァリニャーノ師は日本を離れ、その出航は長崎からであるから、我われも間もなく長崎へ行かねばならないことになるのは分かっている。

 そんなことを考えながら、私は食事をしながらほとんど口をはさむことなくヴァリニャーノ師の話を聞いていた。

 ここに帰りついてからあらためて都、安土の巡回の話をまとめて聞くと、すべての出来事が夢の中で過ぎ去ったことであるかのようにも感じる。

 そして自分の中でも、この一年余りのことを反芻してみた。何かため息とともに、脱力感さえ感じる。

 その脱力感を抱えたまま、夕食後、就寝までの間に私は司祭館の庭に出てみた。まだ寒いというほどではないが、それでも夜はかなり冷えるようになってきていた。

 月はない。だから、それだけに降るような満天の星を見ることができた。そんな星空の下の庭に座り込んで、私は漆黒の闇を見つめていた。

 ヤスフェと初めて会ったのも、こんな闇夜だった。そのヤスフェとも、今は安土と有馬で離ればなれである。

 私はもう一度、都や安土でのことを振り返ってみた。

 福音宣教という観点からすると、私が日本に来るまでにイマージネ(イメージ)していたのとはだいぶ勝手が違った。まるで草を分けるようにキリストの教えをまだ知らない人びとの家を訪ね歩き、イエズス様が弟子たちを二人ずつ派遣したように家から家へと渡り歩いて教えを述べるような自分の姿を想像していた。

 だが実際はどこへ行ってもすでにおびただしい数の信徒クリスティアーニに迎えられ、歓迎され、本当にあの高槻での復活祭はローマさながらだった。

 福音宣教といえでも、すでにほとんどお膳立てはできていて、まだキリストを知らない人によき知らせを伝えるといっても、どんどん向こうから求めて近づいてくるのだ。楽な福音宣教だったことをも思い出して、やはりため息がついた。

 しかし、かつてこの国でも私が想像していたような文字通りの福音宣教をして、道を開いてくださった諸先輩がいたからこそ、今の状況があるのだなとも感じていた。

 とりわけ、たった一人からこの国に灯を点じたザビエル師の足跡そくせきをたどることもできた今回の旅で、その苦労を垣間見ることはできたような気もする。

 そういった先人たちの苦労と苦難があってこそ、今では信徒数十万という基盤がこの国にはできていたのだ。自分はそれよりずっと遅れてやって来て、すでに基盤が確立している中での楽な福音宣教だった。

 教会もある。ミサの道具も揃っている。司祭もかなりの数がいる。そして何よりおびただしい数の現地日本の信徒たちクリスティアーニの社会が存在する。

 もちろん少しは私にも苦労はあって、それは臼杵でのジェザベル、高槻で石を投げられたこと、都の柳原殿の屋敷での門前払い、室津の洗礼志願者との齟齬などだが、そのようなものは先人の苦労に比べたら物の数ではない。

 たった一粒のシナピスのたねとなってこの国でたくさんの実を結ばせたザビエル師、さらに世界規模で究極的にはたったお一人で人びとの救いに立ち上がられたイエズス様……それを思うと、私は自分が恥ずかしくなった。

 ましてやこれまでは、私は昔の共感というよしみで総長代行の巡察師であるヴァリニャーノ師に腰巾着エンクマンのようにくっついていただけだ。

 そして残酷な現実が、すぐに私の頭をよぎる。間もなくヴァリニャーノ師は日本を離れる。私は残る。これから先はヴァリニャーノ師なしで、本当に自分の足で歩いてこの国で福音宣教をしなければならないのだ。

 それを思うと、思わず全身が震えた。

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