4

 この国の武士サムライたちがその主君を思う心というのは、まるで尽きせぬ泉のように滾々と湧き出でて来るが、それはどこから湧いてくるのか。

 我われの国の騎士以上の忠誠心に時にはあきれるほどでもあるが、同時に心打たれることもある。こんな主君への忠誠心が厚い国民くにたみは、地球上の他にはいないかもしれない。

 そのあふれる忠誠心をもってこの国の信徒たちクリスティアーニは、その心を『天主ディオ』に向けている。その姿に、聖職者である我われも恥ずかしくなる時がある。いや、我われというと語弊があるが、少なくとも私は、だ。彼らはまるで赤子あかごのような忠誠心だ。

 奇しくも主は言われた。「もし汝ら翻りて幼児おさなごのごとくならずば、天国にるを得じ」と。そういったこの国の人びとの特殊性も、この国での福音宣教のあり方にも関係してくるのだろう。

 そんなことを私は考えているうちに、ヴァリニャーノ師と村人たちの話は終わっていた。

 とりあえずは、村人たちは帰って行った。

 それを待っていたかのようにヴァリニャーノ師は早速フロイス師に、

「ドン・パウロが臼杵に帰りたがらない本当の理由があるのではないですか?」

 と、尋ねていた。やはりフロイス師は何か言いにくそうに、

「それは…まあ、戸島で彼と会うことができたら、その時彼に直接お聞きください」

 とだけ言っていた。


 そういったこともあって、早くにドン・パウロ一条兼定に会いに行きたかったが、翌日も風向きは変わらなかった。船頭の話だと、この時期に風向きが変わるのはほんの一時期で、その機を逃さずに船を出して、南下した先の岬を回ればまた順風になるという。

 こうしてこの下田での停泊の日々が七日も続いた。ここは長宗我部の身内がいる中村城も近いので、できれば早く離れたかったが、そうもいかないようだ。その中村城こそが、かつてのドン・パウロの城だったのだ。

 我われが滞在中、あのドン・パウロの旧臣だった村人たちが、毎日食料を届けてくれるなどの世話をしてくれた。堺に行く時に、異教徒の一向宗門徒でありながら我われを親身で守ってくれたあの船頭の時もそうだったが、ここでも村人たちは異教徒ながらかのサマリヤ人のように我われの隣人となってくれたのであった。

 ヴァリニャーノ師は涙を流さんばかりに彼らに感謝をし、

「あなた方に『天主デウス』のご加護がありますように」

 と、いつも祝福していた。

 この言葉を何回か聞くにつけ、彼らはキリストの教えについてもその概略を話してほしいと願うようになってきた。

「わしらの主君が信じる教えじゃき、キリシタンの教えに間違いはないがぜよ」

 と、そんなことも言っていた。

 しかし、あらためてキリストの教えをひと言で説明しろといわれても、それは「ひと言」のくくりの中に入りきれる程度のものではない。私はヴァリニャーノ師がどう答えるか、聞き耳を立てていた。

「我われが信じる『天主デウス』とは、この世のありとあらゆるものをお創りになった方です。あなた方のいうカミホトケよりも上といっていいでしょう。そしてその『天主デウス』様のみ意を告げ知らせるために、人となって来られたのがその御ひとり子のイエズス・キリストです。イエズス様は教えを説いた後、当時の王に十字架にかけて殺されましたが、三日後に復活して『天主デウス』の栄光を表したのです」

「ほう。ほきイエズス様という方は、自分を殺した王をやっつけたのやき?」

「とんでもない。イエズス様は彼らを許しました。イエズス様が十字架に架けられたのは、私たちすべての人類の罪の肩代わりだったのです。そして主は罪に打ち勝った。そのすべては『天主デウス』にとってもイエズス様にとっても、この世のすべての人類が『御大切』であったからです。ですから、キリシタンの教えをあえてひと言で言うならば、それは天地の創造主の『天主デウス』様の『御大切』と罪の許しを説くものです」

「いやいやいやいや、こんな話は初めてだっっちゃ」

 村人らはみな口々にそう言って、興味を示していた。

 順風を待つまでの間、村人たちは毎日ヴァリニャーノ師の話を聞きに船に来たし、フロイス師も根気よくそれを通訳していた。そして、どうしたら信徒になれるのかという話までなったので、ヴァリニャーノ師が洗礼のことを告げると彼らは皆一様に受洗を希望したのである。

 それは非常に喜ばしいことであったが、いかんせんここは信長殿や大友殿にとっても敵地である。ここで彼らに洗礼を授けても、彼らは最初から司祭もおらず教会もない所で孤立してしまう運命にある。それはあまりにも不憫であるとヴァリニャーノ師は判断したようだ。

「洗礼を受けるにはもっと詳しい公教要理カテシズモというのを学んでからでないと許されません」

 ヴァリニャーノ師のその言葉を伝えてから、フロイス師は、

「もしあなた方がその心があるのなら、いつの日か必ず『天主デウス』様は恵みを下さるでしょう。もしあなた方にエンがあるのならば」

 と、付け加えた。ここでフロイス師は、この国の人が好んで使うエンという概念を使った。エンとは関係レラチオーネとか運命ソルテなどと似ているが、微妙に違う。『天主デウス』の恵みによる偶然の出会いインコントゥロ・カズワーレとも言えなくもないが、とにかく日本語で「エン」としか言いようがない。そして日本人はその「エン」をとてつもなく大事にするということもフロイス師はすでに知っているからさすがだと思った。

「あなた方に『天主デウス』様との『ご縁ゴエン』があるならば」

 この考え方は、仏教における『結縁ケチエンホトケ関係レラチオーネを結ぶこと)』をうまく転用している。これもフロイス師だけあって、さすがとしか言いようがなかった。その証拠に、村人たちはそれで納得してしまっていたからだ。


 このかんの日曜日には、これまで通り船の中で静かにミサを挙げたが、村人たちも参列してもらった。

 そして八日目になって、ようやく順風となった。

 この機を逃したら、今度はいつ出港できるかわからない。

 村人たちのことはすべて『天主デウス』様に委ねることにした。『天主デウス』様にもご都合もあろうし、時期というものもある。種まきさえしておけば、そこが耕されたいい土地ならば必ず芽が出ることを信じたい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る