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 戻った私は早速のヴァリニャーノ師に報告した。

「そうですか。御苦労さまでした。でも、よくやりましたねえ」

 と、ヴァリニャーノ師も満面の笑みで喜んでいた。

 ジアンの母と祖母は、翌日とさらにその次の日に詰め込んで公教要理カテキズモを学ぶことになった。講師として、ヴァリニャーノ師はフロイス師を指名した。と、いうか、それ以外に選択肢はなかった。日本語ができて、公教要理を教える資格がある司祭といえば、一行の中にはフロイス師しかいなかった。

 翌日我われ全員でフロイス師と共にジアンの家に行くと、驚いたことにジアンの祖母と母だけでなく、祖母たちがうわさを広めたせいか村人たち十五人がそろって洗礼を志願するということだった。彼らは全く初めてではなくこれまでもジアンがさんざん福音の話は聞かせていたので下地ができていた。

 こうして我われが内之浦に戻った三日後、合計十七人に、ヴァリニャーノ師の手によって洗礼が授けられた。

 その夜、明日はいよいよ本当に内之浦とはお別れだということで、夕食後に我われは一室で晩課ヴェスプリの祈りの後で簡単な打ち合わせをしていた。その祈りの間も、私は喜びに満たされて有頂天だった。

 そして打ち合わせの途中で、例によって表情も変えずにフロイス師が私の名を呼んだ。

「あなたがあの老婆と母親に教えを説いて目を開かせた過程、ヴァリニャーノ神父パードレ・ヴァリニャーノに報告されたことは私もそのまま聞いています。しかし、私はもう少し詳しく知りたい」

 そこで私は、ありのまますべてではないにしろ、ヴァリニャーノ師に報告したのよりかは少し詳しく話した。聞いているフロイス師の表情は硬かった。

「ずいぶん独創的なやり方をされるのですね」

 と、フロイス師は言った。

 たしかに、これまでの、特にフロイス師が長年都や安土で異教徒に対して行ってきた方法は、とにかく論争して論破するというやり方だった。キリストの教えは絶対であるというフロイス師の自身から出たやり方だろう。

 それに比べたら、私は確かに正反対の方向で行った。こちらから頭を下げ、相手のことを教えてもらうということから出発した。私には、あの室津での苦い経験があったからだ。

 しかしさらに、フロイス師は言った。

「あなたのやり方には問題がある。この方法は他の修道会の人が聞いたらどう思うか。いや、このイエズス会の中に於いてでも問題とせざるをえない。はっきり言って邪道だ」

 いくら年長の、それも大先輩の言葉だからとはいえ、さすがに私もムッとした。フロイス師は私の直属の上長ではない。しかしそれは抑えて、

「では、私のどこがいけなかったのでしょうか。なんとか洗礼まで持っていけましたが」

 と尋ねた。

「結果さえ良ければ、方法は問わないというわけにはいかないのですよ。巡察師ヴィジタドールが言われた言葉をお忘れですか? 適応主義とは決して妥協することと同義ではないと。あなたのやり方は間違っている!」

「私は妥協したつもりはありませんが」

 たしかに今回も私は自分の頭で何も考えることなく、ほとんどいうべきこと、必要なことは勝手に口をついて出た、つまり『天主デウス』様が私の口をお使いになって語っておられるという感覚だった。

「我われは異教徒を改宗させるのはよいが、異教徒と妥協してはならない。むしろ異教徒の祈りの場や神殿などはことごとく破壊しなければならないのだ。ましてや悪魔崇拝のテラなどはすべて破壊するべきだ」

「まあまああまあ」

 そばで聞いていたヴァリニャーノ師も、笑みを浮かべながらその場に割って入ってくれた。

コニージョ神父パードレ・コニージョも一所懸命だったのです。厳密にカトリックの教えに沿って導いたところで、それが相手にとって不快であって教会に来なくなったら結局はその人を救ったことにならない。救われなければ何にもなりません」

 救われなければ何にもならない――私にはこの言葉が胸に染み透った。いや、はらに落ちた。やはりヴァリニャーノ師も、かつての室津でのことに関する私の報告を忘れてはいないらしい。

「仏教では一向宗は『阿弥陀如来アミダニョライ』だが、宗派によっては『大日如来ダイニチニョライ』を最高仏とする宗派もありますから、かつてザビエル神父パードレ・ザビエルも『天主デウス』を日本語で『大日ダイニチ』と呼ばれたこともありますね」

 そのヴァリニャーノ師の言葉を、フロイス師は遮った。

「しかし、イエズス会の方からヘクラマッセオ(クレーム)がついて、結局ポルトガル語そのままのデウスでいくことになったのではなかったですか」

「あなたがこれまでいろいろ記録していることに関しても、異教徒に対して少し過激すぎると会の中でも批判が出ていますぞ」

 フロイス師は何か言いたそうだったが、相手が巡察師なのでこれ以上は反論できずに口をつぐんでしまった。

「私たちは異教徒をも愛と真で導いていかなければいけません。そのためにはいろいろな創意工夫はいる。これも異教徒である仏教徒の言葉ですが方便ホーベンというものもあるのですよ」

「方便ですか。なるほど、うまいことを言った」

 やっとフロイス師は表情を変えたが、それは苦笑だった。

 この時私は方便の意味が分からなかったが、あとで聞くと仏教では悟りに近づかせるために、真実ではないが結果が有益になることを言って導くことがあり、そういった虚言は「方便ホーベン」として許されるのだそうだ。

 フロイス師は異教徒やその教義についてかなり詳しく研究してその奥義を極めているだけに、その異教徒攻撃にも重みがある。だが、例えばオルガンティーノ師のようにその奥義を適応主義の方に活かしたら、さらによい結果が出るということを私は実証したような気がした。

 日本文化は古来、外来のものを自分たちに同化させて受け入れてしまうという柔軟さがある。その性質を利用しない手はないと――利用というと言葉は悪いが――私は考えていたのだ。

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