6

 翌日は午前中に本丸に出向いて羽柴筑前殿にいとまを請い、姫路を出発した。今回の目的地である室津に向かうためだ。筑前殿は本当に忙しそうにしていて、愛想はよかったが、我われの挨拶にそう時間は避けられない様子だった。

 姫路から室津までは昼前に出ても、日が長いこの季節なら十分に明るいうちに着ける距離だという。

 私とロレンソ兄、そして介添えの同宿の三人は城門の所まで見送りに来てくれた官兵衛殿とその奥方、そして息子の松寿に別れを告げ、姫路を後に再び旅路についた。今度は途中に泊まりのない短い旅だ。

 しばらくは平らな播州バンシュー平野の水田の中を道は続いていた。田の稲はもうかなり伸びて、時折吹きぬける風に青々とした波を描いていた。

 行く手に向かって右の方はずっと低い山脈が遠くの方に断続的に横たわっているが、左手は山はない。風はそちらの方から吹いて来て、潮の香りを含んでいることから、見えはしないがかなり海に近い道を進んでいるようだ。

 よく晴れた空から日差しはかなり強く照りつけていて、本格的な夏も間近であることを感じさせていた。姫路に着いた日が聖母訪問の祝日だったから、もうすでに六月に入っている。

「やはり筑前殿はキリシタンには無理でしょうか」

 歩きながら馬上から、私は馬を並べるロレンソ兄に話しかけた。

「すべて何ごとも人間の頭で決めつけることはできませんけれど、今の状況では難しいでしょうな。それよりもあの官兵衛殿の方が見込みがあります。なかなか筋の通ったお方で、筑前殿だけでなく上様からも大変信頼されております。今後、毛利とのいくさが終われば、筑前殿はその居城である長浜に戻ってしまわれるかもしれません」

「たしかに、戦争が終われば姫路の城はあの官兵衛殿に返すと、筑前殿は言われてましたね。官兵衛殿は辞退していましたけれど」

「すべては信長殿の胸三寸にありますからね。毛利との戦のあと、信長殿が筑前殿をどこに持っていかれるか…。しかし、あの姫路はもともと官兵衛殿の城ですから、また官兵衛殿が姫路城主として返り咲くことも可能性としては大いにあります」

「つまり、そうなりますと、官兵衛殿がキリシタンになってくれれば大変有り難い。官兵衛殿の魂の救われだけではなく、今はほとんどキリシタンのいなかった姫路でしたけれど官兵衛殿がジュストのようになって、姫路が高槻のようにキリシタンであふれかえるというのも夢ではないわけですね」

「そうです。そうなりますと播磨の国での福音宣教は飛躍的に伸びるでしょう。核となるのは、今私たちが向かっているキリシタンも多い室の港ですな」

 ロレンソ兄は、声を挙げて笑った。


 そして、何本かの大きな川も越えた。川の幅の広さからも、河口が近いことが分かる。そして二時間も歩くうちに左手にはちらほらと、水田越しに海が見えるようにもなってきた。だが、まだ道は海沿いにはすぐには出なかった。いつしか海は遠ざかり、道の両方に山が迫ってきた。そう言うと大げさだが、実際は連続する小高い丘と丘の間に道が入っただけで、道自体は平らなままだった。その丘が次第に低くなってきた頃にパッと視界が開け、海が見えた。

 そこは入り江のいちばん奥のようで、丘の先端は左右で岬となって延びている。その入江の奥にある集落へと道は続いていた。私は馬を止め、集落の方に向かってロレンソ兄と馬を並べた。

「入り江に面した港町に着いたのですが、ここが室津ですか」

 と思わず私はロレンソ兄に聞いた。

「集落が見えますか?」

 とロレンソ兄が聞くので、私は見えている入り江と村の光景をかいつまんで語った。ロレンソ兄は笑った。

「まだ、室津ではありません。ここは岩見村でしょう。ただの漁村ですよ」

 たしかに港といっても漁港のようで、聞いていた室津のような活気はなかった。

「でも、ここまで来たなら、もうすぐです」

 またロレンソ兄は、さわやかな笑顔を見せた。介添えに合図して、介添えの少年は手綱を引いて馬を歩ませた。

 それからは、道は右手の岬づたいに続く海沿いの道となった。山の下の海岸線が道となっておりその海岸線にそってかなり曲がりくねっている。道から見ても海はまだだいぶ下の方だった。

 広がっているのは瀬戸内の穏やかな海だ。そして海の向こうは対岸の陸地やいくつもの島ががかすんで見えており、水平線は見えなかった。知らない人が見たら湖か巨大な川だと思うだろう。あの安土の城の麓の琵琶の湖も、確かにこれくらいの広さはあったような気がする。

 だが、湖と決定的に違うのは風の中に潮の香りがすることで、どんなに同じくらいの広さであってもやはり海と湖では根本が違うのだと私は実感した。

 右手は山、左手は海という道を進んでいるうちに、私はある光景を思い出していた。ちょうど二年前の夏、マカオに着く前にチーナの入り口ともいえる小さな島で、ザビエル師のゆかりの教会跡を訪ねた。その島の港から教会跡までの道と風景が似ている気がした。ともに山の麓の海岸線の道だ。海の向こうには島と陸地が見えることも同じだ。

 間もなくあれから二年がたとうとしている。日本に来たのはその約一年後だから、あとひと月もすれば私が日本に来てから一年になるのだ。

「月日がたつのは本当に早いものですね」

 私は唐突にそう言ったので、ロレンソ兄は話の脈絡がつかめず、

「はい?」

 と言って、馬上で首をかしげていた。

 そしてそろそろ室津も近いということで、私の問われるままに我われが訪ねるドン・ジョアキムの次男という人について、ロレンソ兄はかいつまんで話してくれた。名は弥九郎殿というらしい。農民から武将、すなわち殿となった羽柴筑前殿も十分に珍しいが、商人の子として生まれ、商人として育ったその弥九郎殿が今は武士サムライになっているというこれはこれで珍しいケースだ。だから私は急に、その人物に興味がわいてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る