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 翌日は、私が人びとの前に立った。

「皆さんは昨日、イルマン・ロレンソ了斎から洗礼による聖寵の話を聞きましたね。今日は皆さんが受ける洗礼について、少し補足しておきます」

 まずは、こういう感じで語りだした。皆が息をのんで静まり返って聴いているので、かえって緊張してしまう。だが、前に官兵衛殿に話をした時のことを思い出し、頭では何も考えずに魂が口を動かす通りに、ただ聖霊の助けを願って話を進めた。

「洗礼によって何がもたらされるのか、それはひと言でいえば罪の許しです。キリストは私たち人類の罪を背負って十字架にかかりました。その時に渡された体、流された血によって私たちの罪を洗い浄めて下さったのです。その前の日の晩餐でイエズス様はパンとぶどう酒を聖別して、私たちがずっとずっとイエズス様の御体と御血を頂くことができるようにしてくださったのです。聖別しても、形の上ではパンはパン、ぶどう酒はぶどう酒のままです。でも、霊的にはそれはキリストの御体と御血なのです。それを頂くためには、まずは我われがキリストの十字架を受け入れなければいけない。それはキリストを遣わした『天主デウス』との和解を意味します。そのための儀式が洗礼であると考えていいでしょう。ですから、洗礼を受ければ人類が『天主デウス』に対して最初に犯した罪、『天主デウス』が食べることを禁じた善悪を知る木の実を食したという罪、さらに言えば『天主デウス』に反逆した人類共通の罪がまず許され、それから皆さんが個々に抱いていた罪も許されます。罪の許しは『天主デウス』の無限のいつくしみから発します」

 あまりにも皆が静まりかえっているので、彼らが理解しているのかどうか私は気になった。まずは話の内容が分かっているかどうか、難しすぎないかどうか、そして私の日本語が通じているかどうか、一対一で話しているのならすぐに反応で分かるが、大勢の人に一斉にだとそのあたりが今一つ分からない。うなずいて聴いている人もいれば首をかしげている人、ポカンとしている人などさまざまなのだ。

「皆さん、私の話は分かりますか?」

 それでもしばらく沈黙があったが、何人かが大きくうなずいて見せてくれた。このような時にあまり反応しないというのも、日本人の特徴の一つだということも、私は最近分かってきたばかりである。

「とりあえず続けます。天国ハライソは不正な行い、思いを持つ者は入れません。他人に不正を行う者、偶像を崇拝する者、姦淫を行い、また男色を行う者、盗む者、貪欲なもの、酒を飲み過ぎて酒びたりになる者、他人の悪口を言う者、人を騙す者などは天国ハライソへ入れません。でも、そんなこと言われてももう遅いという方もいるでしょう。でも、大丈夫です。過去にそのようなことをしてきてもそれを悔い改めた人なら、その罪は洗礼を受ければ許されるのです。洗礼によって人は新たに生まれるのだと、昨日イルマン・ロレンソから聞きましたね。洗礼によって『天主デウス』の子となり、さらに公教会の子となります。公教会の掟を守ることをはじめとして、公教会の教えに従わなくてはならなくなりますが、その代わり大いなる天の財宝が与えられるのです。昨日のイルマン・ロレンソの話でイエズス様は『人は新しく生まれ直さなければならない』と言われたとありましたが、イエズス様はその時「水と聖霊によって」と仰せになっています。水で罪を洗い流し、聖霊で浄めます。聖霊の本質は霊的な火であり、光なのです。皆さんが洗礼を受ける時、水を注がれながら私がある言葉を唱えるのを聞くと思います。その時はラテン語で唱えますから皆さんには分からないと思いますので、今のうちに何と言うのか教えておきましょう。それは『私は父と子と聖霊との御名によってあなたを洗う』という言葉です」

 さらに私は長々と洗礼について述べた。そしていよいよしめくくる時間が来た。

「皆さんは、約束してください。洗礼を受けるに当たっては完全に悪魔と手を切らなくてはなりません。悪魔とは虚しい名誉、悪い楽しみ、現世の宝などに執着することを指します。これらを捨て、教会を信じ従うということを『天主デウス』様に誓わないといけません。初期の教会でもイエズス様の第一の弟子だったペトロは、自分の罪を捨てて『天主デウス』に立ち返るよう教えています。そのためにはイエズス様をキリストとして認め信じることです。皆さんは大人になってから洗礼を受けるわけですから、教会の教えをよく理解して固く信じ、また自分の罪を痛悔しなければなりません」

 この日はそこまでとした。この日も聖霊の助けを借りて、私は成し遂げたという充足感と満足感に満たされていた。


 翌日はまだ信徒クリスティアーノにはなっていない人たちだから正式にではないけれど、彼らが罪の通悔の手助けになればということで、個別に罪を聞いてあげることにした。

 次に私が彼らの前に立ったのはその二日後の木曜日。あと三日で洗礼式となる。そして次の日曜日のミサで入門式が執り行われることになっていた。

 この日は私からの一方的な話ではなく、人びとからの疑問を受け付ける日とした。

 最初はなかなか手が上がらなかった。日本人はこういうとき沈黙をしてしまう。それは謙譲の美徳ともいえるが、日本人は総じてティーミド(シャイ)であり、また誰かが手を挙げたら続いて自分も質問しようと周りの様子をうかがっているものも見受けられる。やはり、そういう国民性なのだ。

「皆さん、質問はありませんか? 質問をすればするほど、それがあなたが高められることになります」

 それでも、ためらっている人がいるのは分かるが、手は上がらなかった。

「質問がないということは私が話したことがよく分かっていないか、あるいはもう何も聞かなくていいくらい何でも分かったということですよねえ」

 私が冗談半分でそういうことを言ったら、ようやく恐るおそる手を挙げた者がいた。

「あのう、バテレン様はこのあいだ、わしらの罪は何でも許される言いよったったけど、『天主デウス』様はなんでそんな罪を許してくれるんかいえ」

「まあ、ひと言で言いますと、『天主デウス』様の慈しみですね。あなた方一人ひとりが皆『天主デウス』様の御大切なのです。『天主デウス』様の慈しみは永遠です。時間的に永遠であるというだけでなく、あらゆる場所において永遠なのです。イエズス様はご受難に向かう前に、この『天主デウス』様の慈しみの永遠を賛美する歌を歌いながら捕らえられた園へと向かいました。ご自分にこれから起こるであろうことを、イエズス様は全部ご存じだった。それなのに『天主デウス』様を賛美する歌を歌っておられたのです。『天主デウス』様は限りない慈しみで私たちを哀れみ、罪から解き放って下さいます。それはもう、はらわたがちぎれるほどの慈しみなのです」

「これまでどくしょいこと仰山してきたわしらでも、許したったるんはほんまかいえ」

 別の若いものが、また声を挙げた。一人が口火を切ると、あとは次々に連鎖的に質問は上がる。ただ、このあたりの漁師の言葉はよく分からないところもあって、私が聞きとれずに困った顔をしていたら、すかさず隣にいるロレンソ兄が私の分かる言葉で言い直してくれた。

「『天主デウス』様はごじゃ心の広いお方やのう」

「はい、『天主デウス』様はけた外れに辛抱心の強いお方です。その慈しみが、常に辛抱心を上回ります。『天主デウス』様は私たちの罪を許し、病を癒し、私たちの命を死から救ってくださいます。私たちに慈しみと哀れみの冠をかぶせてくださるのです」

 私は俄然、調子づいてきた。いつものように聖霊に満たされているようで、どんどん聖句が口を突いて出る。その時、

「あのう」

 と、また別の人が手を挙げた。

「前に聞いたカテキズモでは、世の終わりの時にすべての人は墓からよみがえって最後の審判を受けるいうことやったけんど、この国のやんごとなきお方や一向宗門徒やらなんやらは遺体を墓につっこむ前に焼いてしまいまっせ。そないな場合どないなるんか」

 私もそのような話は聞いていたが、今まで接してきた少なくとも信徒クリスティアーノの日本人は普通に土葬にしているので問題にはしてこなかった。だからどう答えていいか、一瞬戸惑った。

「世も終わりのよみがえりについては、はっきりとどのような形でかというのはイエズス様も何もおっしゃっていません。もしかしたら私たちには想像もできないような状況がその時に起こるかもしれません。ですから、どのようなことが起こってもいいように備えておいてください」

 我ながらあいまいに濁した、答えになっていないような答えだなと自覚はしていたが、質問した者は納得していたような顔をしていたのでほっとした。

「ええでっか?」

 別のものが手を挙げた。

「昔聞いた寺のボンはんの話では、お釈迦様は『一人いちにん出家すれば九族天に生ず』と言うてやったったそうやけど、キリシタンでも同じやろけ?」

 私にはその者が引用した言葉が理解できなかったので、そばにいたロレンソ兄に助けを求めた。ロレンソ兄は小声で私にその意味を説明してくれた。つまり、家族の誰かが一人仏教の教えに入門して僧になれば、家族は全員が自動的に救われるという意味だそうだ。私は質問した者の方を見た。

「私たちはあくまで一人ひとりが『天主デウス』様に向き合います。ですから、もし家族や親戚を救いたければ、家族に福音を述べ伝え、家族がキリストに出会い、キリストを受け入れて信仰を告白するように、洗礼を受けるように持っていかねばなりません」

「まあ、それで家族が洗礼を受けそれでええいうことになっても、わしらのご先祖さんはどないなんけ。先ほど言うた九族っちゅうのは、もううなりよったご先祖はんも含みまっせ」

 私は一瞬、どう答えていいかわからなかった。何も考えずにひらめきにまかせようと思っても、口からは何の言葉も出ない。まさしく想定外の質問だったのだ。

 しかし、いつまでも黙っているわけにもいかず、私は口を開いた。

「まずはあなた方が、キリストより以前に生まれた人ではないこと、キリストと同時代に生きていたけれどキリストを知らずに死を迎えた人ではないこと、そしてキリストの福音が地の果てまで伝えられている今にあってもまだ福音に接したことのない人でもなく、また接していても故意に受け入れない人でもないことを『天主デウス』様に感謝しましょう」

 かつてマカオにいた時に受けた霊操イージーシーシィウス イウピリトゥアイスの中で、このようなことを聞いたような気がする。この時なぜか、そのようなことを思い出した。だが、聴いている日本の民衆たちは、うまく理解できていないようだった。

「そないなことちゃいまんがい。ご先祖はんはキリシタンの教えがこの国に来やへん前にうなってやったったさけえキリストと出会わへんし、洗礼も受けてへんし、そやったら罪も許されへんでどないなっておまんかいな」

 どうもこの地方の漁師の言葉で言われると、きつい口調でとがめられているような気になる。

「残念ながら天国ハライソに行くことは無理でしょう。でも、煉獄プルガトリオで苦しんでいるとしても、私たちの祈りの力で霊魂を救って天国に上げることはできます」

「ちょう待ってや。わしら、今こうして生きてるんも、全部ご先祖はんのお蔭じゃ。そのご先祖はんが煉獄いう所で苦しんどってやなんて、聞き捨てにならしまへんわい」

「そうじゃ、そうじゃ。今、わしらがここにおるんも親、爺ちゃん、婆ちゃん、そしてご先祖はんがおってやったからで、先祖はんがおってやってくれたおかげで、わしらは肉身を持ってこの世に生まれてきた」

 人びとの間にどよめきが起こった。

「わしら、毎日お位牌を祀って、ご先祖はんには感謝の祈りを捧げっとうます」

 正直言って私は戸惑ってしまった。このような考え方を私はしたことがない。いや、私だけではなく、私の国では司祭とかそうでないかに関係なく誰ひとりこのように考える人はいない。

 その時私の脳裡に閃いたのは、かつての官兵衛殿のような殿という人たちにはキリストの教えとこの国の従来のカミホトケの教えとの共通点を強調した方がいいというロレンソ兄の助言だった。だが、その時ロレンソ兄は同時に、庶民に対しては逆で、むしろ違いを強調した方がいいと言っていた。

「皆さん。私は先日、皆さんに洗礼を受けるに当たって、すべての悪とは手を切るようにお願いしました。私たちが祈り、崇めるのは唯一絶対の『天主デウス』様だけです。それ以外のものを祀って祈りをささげればそれは偶像崇拝です。すなわち、悪魔崇拝になります」

「ちょう待て、ちょう待て。わしらのご先祖はんが悪魔かいや」

 人びとは一斉にどよめき立った。

「いえ、そのようなことではありません」

「そないなことちゃうでって、今バテレン様はご先祖様を祀ったらあかん言いよってやった。せやけど、ご先祖はんへの感謝の現れとして供養するんは子孫として当然の務めちゃいますやんな」

 私は慌ててなだめようとしたが、一部の人たちは立ち上がって抗議してきた。それを私の代わりになだめて座らせようとしている人たちもいる。だが互いに早口で言われたら私はもう彼らが何を言っているのかわからず、またその口調は喧嘩以外の何ものでもないかのように感じられた。

「だぼが、わやにしくさりおって。わしゃ往ぬわい」

 立ち上がって騒いでいた若い漁師は大股で飛び出し、十人くらいがその後を追った。

「ちょっと待ちなはれ」

 同席していた弥九郎殿も、慌ててその後を追って行った。

 残った人たちはぽかんとしていたが、私自身が茫然としてしまった。どうしてこのようなことになってしまったのか、そしてこの場をどうしたらいいのか、そういったことで頭の中が真っ白になっていた。

 とりあえずはこの日の話をここで打ち切るしかなかった。

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