3
翌日は、私が人びとの前に立った。
「皆さんは昨日、イルマン・ロレンソ了斎から洗礼による聖寵の話を聞きましたね。今日は皆さんが受ける洗礼について、少し補足しておきます」
まずは、こういう感じで語りだした。皆が息をのんで静まり返って聴いているので、かえって緊張してしまう。だが、前に官兵衛殿に話をした時のことを思い出し、頭では何も考えずに魂が口を動かす通りに、ただ聖霊の助けを願って話を進めた。
「洗礼によって何がもたらされるのか、それはひと言でいえば罪の許しです。キリストは私たち人類の罪を背負って十字架にかかりました。その時に渡された体、流された血によって私たちの罪を洗い浄めて下さったのです。その前の日の晩餐でイエズス様はパンとぶどう酒を聖別して、私たちがずっとずっとイエズス様の御体と御血を頂くことができるようにしてくださったのです。聖別しても、形の上ではパンはパン、ぶどう酒はぶどう酒のままです。でも、霊的にはそれはキリストの御体と御血なのです。それを頂くためには、まずは我われがキリストの十字架を受け入れなければいけない。それはキリストを遣わした『
あまりにも皆が静まりかえっているので、彼らが理解しているのかどうか私は気になった。まずは話の内容が分かっているかどうか、難しすぎないかどうか、そして私の日本語が通じているかどうか、一対一で話しているのならすぐに反応で分かるが、大勢の人に一斉にだとそのあたりが今一つ分からない。うなずいて聴いている人もいれば首をかしげている人、ポカンとしている人などさまざまなのだ。
「皆さん、私の話は分かりますか?」
それでもしばらく沈黙があったが、何人かが大きくうなずいて見せてくれた。このような時にあまり反応しないというのも、日本人の特徴の一つだということも、私は最近分かってきたばかりである。
「とりあえず続けます。
さらに私は長々と洗礼について述べた。そしていよいよしめくくる時間が来た。
「皆さんは、約束してください。洗礼を受けるに当たっては完全に悪魔と手を切らなくてはなりません。悪魔とは虚しい名誉、悪い楽しみ、現世の宝などに執着することを指します。これらを捨て、教会を信じ従うということを『
この日はそこまでとした。この日も聖霊の助けを借りて、私は成し遂げたという充足感と満足感に満たされていた。
翌日はまだ
次に私が彼らの前に立ったのはその二日後の木曜日。あと三日で洗礼式となる。そして次の日曜日のミサで入門式が執り行われることになっていた。
この日は私からの一方的な話ではなく、人びとからの疑問を受け付ける日とした。
最初はなかなか手が上がらなかった。日本人はこういうとき沈黙をしてしまう。それは謙譲の美徳ともいえるが、日本人は総じて
「皆さん、質問はありませんか? 質問をすればするほど、それがあなたが高められることになります」
それでも、ためらっている人がいるのは分かるが、手は上がらなかった。
「質問がないということは私が話したことがよく分かっていないか、あるいはもう何も聞かなくていいくらい何でも分かったということですよねえ」
私が冗談半分でそういうことを言ったら、ようやく恐るおそる手を挙げた者がいた。
「あのう、バテレン様はこのあいだ、わしらの罪は何でも許される言いよったったけど、『
「まあ、ひと言で言いますと、『
「これまでどくしょいこと仰山してきたわしらでも、許したったるんはほんまかいえ」
別の若いものが、また声を挙げた。一人が口火を切ると、あとは次々に連鎖的に質問は上がる。ただ、このあたりの漁師の言葉はよく分からないところもあって、私が聞きとれずに困った顔をしていたら、すかさず隣にいるロレンソ兄が私の分かる言葉で言い直してくれた。
「『
「はい、『
私は俄然、調子づいてきた。いつものように聖霊に満たされているようで、どんどん聖句が口を突いて出る。その時、
「あのう」
と、また別の人が手を挙げた。
「前に聞いたカテキズモでは、世の終わりの時にすべての人は墓からよみがえって最後の審判を受けるいうことやったけんど、この国のやんごとなきお方や一向宗門徒やらなんやらは遺体を墓につっこむ前に焼いてしまいまっせ。そないな場合どないなるんか」
私もそのような話は聞いていたが、今まで接してきた少なくとも
「世も終わりのよみがえりについては、はっきりとどのような形でかというのはイエズス様も何もおっしゃっていません。もしかしたら私たちには想像もできないような状況がその時に起こるかもしれません。ですから、どのようなことが起こってもいいように備えておいてください」
我ながらあいまいに濁した、答えになっていないような答えだなと自覚はしていたが、質問した者は納得していたような顔をしていたのでほっとした。
「ええでっか?」
別のものが手を挙げた。
「昔聞いた寺の
私にはその者が引用した言葉が理解できなかったので、そばにいたロレンソ兄に助けを求めた。ロレンソ兄は小声で私にその意味を説明してくれた。つまり、家族の誰かが一人仏教の教えに入門して僧になれば、家族は全員が自動的に救われるという意味だそうだ。私は質問した者の方を見た。
「私たちはあくまで一人ひとりが『
「まあ、それで家族が洗礼を受けそれでええいうことになっても、わしらのご先祖さんはどないなんけ。先ほど言うた九族っちゅうのは、もう
私は一瞬、どう答えていいかわからなかった。何も考えずにひらめきにまかせようと思っても、口からは何の言葉も出ない。まさしく想定外の質問だったのだ。
しかし、いつまでも黙っているわけにもいかず、私は口を開いた。
「まずはあなた方が、キリストより以前に生まれた人ではないこと、キリストと同時代に生きていたけれどキリストを知らずに死を迎えた人ではないこと、そしてキリストの福音が地の果てまで伝えられている今にあってもまだ福音に接したことのない人でもなく、また接していても故意に受け入れない人でもないことを『
かつてマカオにいた時に受けた
「そないなことちゃいまんがい。ご先祖はんはキリシタンの教えがこの国に来やへん前に
どうもこの地方の漁師の言葉で言われると、きつい口調でとがめられているような気になる。
「残念ながら
「ちょう待ってや。わしら、今こうして生きてるんも、全部ご先祖はんのお蔭じゃ。そのご先祖はんが煉獄いう所で苦しんどってやなんて、聞き捨てにならしまへんわい」
「そうじゃ、そうじゃ。今、わしらがここにおるんも親、爺ちゃん、婆ちゃん、そしてご先祖はんがおってやったからで、先祖はんがおってやってくれたおかげで、わしらは肉身を持ってこの世に生まれてきた」
人びとの間にどよめきが起こった。
「わしら、毎日お位牌を祀って、ご先祖はんには感謝の祈りを捧げっとうます」
正直言って私は戸惑ってしまった。このような考え方を私はしたことがない。いや、私だけではなく、私の国では司祭とかそうでないかに関係なく誰ひとりこのように考える人はいない。
その時私の脳裡に閃いたのは、かつての官兵衛殿のような殿という人たちにはキリストの教えとこの国の従来の
「皆さん。私は先日、皆さんに洗礼を受けるに当たって、すべての悪とは手を切るようにお願いしました。私たちが祈り、崇めるのは唯一絶対の『
「ちょう待て、ちょう待て。わしらのご先祖はんが悪魔かいや」
人びとは一斉にどよめき立った。
「いえ、そのようなことではありません」
「そないなことちゃうでって、今バテレン様はご先祖様を祀ったらあかん言いよってやった。せやけど、ご先祖はんへの感謝の現れとして供養するんは子孫として当然の務めちゃいますやんな」
私は慌ててなだめようとしたが、一部の人たちは立ち上がって抗議してきた。それを私の代わりになだめて座らせようとしている人たちもいる。だが互いに早口で言われたら私はもう彼らが何を言っているのかわからず、またその口調は喧嘩以外の何ものでもないかのように感じられた。
「だぼが、わやにしくさりおって。わしゃ往ぬわい」
立ち上がって騒いでいた若い漁師は大股で飛び出し、十人くらいがその後を追った。
「ちょっと待ちなはれ」
同席していた弥九郎殿も、慌ててその後を追って行った。
残った人たちはぽかんとしていたが、私自身が茫然としてしまった。どうしてこのようなことになってしまったのか、そしてこの場をどうしたらいいのか、そういったことで頭の中が真っ白になっていた。
とりあえずはこの日の話をここで打ち切るしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます